今を生きる

年始しょっぱなかなら、死ぬほど嫌な実習が始まった日の昼休みだった。
大好きだったバンドのFCから「大切なお知らせ」のメールが来た。
2010年12月31日のライブをもって、解散しました。
事後報告されたことが、それはもうつらかったし憤りすら感じた。
バンドのフロントマンである彼はいつもワンマンだった。
終わりました、という過去形。どうして知らせてくれなかったのか。せめて、せめて、カウントダウンライブで解散するとどうして言ってくれなかったのか。
こんなにも、こんなにもずっと好きで、高校生~大学生でお金がないなりに全力で応援したのに、後悔しかなかった。
もう二度とこんな思いをするものか、とこれから好きになるものは「自分なりの全力」で追いかけると心に誓った。


2021年3月12日。20年間推してきた6人のアイドルが、11月1日をもって解散します、と発表した。「終わり」を知らされてしまった。あの日とは真逆だった。
なんなら私があの日「事前に知らせてほしかった」と願った通りになった。
先に知らされたことで、今度は「終わり」へのカウントダウンが始まった。
当たり前に聞いていたはずの彼らの音楽を何気なく聞けなくなった。

ああ、もうライブで見ることはないのか。
ああ、もうこれ以上新曲は出ないのか。
ああ、もう6人そろうことはないのか。

音楽を再生するたび、「この曲好きやなあ」という思いとともにすさまじい悲しさが追いかけてくる。
後悔しないようにと「自分なりの全力」で追いかけてきたはずなのに。あの時と同じように、体がひきちぎれそうなぐらいの悲しさで苦しい。

結局、全力で追いかけても体感する「後悔」の強さは変わらない。
どうしたって、「後悔」は必ずする。でも妥協せずに全力で追いかけたことで少しは救われているような気がする。

推しが、明日も、明後日も、1か月後も、1年後も、10年後も、いるなんて保障はどこにもない。なんなら自分さえも。
「またいつか」は二度と来ないかもしれない。なのにどうしてだか「またいつか」が来ることを信じてやまない。平和ボケしているんじゃないのか?


2021年7月9日の23時のわたし、はもういない。「今」はこの瞬間に二度と戻ってこない存在となる。
この文章を書き始めた瞬間のわたし、には二度と戻れない。


「今を生きる」っていうのは、想像以上にむずかしくて、大変で、しんどい。ちゃんと今を生きれてますか。
推しを愛せてますか。今を楽しめてますか。自分を愛せてますか。
結局、今やれることを、ちゃんとやるしかないなと、いい歳して思います。

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