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「この世」でも、「あの世」でもない、世界を生きる私たちは一体どの世を生きるのか。

みなさんこんにちは。今日は教育的なことでもなく、理論的なことでもなく、コラム的なお話になるかと思いますので肩の力を抜いて読んでください。

最近私自身が感じる違和感として、私たちは今この瞬間を「この世」で生きているのか、ということです。

どういうことかといいますと、今みなさんはこの瞬間、このブログを嬉しいことに読んでくれています。(本当にありがとうございます。)

ただし、その行為というのは、スマホやPCなど画面越しにインターネットがもたらすもう一つの広がった世界にアクセスして、私の文章へアクセスしています。この行為自体は何も問題のないことのようですが、今、みなさんはどこでこのブログを読んでくれているでしょうか。

電車に揺られながらみているでしょうか。
ご飯を食べながらみているでしょうか。
家にソファに背を委ねながらみているでしょうか。
はたまた、それ以外の何かをしながらみているでしょうか。

おそらく多くの方が、よし、このブログを読むぞ。と意気込んで読んでくれているかたは多くはないのかもしれません。

周りを見渡すと同様のことが常に目に留まります。
自分も例外ではありません。

ラーメンを啜りながら1.5倍速にしたYouTubeをみる。
カフェでオンライン会議をする。
新幹線でLINEをする。
朝走りながら音楽を聴く。
隙間時間でXに投稿する。

これらは私が日常でよくすることです。
みなさんも遠からず同様の日々を過ごしているのではないでしょうか。

私たちは何かに追われるかのように常に情報のシャワーを浴びて、少しでも無駄のない時間を使おうとしています。

なんというか、この世は、リビングデッド状態に陥っているのではないかと思えてくるわけです。

つまり、私たちは24時間のうち8時間を睡眠だとして、残りの16時間のうちかなりの時間を「画面越しの世界を生きているのではないのか。」ということです。

この画面越しの世界を生きているのは、
「この世」なのか「あの世」なのか。
みなさんはどう考えますか?

私個人的には「この世」というにはちょっと広すぎるのかなとも思えてきますし、かといって確かに画面越しなので血は通っていないですが、意思疎通などの意図した行為をしているので「あの世」とも言えないなと思っています。

なので、今回のブログでは、どちらの世でもなく、この世とあの世の"間にある"「その世」と今回のブログでは呼んでみたいと思います。

個人的にはSFの映画が結構好きなのですが、多くの映画作家は同様の世界観を描いています。例えば、レオナルド・ディカプリオ主演の『インセプション』やもっと古いのでいくと名探偵コナンの『ベイカー街の亡霊』なんかも近いコンセプトなのではないかと思います。

少し話が変わりますが、私たちは心臓の鼓動を感じながら、今この瞬間に生きていると自己が認識している身体は「この世」を生きていると思います。そしてそれは"身体"という物理的なものの意味合いが強いかなと思います。

一方で、何かしらの行為は実はかなり多く「画面越し」で済まされていることが多くあると感じています。

朝に目覚めてSNSをチェックする
トイレの中でニュースアプリを開く
朝ご飯中にYouTubeをみる
電車まで歩きながら音楽を聴く
電車の中でゲームをする
勤務中にオンラインでリモート打ち合わせをする
お昼休みにSNSをチェックする
退勤後、電車まで歩きながら音楽を聴く
電車の中でSNSをチェックする
夜ご飯にYouTubeをみる
お風呂の中でNetflixを見る
寝る前にSNSをチェックする

どうでしょうか。上記の1日は相当数の方が同様の生活を送っているのではないでしょうか。(私もそのうちの一人だったりします。)

この生活のどこが「この世」を生きているというのでしょうか。

身体感覚だけ「この世」に残し、あとは「その世」で自分自身を生きているような感覚があるのではないかと考えるわけです。

VR(仮想現実)が台頭して、いよいよ私たち人類は別の世界を生きる未来がやってくる、なんて言われていますが、もう既に別の「世」にメインフィールドは移っていると言っても過言ではありません。

また、私自身「その世」が大半を占める社会については全然否定的ではありません。むしろ「その世」でいかに善い立ち振る舞いと適切な行動をするか、によって人間的な価値に大きな影響を及ぼすようになっているように感じます。

他方で、私自身、この違和感に気づいてから、どこか少し「寂しい」という感情が芽生えてきました。ここ数年は、私自身「身体性」という言葉自体に興味を惹かれるようになり、社会学者の宮台真司さんの「コミュニティ」と「身体性」について著書を読み漁ったり、以下の動画を視聴していたりしました。

なぜこの言葉に惹かれるようになったのか、よくわかっていなかったのですがようやく少し輪郭が見えてきたように思えます。

私たちは次にどの「世」を生きるのか。

さて、ここまで非常に取り留めのない話をしてきましたが、生成AI時代を生きる私たちは、これからどの「世」を生きるのでしょうか。

先ほど勝手に定義した「その世」が画面越しに広がる世界だとすると、次に考えられるのは、身体性と画面越しの世界(デジタル世界)が融合した世界になるのでしょうか。個人的にはその世界は、まだ少し現代から飛躍している感じが否めないので、刻んでくるかもしれません。

例えば、今は「その世」でも"私"は"私"として存在している感覚が強いですが、"私"が”もう一人の私"という複製された存在として生きる、ということが起きるかもしれません。それは既に"ニックネーム"で生きていたり、"別の名前"で生きている人は多くいると思いますが、もう少し認められた存在として生きられる世界ができるかもしれません。

細田守監督の『竜とそばかすの姫』や『サマーウォーズ』なんかはまさにこの世界観ですよね。

NFT (Non-Fungible Token)がもっと流通すれば、画面越しの向こうの世界での通貨や信用として、生きるために必要な物資の調達が可能になる、みたいなところでしょうか。こうした質感の伴う世界が画面越しに広がる世界がもしかしたら「その世」の次にくる「世」なのかもしれません。

みなさんは、どの世を生きたいですか?

それでも私は思う存分「この世」を楽しみたい

最後に、完全に私見を述べます。私は仕事としてもメインの事業としてもオンラインを活用した学びのあり方やいかにデジタルが私たちの社会にとって必要で豊かにしてくれるものか、を追求しています。

間違いなく人間にとってデジタルがもたらしたものは計り知れない大きいです。日々その恩恵を存分に受けながら生きています。

しかし、先に述べた「寂しさ」も同時に感じているように、「眼球を通して見た景色」「早朝の道を歩きながら顔で感じる冬の冷たい風」「紅葉の色づきと同時に落ちる葉の様子」など自分が身体的に味わう感触や感情を愉しみ続けたいなと思います。

そして、もっとその瞬間を意識して感じる必要があるなと感じるわけです。

この行為自体は、実は非合理的なのかもしれません。経済的な効果は感じることはないかもしれません。

例えばGoogle画像で、「紅葉 秋」と検索すれば無限に素晴らしい景色の写真が出てきます。もしかしたらVRをつけることでもっと没入感が感じられる状態を実現するかもしれません。それで楽しめれば良いでしょうか。そうすればものの5分で行きたい場所に行けます。

わざわざ電車で1時間かけ、30分歩き、大勢の人混みをかき分けて行き、そしてまた帰路は同じ時間をかけて戻ります。これよりよっぽどVRをつけて同様の体験をした方が、合理的な行為に思えてきます。

ただし、個人的にはその合理性があるからこそ、あえて身体性を存分に味わうことのできる「非合理性」に注目したいと考えます。

どうでしょうか。

みなさんはこれからどの世をどのように生きたいですか?


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