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白饅頭に思想はあるか? 一読者から見た意見

もーちです。本日は

アンフェ界隈にいま巻き起こっている騒動について書きます。

白饅頭はパクリ?

もはや「思想」を喪失している?


 数年前に白饅頭Noteと出会い、去年までのバックナンバーは全部読破しましたが、まさに白饅頭氏の「思想」部分と反りが合わないなと思って購読をやめた自分としては、白饅頭氏が思想のない人物のように言われていることはむしろ驚きでした。

 説得力のある文章を書くという営為が大変すぎて平常このような記事を書かないのですが、ここはアンフェの未来を憂いて、一読者から見た白饅頭氏の思想が「あるよ!」ということについて説明します。

筆者…ただの一般VRChatter。小山ファン


念の為断っておくが

上記記事においてVRChatにおけるドロドロのグッチャグチャになったお砂糖三角関係多股浮気リアル不倫関係について語ったとされる有識者ではない。




白饅頭氏は思想を喪ったのか

一貫性がない?


→いや、一貫性はある!

「独身様」が申し訳なさそうに生きる時代はくるか――白饅頭 vs Rei 論争

 ここでは「白饅頭 vs Rei 論争」を取り上げながら、白饅頭氏の思想のひとつを探っていく。
 「白饅頭 vs Rei 論争」という用語は筆者が勝手に名付けたもので、白饅頭氏が過去に「これからの時代は子持ちが称揚され独身の肩身が狭くなる」という社会の未来像を提出したところ、Rei氏がそれを全否定する未来像をもって一蹴した件。

なお実際には論争《レスバ》は発生していない。

 Rei氏は韓国社会の姿を見れば10年後の日本が分かると持論する通り、その未来予測には高い確度があると伺われる。
 では白饅頭氏はどうか。じつはこの論争における氏の予測には重要な背景がある。

白饅頭氏のミクロな思想


 白饅頭氏が「これからの時代は子持ちが称揚され独身の肩身が狭くなる」と主張するのは

行動する者こそが幸福を享受し、理由をつけて行動しないものはジリ貧になる」という思想があるからだ。

 なので引きこもりには「フォークリフトの免許を取れ」とアドバイスするし、「とりあえず何かやってみる」ことをすすめるし、「呼ばれてもいない人の結婚式に参加する(あるいは誘う)こと」は自分の人生に幸運を呼び込むという考え方をする。


「これからの時代は子持ちが称揚され独身の肩身が狭くなる」

というのは、リスクを考えて結婚しない=行動しないという賢い選択肢をえらびとったように見えても、その先には予想外のリスクが潜んでいますよという話で、これは「コロナ禍でリスクを考えて自粛した大学生と、自粛しなかった大学生の間で就活格差が開いてしまった」という話題と同じ構造である。


近年話題の「45歳独身狂う説」も同じである。リスクを考えて行動しない=結婚しないという賢しらな選択の先にも、当然リスクはあるし罠が潜んでいますよという白饅頭氏のいかにも好むテーマである。この傾向は一貫して変わらない。

「45歳独身狂う説」については
・結婚しないことにそこまでの(狂うほどの)リスクはないのでは?
・日本的制度の歪みで男性は結婚することにリスクが大きすぎるのでは?

という狂人氏による指摘がある。


 「45歳独身狂う説」による結婚しないリスクの過大評価は確かにやりすぎだった。しかし白饅頭氏はリスクの解像度が上がったところで「結局は(自分の人生によいものをもたらすには)行動するしかない」「やらない理由ばかり見つけるな」と助言することだろう。

「行動する者が幸せになる」という法則は、小山氏の記事『「独身男性よりも既婚男性の方が自殺しやすい」という不都合な真実』による徹底的な論証によっても否定されたわけではない。

①結婚して幸福になった男性の幸福度>独身男性の幸福度だったことは事実
②結婚して幸福になった男性の数>結婚して離別して不幸になる男性の数は事実

というものすごく乱暴な観点で見れば、やはり「行動する者が幸せになれる」はまちがっていないからだ。行動すれば50%以上の確率で今より幸せになれる。

 というか、結婚という行動に伴うリスクは白饅頭氏の大人観には必要不可欠なファクターである。

 日本という社会に生まれた個人が、木簡を読む研究者のようなフリーライダーにならず労災のおそれがある労働強度の高い労働、もしくは出産、結婚など、個人ではどうしようもない理不尽なリスクを伴った選択を覚悟して引き受けることによって、はじめて”大人”(近代のおとな)になり、そうした大人たちが共同体を維持していくことによって世の中は成り立っているというのが白饅頭Noteを読み込んだ筆者の理解だ。
 (さらに言えばこうした共同体を維持する努力を払う大人に対して木簡フリーライダーが持たなければいけない尊敬の念といった意識規範が「弁え」である)

