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照子さんへ。

 母の通夜に出るのに、薄手のストッキングが切れていて黒いタイツを履きながら「あ、ママに怒られる」と思った。次の一瞬に、力が抜けた。もう、私の無作法を怒る彼女はいない。寂しさと安堵で、泣いた。


 母の名前は、「照子」という。
 そして、私の名前は「照美」という。

 誰がどう見ても、母が我が子に「自分のような人間に育ってほしい」と願って付けた名前に見える。私自身、小学校2年生までそう信じていた。


 私は、物心ついた時――それは、3歳下の妹が生まれた日の記憶からスタートする――から、一度たりとも母から抱きしめられたことがない。彼女の主張は違うかもしれない。しかし、手をつないで歩いた記憶も、母親の体温も感触も、何も私には残っていなかった。


 なんだか変だな、と思っていた。

 私はママに愛されてママの名前の一文字をもらっているはずなのに。なぜ、妹だけが抱きしめられるのだろう。コップの牛乳を私がこぼすと「しっかりしなさい!」と頭をどつかれるのに、妹がこぼしても誰も怒らない。ましてや殴らない。なぜだろう。


 小学校2年生の春休み、彼女が産まれた家に帰省中のことだった。

 母の父、つまり祖父は私を溺愛しており、寝るときには「お前は寝ばえすっけ(寝相が悪いから)」と私の小さな足を自分の足で挟んで温めてくれるような人だった。

 祖父にかばわれっぱなしの私に、母が苛立った視線を向けていたのには気づいていた。彼女は私を客間に呼び出し、正座をさせ、この数日のマナー違反やはしゃぎ過ぎを一通り叱った後に、こう告げた。

 
 「アンタは、ママの子じゃない。血がつながってないから、かわいそうに思っておじいちゃんは可愛がってくれてるだけ。調子に乗るな」 

 
 今、私の息子は当時の自分と同じ、小学校2年生だ。転げまわって笑っている彼を抱きしめながら、こんな幼い相手に事実を告げた母の残酷さを恨む。

 当時の母親は、衝動を抑えられない人だった。「18歳になったら真実を伝えよう」と父親と決めていたことを、あっさりと破ってしまった。父親に、連れ子の育児責任をすべて押しつけられたことも、衝動の原因だったのかもしれない。この辺りは、過去に書いた記事に任せる。


 それでは、血がつながっていないのに、なぜ。
 継母たる彼女は「照子」で、私は「照美」なのか。


 真相を知ったのは、小5の時だ。
 酔った父親が、自慢話のように語った。
 
 
 ※先に断っておきますが、ここからのクズエピソードは当時SNSがあったら大炎上してると思います。


 大阪の御堂筋で、信号を渡りきる前に赤に変わってしまい、横断歩道の切れ目(以下のリンク先参照)に母と父が取り残された。

 鮮やかなオレンジのスーツを着た母は、目を引いた。当時の父も石原裕次郎に影響を受けまくった見栄えのする青年であったこともあり、声をかけると彼女は付いてきて、夜に改めて2人でお酒を飲んだ。

 つきあい始めてしばらくして、父が行きつけのスナックに彼女を連れていくと、店の女性に言われたそうだ。

「女の人と遊んでていいの?奥さん、妊娠中なのに」
 
 照子さんは、鳥取県の商業高校から一度は大阪の銀行に勤め、それでも絵描きの夢が捨てられずにいる24歳。きっと、世間知らずだったんじゃないかと同情する。

 既婚男性に遊ばれたショックで、すぐに銀行を退職して連絡を絶ったものの、かなり後になってから父親から電話がかかってきたそうだ。

 「妻とは別れた。生まれた子は娘で、好きなお前の名前をつけようと思ったけれど、もし一緒になれることがあったら困るから、一文字変えて『照美』と名付けた


 世の中にはいろんな名付け方があるにせよ、これほど産んだ妻にも浮気相手にも産まれた子どもにも失礼な名付け方は無い。このエピソードを自慢げに語れる父親は、ぶっ壊れている。

 産んだ人は私を中絶したがっていたが、間に合わなかった。

 自分の夫が、赤ん坊につけた名にこめた秘密を知っていたのだろうか。いずれにしても、生みの母が私を空っぽの部屋に置き去りにして、47年間、会いに来ない理由も少しは理解できる。

……私は自分の名前を、嫌いになった。


 周りの人は言う。

「お母さんの名前をもらったのね」
 そして
「でも、顔はお父さん似ね」

 名前は似ているのに、顔は似ていない。妹と母はそっくりなのに。

 
 小3で家庭の経済状況が悪くなってからは、実子との差別は加速した。それは外から見ればちょっと躾に厳しい教育ママ程度だったかもしれない。でも、密室で、特に母と2人きりで起きることは誰も知らなかった。

 妹はできるのに、あんたは何で気づかないの?できないの?脳がおかしい、ってよく言われてたな。そうかもしれない、と思ってた。

 
 ああ、死んだ人を弔う文章を書くはずが、何を書いているんだろう。
 一番しんどかったのは30年近くも前、私が18歳で家を出るまでの話なのに。

 料理上手で芸術的感性に満ちた彼女の素敵なところと、出産を機に結びなおした関係と、孫にとって最高のおばあちゃんであったことを書きたいのに。


 先日、似た境遇の友人と飲みながら話していた。


 「母親が死にかけてる時にも、どうにもまだ過去のことでモヤモヤしてて、50近くにもなって乗り越えられてない自分が情けなくなるねん

 
 友人は、こう言った。

 「一番守ってほしかった時に、守ってもらえなかったんだよ。乗り越えられなくて、当然ちゃうん」

 許してあげて、事情があったんじゃないの、今はいい関係なんでしょ?

