支援を"続ける"ということ。
この1ヶ月弱、とあるオンライン学習支援に関わった。はじめは参加者が本当に来るのかもわからないまま、未知の世界を切り拓いていく進め方だった。
この事業を通して、学習支援そのものへの問いと、「続ける」ということの意義について考えさせられた。この投稿でなんとか少しでも、言語化できればいいが、、
まず一つ目。学習支援そのものへの問いについて。そもそも学習支援は一つの単語じゃない。学習することと支援することを融合させているものである。
それに対して、教育をテーマにしてきた僕にとって、学習するとはどういうことかは根深い大問題である。それは、
問題が自力で解けるようになること?
その問題の本質(意図など)を理解すること?
自分で問いを見つけられるようになること?
少し考えただけでも色々思いつく。僕の好きな教授ならきっとこう言うのかな。
「そもそも勉強と学習は何が違うの?」みたいな。
たしかに勉強支援とは言わない。明らかにどこかで境界線を引いて僕らは使い分けてる。そういうのを考えるのは楽しい。でも今回突き詰めたいことではないので置いておく。いつかまた考えよう。
さあ問題にしたいのは、支援するということはどういうことか。これに対して、僕は答えを持たなければならないような気がしてならない。それは、大学生活・ROJE生活で出会った人々について知っていく中で、自分の中に生まれていく義務感のようなもの。社会が生む不平等は絶対に存在していて、目を背けることはできないという感覚。ある種の当事者意識。
支援は、いろんな言葉で言い換えられる。個人的にしっくりくるのは「伴走」という言葉。子どもたちの横に立ち、目線を合わせ、求められたら応答し、困っていたらそっと手を差し伸べる。そんな関係性に幾度も出会って、心動かされ、自分も目指したりしてきた。もちろん学習支援の中だけじゃなくて、後輩と関わったりする中でも。初めて会う人とも。
もしかしたら今回のオンライン支援ではそれができたのかもしれない。そんな気がした。少しだけだけど、これまでの学習支援ではたどり着けなかった何かに近づいた気がした。
そして今日の全体振り返り会。何かコメントを求められて、口から自然に出たのは、支援を"続ける"という言葉。かつて"続ける"だけに違和感しかなくて、ずっと抗ってた自分が聞いたら驚いて倒れるだろう。
不思議に思った。なんでそんな自分がわずかでも続けたいと思ったのだろう。。。でも、なんとなくだけど、その答えの一つはきっと、「自分の手の届く範囲で見てきたこと」があるのかなと思う。
これまでの学習支援は、自分の手が届かないところで発生していたニーズに違和感を持っていた。支援とニーズはやはりセットであり、そこの関連付けは決して疎かにしていいものではない。僕はこれを十分に今回、伝えられただろうか。甘かった気がするな。
そして今回生まれたこの強いニーズは、コロナという未曾有の大災害によって生まれたもの。災害が起きたときには、いつも隠れていた問題が一気に顕在化する。もう何度も突きつけられた疑いのない事実。そしてこの問題は、多くの場合、格差となってそこに居座り続ける。人々がその悪影響を知るのは随分後になってしまうのである。
学年が上がるにつれて、この辺の問題意識に少しだけ敏感になった。物事を考えるときに、「自分が」から「団体が」、そして「社会が」というように視点がマクロになっていった。
そして、マクロになればなるほど、自分1人では何もできないということを突きつけられるのである。視点がマクロになるのは、成長とはまた違うんだろうなぁ。
そろそろとりとめがなくなってきたので終わろうかと思う。
結局、支援には伴走という想いが込められてほしい。そして自分の手が届くニーズには、敏感であってほしいし、そうありたい。
「自分の手が届く」という言葉には、ちっぽけで何も社会の役に立たないような自分たちでも、目の前にいるほんのわずかな人に耳を傾けることができる、という意味を込めたい。
たった数人の大学生が1人の子どもと勉強して、あそんで、笑顔にするということには、それが社会にとってどれだけちっぽけなことでも、
教育の大切なものがそこにあるのではないだろうか。
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