(一応、関連性のある記事)

 現代日本における結婚は、未開部族の成人の儀のバンジージャンプと同じように、危険だからこそ大人へのイニシエーション(通過儀礼)の役割を果たしている。

「行動しろ、責任《リスク》を引き受けて大人の仲間入りしろ、共同体を維持しろ」

と彼は言いたいのである。これは古代ローマにおける「兵役」と非常に近い概念だろう(「行動しろ=剣を握れ、リスクをとれ=勇敢になれ、共同体を維持しろ=女子供を守れ」、大人の仲間入り=市民権)

白饅頭 vs Rei 論争の評価

 白饅頭氏が「これからの時代は子持ちが称賛され、独身者の肩身が狭くなる」と予言するのは、「子持ちは肩身が狭くなる」という逆が現実なら「結婚」のリスクを避けた者よりむしろリスクある行動をした者が厳しい境遇に置かれることになり、

「行動する者が報われる」という世界観と齟齬するためだ。


この記事はあくまで「そうなったらいいな」という希望的観測に基づいて書かれたもので、社会学でいう「予言の自己成就」を狙ったのではないかと推測できる。もちろん白饅頭氏は本気で信じている可能性もある(そこは論証しようがない)が、それだと分析が甘くね?で話が終わってしまう。
もしこれが白饅頭先生一級のレトリックとすれば

白饅頭 vs Rei 論争の本質は

Rei氏:「いま揃っている情報をすべて吟味するとこの結論が妥当だろ」vs
白饅頭:「未来はこうなると予測したら社会は良くなるだろう」

の対立と考えることができる。

「予言の自己成就」とは、根拠のない噂や思い込みであっても、人々がその状況が起こりそうだと考えて行動することで、事実ではなかったはずの状況が本当に実現してしまうこと。アメリカの社会学者ロバート・K・マートンが提唱しました。

https://jinjibu.jp/keyword/detl/1211/
より引用


個人的には未来に確実性はなくどこまで行っても不確実であるので、インフルエンサーがポジティブな未来予想をして予言の自己成就を狙うことがあっても間違いではないとする立場だ。当然そういった記事に関しては話半分で聞かなければいけないことになるが。

前半のまとめ:

白饅頭氏のミクロな思想は
「行動する者こそが幸福を享受し、理由をつけて行動しないものはジリ貧になる」

だった。成功のためのアドバイスである「行動しろ」に対し「具体的には?」ということで書かれたさまざまな記事のひとつが「デコを出せ」だ。

マクロが苦手?

これは明白な誤解で、白饅頭氏はデコ出せと言ってるだけの美容師でもなければ、「マクロ視点で社会を論じるのが不得手」でもない。これから後半部分ではそれを見てゆく。

白饅頭氏のマクロな思想

持続性の思想というものが思想家・白饅頭にはある。

共同体を持続させない価値観には価値がない、共同体を持続させる価値観にこそ価値がある
「共同体を維持することのできる考え方こそがまっとうな大人の考え方」

というものだ。

 2種類の思想がある。ひとつは全員がその思想に染まってゆけば共同体が維持できないもの。もうひとつは全員がその思想に染まっても共同体が維持されるもの。自由主義の社会にはこの2つの価値観が混同して存在するが、伝統社会ではもちろん後者が支配的だった。

 たとえ個人にとって最適になりうるとしても、それが積み重なれば社会が持続できないようなMGTOW反出生主義「おひとり様文明」などの思想を白饅頭氏が支持したことは記憶する限りない。

 反対にハンガリーの独裁者オルバンローマ教皇など、現代的には”正しくなく”ても共同体の持続性のことを考えている指導者(≒伝統主義者)に対して、白饅頭氏はかなり同情的である(まるでフォースのダークサイドをギリギリ踏みとどまっているような印象)

