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「悩み」とは何か?に関する考察

生きることと悩みは切り離せない。稀に悩みが一切ないという人もいるかも知れないが、それはおそらく特殊事例だ。かくいう私も悩める凡人の一人なので、悩みとは何かということに少しだけ向き合ってみたいと考えた。

悩みは何かを具体的書き起こしてみても、その内容は空虚に近いものだ。なぜならそこに書かれていることは、悩みそのものではなく悩みの原因だからだ。悩み(厳密に言うとここで考察すべき悩み)とは、悩みの原因となっている事実だけではなく、悩みの感情を含めたものだ。
例えば「モテすぎることが悩みだ」と聞いたとき多くの人はどう考えるだろうか?おそらく「贅沢な悩み」だとか「それって本当の悩みと言えるものなのだろうか?」と考える人も多いのではないだろうか。世の中にモテすぎる人はごくわずかしかいない。つまり大多数の人はモテすぎて困ったことがないから、共感が難しいのである。
逆に「全くモテないことが悩みだ」であれば、多くの人が共感できるだろう。世の中、モテすぎる人より全くモテない人が断然多いだろうし、全くモテないまではいかなくても、恋が叶わなかった経験をした人も大勢いる。だから好きな人から相手にされなかったときの感情は多くの人が理解できるし、そのため全くモテない人の辛さも想像しやすい。
かといって、モテすぎる人の悩みが、全くモテない人の悩みに比べて軽いものかといえばそうではない。「モテすぎる」「全くモテない」というのは単なる事実であって、どれほど辛いか、どれほど苦しいかという感情そのものとは別物なのである。だから共感できる人が少ないからと言って、モテすぎる人の悩みの感情が重くないわけではない。そのため悩みの原因となる事実だけを書き出しても、それは悩みの本質的な部分を担う感情面に言及していない代物であり、よって悩みの内容としては空虚に近いものなのである。同じ事実に対して深刻に考える人もいれば、そこまで深刻に考えない人もいるのだから。
このように、悩みとは、不安や苦しみ、辛さといった感情込みのもを言う。だから極端な話、悩みの原因となる事実が具体的に無くても、そこに不安や苦しみの感情があれば悩みは存在しうる。

さて、私が大人になってから悩み(の感情)を最も大きく感じるは次のよう な場面だ。
仕事で何かトラブルが起き、そのトラブルに対処できるのは明日以降だとなったときの、その当日の夜である。悩みの感情が最大化するのは、今まさにトラブルに対処しているときではなく、トラブル対応をすることが確定している前日だ。
サザエさん症候群という言葉があるように、われわれは今このときではなく、明日のこと、未来のことに対して悩む。これはおそらく人間特有のことだろう。それは人間が、未来の自分の置かれる状況について、かなり具体的に予測や想像ができるからだ。賢い動物ならある程度先のことを予測できるかもしれないが、人間ほど具体的に未来を予測できる種族はいないだろう。
一方でわれわれは未来のことを相当の精度で予測できるからこそ、その予測を踏まえ、自分が望む未来になるよう計算して行動することができる。例えば、将来ミュージシャンになりたいと考えるなら、自分が思い描くミュージャン像から逆算して、そのために必要な技能やスキルを想定し、それを身につけるために楽器を練習したり音楽理論を勉強するだろう。つまり未来を予測する能力により、こうなりたい、こうなって欲しいという未来に向けて行動を選択する自由が担保される。(逆に未来の予測ができなければ、自分の行動がどのような結果に繋がるかまるで分からないので、即物的、本能的な選択しかできなくなり、事実上、行動の自由選択ができなくなるはずだ。)
したがって、未来に向けての悩みは、人間を人間たらしめているところの一つものである自由、その代償として課されている。
ここから、この未来に意識が向かうことによって生じる悩みを未来志向の悩みと呼ぶことにする。

上述したとおり悩みは具体的な原因となる事実がなくても生じうる。これは未来志向の悩みとは少し性格を異にする。そのパターンについて顕著なのが思春期の頃の悩みである。ここ最近は私もすっかり未来志向の悩みだけが悩みのような気がしていたが、学生の頃を思い出すと、そうでもないことに気が付いた。
学生の頃の悩みは、今から振り返ると取るに足らぬようなものも多く、事実だけを客観視すると何ら重大なことではないものばかりだが、少なくとも当時の私はそれを深刻に感じていた。それは視野が狭かったり知識が不足しているといったことも関係しているが、それとあわせて、自意識過剰から来る負の感情があったように思う。アイデンティティや自己認識の不安定さから来るものといった解釈もできるかもしれない。例えば学生の頃は公衆浴場などで裸を晒すのに抵抗があったが、今はほとんど無くってしまった。自分の身体が世間と比べ標準的なものではないかもしれないという不安もあったかもしれない。今は自分の身体がどうであろうと周りに迷惑をかけるわけでもないし気にならないようになった。もっと言えば、自分の身体が劣っているかもしれないという不安感があったのが、自分の身体が劣っていたとしてもそれはそれで自分であると受け入れて、全く問題に感じないようになった。
大人になった現在でも、悩みに自意識から来る要素がなくなってしまったかといえばそうではないかもしれないが、今は仕事や家族など自分以外のものにまつわる悩みが大半を占めているように感じる。
ちなみに自分以外のものとなる場合、基本的に未来志向の悩みとなるはずだ。というのも職場に迷惑がかからないように行動するとか、家族の幸せを実現するように行動するといったことは、今ではなくこれから先そうなるかならないかという話だからである。(逆に未来志向の悩みが全て自分以外のものに関する悩みとはならない)
といっても未来志向の悩みと自意識に伴う悩みも深堀りすれば同じところにたどり着くかもしれない。その点はまだ確信が持てない。例えば、自分以外のものに関する悩みは未来志向の悩みと述べたが、それも結局、職場の人間や家族からどう思われたいかという自意識に還元されるという考え方もありうる。ただ現時点では自意識に関すると悩みと自分以外のものに関する悩みは一線を画すると考えている。

ここまで悩みについて思うことをつらつら書き連ねてきたが、セラピストではないので、悩みを解消する方法を提示できるわけでもない。ただこういった考え方はできる。
トラブルに対応しなければならないという義務感がなければ悩みは生じないかもしれないが、代わりにトラブルにきちんと対応しようとする意識も生まれないはずである。つまり義務を果たそうとする意志と義務を果たせるのかという不安やプレッシャーは表裏一体なのである。そう考えると悩みと感じた時点で責任感を持った社会人である証拠ということで自分を肯定できる。
そして、事の重大さと悩みの感情の深刻さは必ずしも釣り合っているわけではないということを踏まえると、事実と感情をうまくチューニングするというアプローチもありうるかもしれない(客観的事実としての重大さと本人が思う感情面での深刻さを比較したときに後者の方が大きい場合、事実にあわせればそこまで感情的に深刻にならずとも良いと意識し直すことができるかもしれない)。
加えて言えば、感情は身体の状態にも影響されるので、疲労や寝不足などでも悩みは増幅するかもしれない。(つまりしっかり休めば悩みは軽くなるということだが、当たり前といえは当たり前のような…)

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