
謝罪の歴史とそのカタストロフィー
「まずは謝罪しろ」「とりあえず謝罪しろ」「謝罪してからだろ」。と、よく門外漢の野次馬どもがおっしゃるとおり、謝罪は人として企業としての「幕引きの儀式」だった。とにかく頭を下げておけば、世間は納得し、メディアも矛を収めた。「謝ったらそれで終わりって、そんなに世間が甘かったの?」と令和の少年少女はおっしゃるでしょう。でもですね、「テレビを通じて謝罪すれば幕引き」という時代が、確かに存在した。
それは「謝罪で世論をコントロールできた」時代とも言える。だが、いつからか「幕引きのための謝罪」は通用しなくなったんだよね。昨今のフジテレビを見てもわかるけど、その兆候が見えてきたのは、たぶん、2016年のSMAP謝罪あたりから。そのうわべ感が際立ち、2023年のジャニーズ問題でついにカタストロフィー(決壊)が起きた。
もはや、謝罪は「終わり」ではなく「始まり」になってしまった。
みたいな内容を書いていくが、これは時代の転換の話なのだと思うので、謝罪の歴史を振り返りたい。とてつもなくだるいが。
メディア主導の謝罪が機能していた時代
リクルート事件(1988年)
この時代、メディアは報じる・報じないを完全にコントロールしていた。
この事件ではトップが「俺が悪い」と責任を取る形を見せ、すべてをかぶることで、リクルートという企業はもちろん、政治家とか関係者のダメージを最小限に抑えることに成功した。今だったら通用しないだろう。「江副だけが悪いわけじゃないよね?政治家は?また報道しない自由発動か?」
#政治とカネ #竹下登説明責任 #経世会の闇
こうしたハッシュタグが飛び交い、世論が納得するまで炎上が続くはず。
ホリエモンとライブドア事件(2006年)
この時代の謝罪が象徴するのは、「スケープゴートの作り方」 だ。リクルートの江副は自らスケープゴートになったが、堀江は「俺は悪くない」「悪くないよね」「悪くないから謝らないもん」と謝罪を拒否するガキみたいな戦略をとった。結果、全メディアでホリエモンはフルボッコ。メディアが、経済界の問題を個人に集約した。書いてて改めて思うが、ひどいもんだ。せっかく 「テレビで謝罪すれば、流れを作れる」という時代だったのに、利用しない堀江は子どもだったよなとかも思う。だが、そのブレない姿勢こそが今のホリエモンをつくったとも言える。
北野誠の「何も言わない謝罪」(2009年)
ラジオ番組での「不適切発言」を理由に、涙ながらの謝罪会見。しかし、その「不適切発言」の中身は一切明かされなかった。「S学会は、宗教団体なのに辞めるとひどい仕打ちを受ける」とは言わず。「グラドルHは某政治家の愛人」とも言わず。「大手芸能プロBの社長はヤ●ザでゲイだ」とも言わず。「小倉優子の焼肉屋はまずい」とも言わず。「何を言ったのか?」を報じないまま「申し訳ありません」で火消しが成功。なんかわかんねえけど、もういいや、という世論を形成し、これは「謝罪することで幕引き」できる時代の最終形態だと思う。
2016年:SMAP謝罪と「違和感の可視化」
これもメディア主導の「謝罪」だったわけだが、違和感ダダ漏れで、いよいよそこにツッコミが入れられる時代になっていた。謝罪形式としては「北野誠式」の具体的なことに触れない方法がとられたが、内容以外のところからすでにツッコミが入った。
「なんでキムタクだけスーツのボタン留めてるの?」「他のメンバーは暗い顔してるのに」「キムタクがまるで“監視役”みたいに立ってるの、違和感しかない」「これは謝罪じゃなくて処刑じゃん」「いま中居くんが何か言おうとしてやめたよね」「そもそも何が悪かったの?」「これ、誰に向けての謝罪?視聴者に対して?事務所に対して?」。とか、情報が双方向的になってきた。これって、「本当に本人たちの意思なのか?」と、視聴者が違和感をSNSで可視化したあたりで、「テレビで謝罪すれば終わる」時代の終焉が見え始めた。