つまりはそういうことだ。

ここで注釈する。「共同体を持続させない価値観には価値がない」「人権思想は一代限りのぜいたく品」とあわせて、「白饅頭氏は人権思想に価値がないと考えている」ような誤解を生みかねない。

そうではない。ここでおもむろにコミュニタリアンの項(Wikipedia)を引用する。

共同体主義は、現代の政治思想の見取り図において、ジョン・ロールズらが提唱する自由主義(リベラリズム)に対抗する社会学と徳倫理に大きな影響を受けた思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。共同体の価値を重んじるとはいっても、個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わないというような全体主義・国家主義の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ、共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。

「コミュニタリアン」https://ja.wikipedia.org/wiki/共同体主義

”個人を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わないというような全体主義・国家主義の主張ではなく”

”自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する”

これに近い。白饅頭氏といえば民主的な手続きを重視する立場からのキャンセルカルチャー批判

言論の自由を重視する立場からのオープンレター批判など、自由主義の立場にたった言論でも知られている。

 言論の自由などの消極的自由は運用コストが低く、こうしたいわば”ハーフスペックの人権”はリソースを食いつぶして共同体を消滅させることはないばかりか、われわれの安全を保障する素晴らしいものだ。
 何より、近代以前の伝統社会にはもう帰れない。

「(自由民主制に留まりつつも)共同体を持続させる価値観にこそ価値がある

という信念であると解するべきだろう。
 この共同体の持続という概念を用いて、白饅頭氏の社会批判ほぼすべてに一本の線を通すことができるのだ。

たとえば白饅頭氏が憎悪する文系左翼アカデミアには持続性がない

「お人権とかポリコレ的なリベラル左派ノリは本質的には持続可能性ゼロの一代限りの個人主義」by 非常口

 また筆者も好きな言説である世の為になって働く労働者への感謝・激励は、まさに共同体を直接維持している生産を担う労働者の価値を高くおき、剰余を消費するだけの職業を下に位置づけるべきとする表明に他ならない(ポルポト饅頭

極論を言ってしまえば、私のこの仕事は、明日からこの世に存在しなくなっても、究極的にはだれの生活も困ることはない。私の仕事は、人間の生命の存続においては不可欠な仕事ではないからだ。少なくとも生存に関して「あってもなくてもどうでもいい仕事」なのである。
 しかしながら、私の(本当ならあってもなくてもどうでもいい)仕事がこうしてひとつの「仕事」として成立して、私に生活の糧を与えてくれているのは、他の人びとがそれぞれの仕事によって社会を安定的に維持して、私の生業を「仕事」として成立させてくれるためのいわば「隙間(余裕)」をつくってくれているからだ。

白饅頭日誌:10月10日「世界は誰かの仕事でできている」


 さらに「from:terrakei07 社会保障費」でサーチすればわかる老人世代に対する問題意識や、「子持ちが称賛され、独身者の肩身が狭くなる」(なってくれええええ!!!)といった言説もまた、共同体を維持する既婚者や共同体を食いつぶす老人の評価を正常化したいものとして理解することができる。



 「かわいそうランキング」に代表される弱者への配慮
は、「弱者を疎外したままにする共同体は維持できない」という問題意識から回収できる。

 白饅頭氏が繰り返し紹介するエピソードに「原始社会には存在したであろう一夫多妻社会は、人口再生産そのものはできたかもしれないが、非婚となった多数の男性たちからの協力を得ることができず、周囲の共同体との争いや環境に負けて滅びた」というものがある。社会におけるポジション争いに敗北した男性を放置すれば共同体は持続できない。

 細かいことを言うと、初期に遡るほど白饅頭氏の共同体持続的志向は薄まってゆき、弱者救済的な側面が強くなっていく(いわゆる思想の変遷)。これは「かわいそうランキング」を執筆したときの氏はまだ若く、正義感や社会的使命が先行することがあったものの、その後ライフステージの変化を経て「共同体を維持することのできる考え方こそがまっとうな大人の考え方である」となり、持続性とのバランスを考えるようになったと


における東浩紀のエピソードから類推することができる。これは若年から壮年になった為というより、「かわいそうランキング」を起草したときの白饅頭氏はおそらくまだ会社を経営していなかったが、その後みずから会社を経営するようになったことで、「地に足のついた考え方」ができるようになり、「かわいそうランキング」に代表される弱者への配慮というテーマは、次第に共同体を維持するため(=ジョーカーや寝そべり族にどう対処するか)の弱者論に移っていった。