 ――安全で安心な場所で育った人たちから、投げられる言葉の無神経さに傷ついてきただけに、救われた。


 昨年6月に母親が家で倒れて、末期の肺がんと脳への転移がわかった。

 何年も何年も姉妹で病院に行け、健康診断を受けろと言い続けてきたのに「病院に行って何かわかったら嫌だから」と行かなかった。

 入退院を繰り返し、9月には生きがいだった高齢者向けの食事サービスのボランティアに復帰をするほど回復したが、正月明けからはみるみる悪くなり、2月26日の朝方に亡くなった。

〔最後の食事サロンのメニュー。頭で考えた献立を、いつも水彩画にして当日の会場に置いていたそうだ。容器の使い方や彩りなど、アイデア豊富な人だった〕


 コロナ禍で「県内に入ってから2週間の健康観察の後に面会」という厳しい制限により、たった2回しか闘病中は会えなかった。死んでからなら会っていいってなんだよ、ふざけんなよ、まだ話し足りないんだよ

 
 専業主婦にならない私を不快に思っていた母は、私が最年少で管理職になっても、会社を興しても、本を出しても、民間人校長になっても、大阪市の区長になっても、手放しでは褒めてくれなかった。

 そう、こんな年になっても、母親に褒められたい、愛されたい、認められたいとどこかで思っていた。その呪いから、急に卒業させられた。


 亡くなった日は抜けられない仕事があり、合間に「年に数回、帰省して会った時のすてきなママ」を思い出し、こどもの頃にぶっ続けで聴かされてた来生たかおや山口百恵を聴きながら泣いた。


 実家にたどり着いてやっと顔を見た。きれいだった。むくっと起きて、いつものようにビール片手に台所に立ちそうだ。そして、私のタイツに目を留めて「ちゃんと薄い黒のストッキングを買ってきなさい」と叱りそうだった。
 
 マナーにうるさい人だった。そして、私たちに教育を与えてくれた。特に、読むことと書くことについては、意識的に環境を与えてくれた。本や図鑑は家に一通りあり、小学校に上がる前から作文や詩を書くことを教えた。

 貴女によって死にたいほどの思春期を送ったが、
 貴女によって与えられた「書く力」のお陰で死なずに済んだ
 
 そのことと、大好きな祖父母と妹に巡り合わせてくれたことには、感謝している。

 慣れない地方の葬儀を、妹と2人で近所の女性に叱られながらドタバタとやりきった。出てきたメモには帰省した私に対して「鈍い、のろい、気が利かない」と愚痴が書き留めてあり、40過ぎてもそう思われてたことにムカつきながらも、笑えてきた。

 ママ、今ごろウチらの段取りの悪さにめっちゃ怒ってるよ。あ、絵具とスケッチブックをお棺に入れ忘れた。もういいよ、お供えしておけば。初七日、一緒にやるの忘れてた、どうしよう。

 怒り狂って化けて出てきてくれるぐらいで、ちょうどいい。
 「もう怖くないもんね」と、今なら言い返せる。
 
   
 彼女の作った料理を食べて育ち、躾と教育を受け、彼女の愛するものに取り囲まれて育った。差別や虐待を受けたことでついた傷は、許しはしないが形を変えて結局は私の仕事に活きている。


 料理は目でも食べるのだから、盛り付けや色を考えること。
 おいしいものを外で食べたら、覚えておいて家で試してみること。
 何かをもらったら、お礼の電話やお礼状はすぐすること。
 年を取るほどにスキンケアを徹底し、メイクに手を抜かないこと。
 朝はコーヒーを一杯飲まないと起動しないこと。
 ハマったアーティストは1ヶ月ぶっ続けで聴くこと。
 「愛の水中花」を裏声を混ぜて歌えること。


 ……血はつながっていないけれど、私の一部は明らかに「照子さん」でできている
 

 特に最後のやつは、今も目に浮かぶ。幼いころから、両親は私たちをスナックに連れていく悪癖があった。化粧の濃いお姉さんたちに遊んでもらっている時にかかる「ママの十八番」。恥ずかしそうに、でも、やたら艶のある声で「愛の水中花」を歌う彼女は美しかった。

 ♪ 乾いたこの花に 水を与えてください 
  金色のレモンひとつ 胸にしぼってください ♪

 私も区長になって宴会でマイクを握る時、たまに歌う。貴女からは浴びるほどもらえなかった切なさと、いろんな人が注いでくれた水を思う。今は、涙があふれる程度には満ちている。

 照子さん。
 
 本当は、あと10年、欲しかった
 
 絶対に私を立たせてくれなかった台所で、少し弱った貴女に怒られながら料理を習いたかった。

 70歳の誕生日を迎えたばかり。96歳で亡くなった祖母を看取って、たった5年しかゆっくりできなかった。そうは言ってもくるくると止まることなく動き続け、人の世話をしまくり、動きの悪い周りの人を追い立て、愚痴り、ビール缶を片手に魔法使いのように料理を作りまくっていた。

 葬儀の一連の最中にも「ちょっと!なんでお坊さんの和菓子買ってないの!」と財布持って飛び出してくる気がした。一生、私の頭の中で怒ってると思う。

 いいよ、怒ってても。
 もう怖くないもんね。

 私は「鈍くてのろくて気が利かない」から、もう少しだらだらと、生きてみます。

 許しても乗り越えてもいないので、「ありがとう」はまだ言えない。同じ女性として言えるなら、あの日、私の親になると決めてくれた貴女のチャレンジに全力の拍手を送ります。

追伸:今は「照美」という名前も好きになりました。だって、大好きなおじいちゃんが「照子」とつけたんだから、私もおじいちゃんに名前をつけてもらったのと一緒、という素晴らしい理屈を思いつきました。

じゃあね。