さよなら東京。こんにちはパリ。
パリ五輪開会式は、近年まれにみる出来だったと思う。
なるほど、五輪開会式を、閉鎖的空間での映像鑑賞会にする必要はない。開催国を紹介したいなら、でっかい体育館にみんなで集まる必要はなく、その名所をリアル見せていけばいいわけだ。「開会式会場はセーヌ川」とするなんて、誰もしなかった発想だと思う。聞くだけでイメージもふくらむし、人に話しやすくてとってもキャッチー。
今までの五輪は、空間だけじゃなく、文字どおり閉鎖的だったんだろうな。
商業主義だと指摘される五輪のエンターテイメント化問題があり、テロ問題があって警備は大変だ問題があり、数え出したらきりがないネガティブがありつつも、それを覆い尽くすほどの価値のあるビッグアイデアが提案されたわけだ。これは、たくさんのネガがありながらも、「この提案、おもしろいじゃん、絶対やる!」と決済したマクロンの手柄でもあると言える。今まで小さかったのは会場ではなく、演出家の想像力とトップの度量だったわけだ。
芸術監督のトマ・ジョリとかいう演出家の、その発想のでかさにも感服したが、やはり一個人が考え尽くし、強烈な個性のもとで引っ張ってったものは強いものができるなあ、としみじみと思いながら見てた。もちろん、東京五輪のネガがあるからのポジ感想なんだがね。
セーヌ川を下る選手団を眺めながら、華やかだなあ、と思いながらも、日本人として脳裏をチラチラかすめるのは、東京五輪のゴタゴタである。当初は、山崎貴氏(映画監督)がトップだと思ったら、いつしか野村萬斎(狂言師)になり、MIKIKOの企画案をIOCに説明していたが、水面下で佐々木宏(元電通)が自分案を進め、森喜朗氏と面談したMIKIKOは「ことを荒立てるんじゃないだろうな」と圧をかけられ身を引いた。
森とマクロン、えらい違いである。マクロンはトマ・ジョリの前代未聞の「案」を尊んだが、森喜朗は佐々木宏の何を尊んだのだろう。佐々木宏は最後までMIKIKO案を生かそうとしていた、と報道されたが、じゃあ、なんでMIKIKOを立てて身を引けなかったんだろう。五輪を手がけた手柄が欲しかった、としか思えんが、やらしい見方なのかね。若手から膨大な案を集めて、おれが選んだからおれのアイデアだ、みたいな顔をするのは大手代理店のクリエイティブディレクターにはありがちな話だし。
日本は、広告屋を尊びすぎていると思うな。有名なクリエイティブディレクターですから、と紹介される人のほとんどは、その主要作品を見れば、ほとんどがただのCM屋。代理店出身のCDは、ほとんどがCMのプロであり、映画やPVなんかかじったりするがプロモーションのプロではなく、グラフィックのディレクションはできるがデジタルマーケのプロでもなく、セールスには弱く、舞台芸術なんて門外漢で、オールマイティで優秀な人間などいない。ただ、企業にアドバイスを求められることが多いから謙虚さを失い、岡目八目効果の謎の万能感が芽生えているだけ。その相談のアウトプットというか解決策は、ほぼ前例のある広告であることからしても、芸術や舞台演出には不向きであることは明らかだ。
広告屋と芸術家は、似て非なる職業だと思う。広告屋はクライアントの要望を叶えながら、表現のフォーマットとしてほぼ前例のある発信する。芸術家は、スポンサーの後援を受けて、責任はとるから好きなようにやれ、と言われて前例のない表現をする。後者の「おれは責任とるから、お前の好きにやれ」っていう、プレッシャーで吐き気をもよおすような信頼感こそ、いいもんをつくる最高の原動力だと思う。
開会式を全肯定するわけではなく、ドラァグクイーンのグループやトランスジェンダーのモデル、ギリシャ神話の神ディオニュソスにふんした裸の歌手など、正直気持ちわりいな、と思う演出も盛りだくさんだった。でも、賛否の否などものともしない心意気は、気持ちいい。んで、これこそ広告屋とアーティストを分けるポイントだとも思ったわけだ。チームを組んでみんなの意見を汲んで民主的にやったら、こんなことにはならない。
こんな話の流れだから、きょうの音楽は、Lady Gaga - Always Remember Us This Way。パリ五輪での一曲。
さて、もうオリンピックは、はじまった。
みんないろいろ理屈はあるんだろうけどさ、ゴタゴタを忘れて、オリンピックを楽しもうじゃないか。
そんな大らかな気持ちが、このエンターテインメントごちゃまぜの開会式に込められていると思う。