産んだス文明は「幻想」か――

ここでは「産んだス文明」と小山による批判を検討する。

 白饅頭氏は「この時代、個人がどう生きるかは自由なのだけれど、やらない理由を見つけるよりは行動したほうが幸せになれるよね(=ライフプランとしての結婚も”やってみる”のが個人最適)」と主張する。

ライフプランとしての結婚をやってみることを後押しする代表的な記事が「産んだス文明」だ

 この概念はちょっと甘いと小山氏に突っ込まれた。というか、そんなものはこの地球上に存在しないとバチクソに批判された。

”その規範に従って生きようとする人間をたった1人ですら見出せない”

”現状の改革を志向しない無理筋の現状維持”

 白饅頭氏のスタンスが現状追認的であることは筆者もNote購読して嫌と言うほど感じている。小山氏に白饅頭には思想がないと言われてしまうのは、この世界の変革を志向しない白饅頭氏の態度にも原因があると思われる。

 たとえば現状の歪んだ結婚制度について、「結婚制度を変革しよう」と白饅頭氏はなぜまず呼びかけないのか。
 筆者的には白饅頭氏が明日突然「日本の結婚制度はおかしい」という内容のNoteを書いてもそれほど不自然ではないのだが、強いて言うなら「結婚制度はおかしいから変えるべき」と主張することによって、「おかしい制度なら結婚しないでおこう」「いまは結婚するには時期が悪い」と読者にできない・しない理由を提供することを嫌がっているのではないか

「否定や批判」にせよ、「やる」にせよ、どちらも有限の認知的エネルギーと時間を必要とする営為である。「やる」ことにリソースを割けば割くほど、自分は自分の人生の主人公になる。

 繰り返し述べるが、他人のことにケチをつけるのではなく、自分のことに注力することで、人生はよくなるし、いまがしんどい人も違った展開が見えてくるようになる――と説いても「それって生存バイアスじゃん」と言われればそれまでだ。それを言われたらこれ以上なにも言えなくなってしまう。残念なことだが、そういう言動で「負の成功体験」を積み上げている人はどうしても置き去りにして前に進むしかなくなってくる。


https://note.com/terrakei07/n/n62f810cb81fe
白饅頭日誌:1月18日「成功しない人の特徴」より引用


 『「心の時代」の終わりと始まり』という狂人Noteに記されている通り、「生きづらさ」の原因を「外部」に求めることが政治的活動の避けられない本質である。


しかし白饅頭Noteにおいて、「他責」は明確に悪とされる概念・キーワードのひとつだ。政治的活動は「生きづらさ」の原因を「外部」に求めるから、ともすれば購読者を「他責」へと転化してしまいかねない。そういった事情がある。

さて、戻ろう。
 白饅頭氏は「この時代、個人がどう生きるかは自由なのだけれど、やらない理由を見つけるよりは行動したほうが幸せになれるよね(=ライフプランとしての結婚も”やってみる”のが個人最適)」と主張する。
 しかし、マクロにとってもそれは共同体を維持することにプラスになるという構造がある。
 
あくまで建前上は自分から行動したほうが豊かになれる、幸運になれる、自分の人生の主人公になれるからなのだが、白饅頭氏は共同体の維持ということを深く考える思想家でもあり、『「リスク」のことなどあれこれ考えず「とりあえず産んだらええねん」(略)くらいのごく軽いテンションで子どもをつく』る「産んだス文明」をインストールしたひとびとは、マクロにとってとても都合がいい

 「産んだス文明」のような実態がないと批判される価値観でさえ、ちょっとした欠点といえばまだ地球上のどこにも存在しないことだけで、インフルエンサーである白饅頭氏の掛け声によってそれを内面化する人々がこの世に増えれば、それは共同体を持続させるようなミームとして機能する。
 狂人の指摘するように「産んだス文明」に実態はないかもしれないけれども、たとえば反出生主義のようなそれを信じて行動する人々がいるという点では実態はあるかもしれないが、そのミームに染まった集団の持続性は失われていくような思想と比べて、その存在意義は高い。