うーん。書き始めて後悔するほど長いが、続けよう。
2023年:ジャニーズ問題と「謝罪のカタストロフィ」
それでもなお「メディア主導の謝罪」は健在だったが、ついにBBCの報道によって決壊した。BBCが報じるまで、日本のメディアはこの問題をスルーし続けた。 外圧によって初めて、メディアが長年見て見ぬふりをしていた問題が表面化し、謝罪が「終わり」ではなく「始まり」になる時代が到来した。
会見は、ヒガシと井ノ原が答える形式だったが、見えない力に統制されている様子が明白だった。
まず、謝罪会見直後に、メディアが事前に質問者を選別しようとした事実が発覚。フリーの記者が「質問者が事前に決まっているのか」とその場で異議を唱え、リアルタイムでSNSに拡散された。つまり、SNSの登場によって、謝罪の瞬間がリアルタイムで精査され、視聴者が意見を発信することでその影響が瞬時に拡散されるようになった。ここらへんからもうメディアの一方通行報道は効力を失い、SNSで双方向の意見が飛び交う時代になったと思う。
2025年:フジテレビの失敗謝罪会見
それでも「昔の手法でなんとかなる」と思っていたのが、フジテレビだった。「誤解を招いた」という謝罪のテンプレートが即炎上。 「で、結局誰が責任取るの?」という批判が殺到。 スポンサー離脱 → 組織全体のガバナンス崩壊。フジテレビの悪手は、単なる一企業の失敗ではなく、「これは組織全体のガバナンスの問題だ」「日枝がぜんぶ悪い」「改革だ改革だ」なんてところまで燃え広がった。メディアのトップがメディアの変化に気づかないというのは、なんとも皮肉な話である。
これぞいわゆるブーメラン効果の典型例だ。世論をコントロールしようとすればするほど、逆に「誤魔化している」という印象を与え、批判の炎が大きくなった。
んでもって、シェイミング(shaming)の時代へ。
振り返ってみると、やっぱりBBCの功績が際立っている。
つまり、「外圧でしか変われないのか?」という我が国お決まりの結論である。大きくは外国からの圧力でしか変われないとしても、SNSの力も捨てたんもんじゃないなと思うな。
SNSにうずまく誹謗中傷、罵詈雑言を、自分の不遇のうっぷんばらしのドス黒いエネルギーを、個人に向けるのではなくて仕組みに向けるべき。「メディアがダメなら、おれが燃やすしかない」 「燃やすべきは、人じゃない。システムの方だ」 その無駄な正義のエネルギーを、いいほうに使おうよって思う。
これはシェイミングの時代になったとも言える。社会的に「正しい行動」を取らなければ炎上し、メディアも企業も動かざるを得ない。かつては炎上が無意味な叩きだったが、今はむしろ「変化を生み出す圧力」として機能している。「炎上も正しく使えば役にたつ」って話。
既存メディアの圧力による死屍累々はあるにせよ、謝罪の変遷をたどると、わりといい方向に進んでいるんじゃないかな。いいたいことを言える、いい時代になったよ。ホリエモンや北野誠という屍の上に、こんにちの、ちょっと自由な報道があるのだと思う。
ホリエモンに合掌。死んでないけど。
https://www.youtube.com/watch?v=j5-yKhDd64skおこ
長いこと読んでくれてありがとうございました。
今日の音楽は、エミネム「Not Afraid」。
I'm not afraid to take a stand / Everybody come take my hand
「俺は立ち上がるのを恐れない。みんな、俺と一緒に進もうぜ。」
ホリエモンには、この歌を歌いながら、フジテレビの株主総会に向かってほしい。