Butterfly bus(上)
わたしには本当の出来事だったのか夢だったのかわからない不思議な記憶がいくつかある。これから書くものがたりもそのひとつ。多少長めなのと話が今日でまとまらない気がするので、今日と明日の2日に分けて書くことにする。ごめんなさい。
数十年前のむかしのおはなし。
わたしは今でも奇跡的にサラリーマンを続けているが、そのころサラリーマン人生3回目の人事異動で自分の能力以上の力を発揮しなければならない部署に異動になった。厳密に伝えると、その部署に配置されるまではその部署がこんなに高い仕事のレベルが求められるとは想像もしていなかった。舐めていたのである。
配置されて働いてみるとすぐに「こればヤバイぞ」と思い焦ったというのが正直なところだった。自分の能力が仕事に追いつかない時、選択肢としては2つしかないと思う。その仕事を諦めて「やらない」と判断し早めにお断りをするか、もしくは自分の能力を上げる努力をしてその仕事を「なんとかこなす」か。
「やらない」という選択をしたら、もちろんクビである。いわゆる会社を解雇されるという本気のクビになる可能性は低いが、使えないやつだと烙印を押されてしまうのである。しばらくして、別の部署に異動を命じられるか元の場所に戻されるケースも少なからずある。
簡単に言うとサラリーマンの海の中に沈んでしばらく浮かばれないということだ。そもそもある意味「浮いて」はいたが決して優秀という意味で突き抜けているわけではなかった。それは今もだが。
実際当時のわたしはそんなことを深く考える時間すらなく、ただひたすら仕事をこなしながらひとつずつ仕事を覚えていきつつ「なんとかこなす」ことを結果的に選択した。当然能力がないためしばらく時間内に仕事をこなすことができなかった。人数も今の体制のほぼ半分で2倍近くの仕事をこなしていたため必然的に今日の朝早く出社して明日の早い時間に退社した。
そんな生活を数年続けていくと、体力と精神力にはある程度自信があった自分の体や精神も少しずつ故障が目立つようになり、いろんなところが不調になってきた。休息の時間がなく疲れが蓄積され限られた飲みの機会でも愚痴が多くなった。そんな自分が嫌いだった。あんなに楽しかった仕事が楽しく感じないのだ。
今の時代だと考えられないが、ほとんど毎日タクシーで帰宅するのに残業手当もほとんどなく、働けば働くほどお金が減るという嘘みたいな日々が続いた。そのときの過酷な仕事のおかげで今の自分があると思う気持ちもあるが、当時は本当に「もう限界だ、辞めよう」という気持ちになっていた。
そんな時代の夏がもう目の前にきているような暑い日の朝だったと思う。いつもより少し遅くバス停に立っていたわたしはいつもの番号のバスに乗りこんだ。珍しく窓際の席が空いていたので内心ラッキーと思いつつ「ふーっ」というため息と同時に椅子にドカリと腰掛けた。昨日も遅かったので少し寝ようと思っていた。
少し寝ようと思っていたのに仕事のことで頭がいっぱいになり、あれこれ今日の仕事の段取りを考えながら何を見るでもなしに外をボーッと眺めていた。しばらくの間窓越しに外を眺めていたが、あるバス停にバスが停止したとき何気なく見ている方向を窓の内側に移動させた。
「えっ」
一旦目を閉じてもういちど目を開いた。
「えっ」
目線の先にいたものを見てわたしはもう一度「えっ」と声をあげてしまった。ほんとうに小さく声を出してしまったのである。
明日の「Butterfly bus(下)」へ続く
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