一文が長くなったので貼っておきます

すなわち「産んだス文明」 vs 小山による批判の本質は

小山:「産んだス文明なんて存在しない!現状認識が甘い!」
白饅頭:「未来はこうなると予測したら社会は良くなるだろう」

の対立と考えることができる。
 (重ね重ね)そんな情報操作していいのか?という問題はあるが、白饅頭氏が共同体の持続を考えるとき、人口再生産=非婚や少子化問題をなんとかすることがどうしても不可欠である。自由主義的な状況下で、上からの押しつけや現状変革を用いず多数の人間に子供を産ませるとなったらこれはもう思想で騙すくらいしか方法がない。

https://x.com/inunokagayaki/status/1418189275468754944

しかし「産んだス文明」はまさに「騙されたと思って産んでみろ」という言説なのだから、きわめて良心的と言えるのではないか。

アンサンブルの魔術

これからまとめに入るが、その前にひとつだけ前提知識。

 例えば100組が結婚し、n年以内に90組が独身時代より幸せになって残り10組が離婚して不幸になるとする。個人にとって「とりあえず行動して結婚してみること」によって、必ずしも成功して幸福になれるかはわからない。

 しかしマクロで見ると100組の結婚が成立して90組が維持することはプラスと言える。個人にとっては不確実なことが、マクロにとっては100%よいことに合成できる、という構造がある。

これは合成の誤謬を逆にした何かだ。
とりあえず筆者はこれをマクロのトリックとか、アンサンブルの魔術と呼ぶ。

白饅頭氏の思想のどこがすごいか

白饅頭氏の思想のまとめ

世界観

 日本という社会に生まれた個人が、木簡を読む研究者のようなフリーライダーにならず、労災のおそれがある労働強度の高い労働、もしくは出産、結婚など、個人ではどうしようもない理不尽なリスクを伴った選択を覚悟して引き受けることによって、はじめて”大人”(近代のおとな)になり、そうした大人たちが共同体を維持していくことによって世の中は成り立っている

○ミクロな思想

行動したほうがより幸せになれる

白饅頭第一法則

◯マクロな思想

共同体を維持することが大切

白饅頭第二法則

このどちらも否定することが難しい命題に違いない。「三角形には頂点が3つある」と言っているようなものだ。だからこのままでは当たり前のことを2つ言っているだけのひとになる。

マクロとミクロを結び付け、思想整合的にする次の命題がすごい。

もし人々があらゆる行動において、リスクはあるがより大きなリターンが望めるほうを選択をすれば、共同体は維持される

白饅頭第三法則

なぜ?

個人のリスク回避を合成すると集団のパフォーマンスが下がる
個人のリスクテイクを合成すると集団のパフォーマンスが上がる

「合成の誤謬とアンサンブルの魔術」

からだ(自明ではない)。
 たとえば1000人に1人が1000億円ゲットできるなら、残りの999人が破滅しても行動させることが正解となる(スティーブ・ジョブズの作り方)とか、
 個人が大きくリスクテイクする米国社会のほうが、日本社会と比べパフォーマンスが上回っているように感じられるとか。

ところではじめの対偶をとれば

共同体が維持できないのは、ある閾値以上の個人がリスク回避している状態だから

対偶

となる。これは””””霊感””””だが、この現代社会においてフリーライダーとなっている人々は、他人に何も与えず自分だけが利益を掠め取ってやろうというサイコパスな利己主義者ではなく、リスク回避をする者であることが圧倒的に多い。

(例:過労リスクを回避するのが寝そべり族、結婚リスクを回避するのがMGTOW。外科医になれる能力があるのに過労死リスクを恐れて皮膚科に行く人物はあきらかにフリーライダーだがサイコパスではない)

個人が安全を買うと、社会全体のパイが小さくなる

対偶の言い換え

白饅頭氏が

「リスクを恐れず行動しろ、その責任を引き受けろ、大人になれ、共同体を維持しろ」

と唱道するだけならせいぜい父性的な伝統・保守主義者のなげおろす正論だ。誰も耳を貸さない。
しかし「行動する者こそが幸福になれる」というのは個人を幸福にする最高のライフハックだ。そしてそれに従ったものは共同体を維持する。

一人の人間を救うものは世界を救う

タルムード


共同体の維持を大切に考える者が、自由主義を留保すると保守・伝統主義者あるいは全体主義者と呼ばれる。
自由主義を重んじて共同体の維持を考えない者は左翼・リベラル・ポリコレと呼ばれる。
 そのどちらでもないやり方は?

例えばここにJSミルがいました。彼は言いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:John_Stuart_Mill_by_London_Stereoscopic_Company,_c1870.jpg



「各人は各人の幸福を追求するためには何をやってもよい、ただし他者を侵害してはならない」

人々がその通り行動すれば、幸福の総量が増えて社会も豊かになっていくだろうと予想したわけだ。
 しかしこの考え方には共同体の持続可能性がなかった。持続しない社会に「なっていく」もクソもない。各人が幸福を追求すれば社会は細った。

おおよそ愚行中の最大の愚行は、何事のためにもせよ、自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名誉のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のために、健康を犠牲にすることである。

幸福について 新潮文庫 30ページ

↑ショーペンハウアーの幸福論。こういう構成員ばかりだと社会は滅ぶ。

ではどうするか。幸福の追求方法をちょっとだけ指定してやれば(リスクはあるがより大きなリターンが望めるほうを選択しろ)、それでうまくいくと気がついた人物がいた。

最初の人物が白饅頭なのかはわからない。
しかし、天才だ。
そうと気づけば社会をそのように(リスクテイカー有利に)設計してやるだけでよい。しかしこの法則はすごすぎてそのままの社会でも妥当することを看破した人物がいた(リスクを隠せばひとは自動的にリスクテイカーになる)


デコを出せ

白饅頭 is GOD

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟



白饅頭氏を批判できるとしたら


・未来予測を道具的に使うことがあるのはどうかと思う(マキャベリ饅頭)

https://x.com/inunokagayaki/status/1418189275468754944

・アンサンブルの魔術によってマクロでは常にプラスの結果がもたらされても、全体最適と個人最適の乖離が大きい局面では、「行動しろ」のスローガンは個人をすり潰すものになりかねない(全体最適と個人最適をすり替えているので乖離の大きい局面では個人の負担が大きい

・全体最適と個人最適の乖離が大きい局面とは、たとえば起業である(スティーブ・ジョブズ探し)

・ほとんどが破産して日本版スティーブ・ジョブズになれるのはひとりだけだろう。しかしひとりでも出現すればマクロのリターンが何倍にもなる

・乖離が大きく、すり潰しが重大な結果につながりかねない局面は、コロナ下の意思決定である

・結局のところリスクを精緻に分析するインセンティブがない

「アンサンブル確率」「時間確率」というタレブの理論とその応用を一読して欲しい

どのようなリスクであれ、リスクを冒す場合には、残りの人生にわたって特定の頻度で繰り返しそのリスクを冒すものとして考えなければならない

身銭を切れ 423ページ 「確率的な持続可能性の原則」

・↑のようなことを考えあわせると、白饅頭氏のいってることはあってるんだけど間違ってる感がある

・社会を持続させたいならリスクテイカー有利にするような社会制度の改革を叫ぶべきでは(ex:破産者がすぐやり直せる社会制度の拡充)

リスクを分かっていると行動できないが、リスクを分かっていないと足元を掬われるという難しい問題がある

さいごに

 全然書けなかったテーマもあるけど仕方がないのでこれで最後です。いや、めちゃくちゃ大変でしたね。書く前は「さーて、執筆の前に白饅頭Noteをもう一周するかー」ぐらい考えてたのに、文章が大変すぎてほぼ何も読みこめなかった……。

「サピエンス全史」を読んだらもっと白饅頭氏とシンクロできるのに…!という思いがずっとあったけど時間が足りなかった。これから読みます。

「ただころ」も実は買ってないので買います。

個人的にですが、
小山さんとは是非仲直りしてほしいですね。


数日前のこの記事はつまり「今度飲みに行こうぜ!」というメッセージであると思うので(やっぱり何でも飲みに行けば解決という信念はあるらしい)、関係を修復したいっぽいのだ。
 あ、でも筆者くらいになると

 この記事は当然思い出されるので、「中高年男性の激長労働時間」について指摘される白饅頭の図が目に浮かんだのだが…

・VRChatのフレンドさんへ
もしデスクトップ派じゃなくヘッドマウントディスプレイならほんとにデコ出したほうがいいです(蒸れるので)

おわりです。

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