英国と英国王室の歴史   その4

英国と英国王室の歴史   その4


 母親のメアリー・スチュワートが王位から追放され、わずか1歳でスコットランド国王となっていたジェームズ6世は37歳で英国王・ジェームズ1世(在位1603~25年)も兼任するようになり、家族・側近らとともに意気揚々とロンドンに移住して来た。英国におけるスチュワート朝の始まりである。

 しかし幼年のスコットランド国王時代に長く実権が無かったジェームズ6世は、いつの間にか絶対王政を意味する王権神授説を妄信するようになり、そのまま英国王室にも持ち込み議会を軽視する。またデンマーク王室から嫁いできたアン王妃の猛烈な浪費癖に加えて子供が7人もいたため、たちまち英国の財政を圧迫してしまう。

 さらに英国内では英国国教会を支持するが改革派の清教徒(ピューリタン)を弾圧し、また魔女狩りを頻繁に行うなど「名君」だったとは言い難い。清教徒が弾圧を避けてメイフラワー号で米国に移住したのが1620年である。

 そして大した実績もなかったジェームズ1世の死後、1625年に即位した次男(長男は早世)のチャールズ1世は、さらに絶対王政を強めて議会と対立し清教徒を弾圧する。その結果、チャールズ1世は1642年に始まった清教徒革命に敗れて1649年に処刑されてしまう。英国史で唯一処刑された国王とされていたが、後に「9日間の女王」であるジェーン・グレイが即位していたと追認されたため、2人目の処刑された国王となった。

 そこからの英国は護国卿のオリバー・クロムウェルのもとで共和制となる。しかしクロムウェルの死後は共和制を維持できず、英国史で唯一の共和制は11年で瓦解する。そして処刑されたチャールズ1世の長男で欧州大陸を転々としていたチャールズ2世が帰国して即位し)、王政が復活する。チャールズ2世の在位は1660~85年である。

 このチャールズ2世は帰国して真っ先に埋葬されていたクロムウェルの遺体を掘り起こして絞首刑・晒し首とした。また欧州大陸を転々としている間に多数の愛人と庶子をもうけた以外にエピソードはない。

 ちなみに現国王のチャールズ3世は、処刑されたチャールズ1世と、王政復古したチャールズ2世の名前を引き継いでいることになる。

 チャールズ2世が亡くなると、その弟がジェームズ2世として即位するが、カトリック教徒だったため議会と対立し1688年~89年の名誉革命で追放される。ジェームズ2世の在位は1685~88年の3年だけだった。

 名誉革命後は、追放されたジェームズ2世の長女でプロテスタントだったメアリー2世と夫であるオランダ総督のオラニエ公ウイレム(英語名・オレンジ公・ウイリアム=ウィリアム3世)との共同統治となるが(在位1889~94年)、この2人に子供が出来ない。

 英国王室がカトリックを嫌う根本的理由は、当時のフランス王室はカトリックで絶対君主であったルイ14世の治世(在位1643~1715年の72年間で、世界の国王の中で最長)で、スペイン王位継承にも干渉しており「カトリック王室=絶対君主=強い=英国王室も乗っ取られる」と警戒していたからである。恐怖心があったという方が正確かもしれない。

 また追放されていたカトリックのジェームズ2世もフランスに逃れ、そのルイ14世の保護を受けながら復活の機会を窺っていたことも英国王室を神経質にした。

 ところでこのジェームズ2世は、この時期のスチュワート朝では珍しく「優秀」で皇太子時代は海軍総司令官となっていた。そして英国経済が発展する最大要因となった奴隷貿易を拡大させる。英国経済はこの奴隷貿易でため込んだ富で産業革命を成功させ世界の最強国となるが、皮肉にもその最大功績者がこの追放されたジェームズ2世だったことになる。

 話が急に飛ぶが1997年に亡くなったダイアナ元妃の実家であるスペンサー家は、このカトリックだったジェームズ2世の子孫である。当時はジェームズ2世の子孫が英国王室に復帰したと言われたが、間もなくダイアナ元妃もチャールズ皇太子(当時、現国王)と離婚して「事故死」したとされる。はっきり公表されていないがスペンサー家は現在もカトリックのはずで、これも元妃の離婚と関係していたはずである。ここまでくると英国王室のカトリック嫌い(というより恐怖心)は徹底している。

 ただダイアナ元妃の「事故死」の直接の背景は、元妃がイスラム教徒である大富豪の息子との再婚が近いとされていたからである。当時の元妃は実家のスペンサー家からも絶縁されていた。英国王室はカトリックに恐怖心があり排除しようとするが、英国王室もカトリックのはずのスペンサー家も「イスラム教徒は問題外」だったようである。

 話を戻す。その後のスチュワート朝はジェームズ2世の次女(メアリー2世の異母妹)のアン女王が1702年に即位するが、アン女王も流産・死産を繰り返して健康に育った子供がいない。そこで議会は1701年に王位継承法を制定して王位継承ルールを取り決める。

 そこで英国の王位継承者はステュアート家の血を引くプロテスタントの直系長子に限るとした。王位継承者は正式にプロテスタントに限定されたが、もちろん庶子は除かれる。この王位継承法は2013年に一部改正され、男女を問わず長子継承となる。それまでは男性長子が女性長子に優先していた。1952年に即位したエリザベス2世には妹しかいなかったため改正前でも即位に問題はなかった。

 エリザベス2世が亡くなりチャールズ皇太子が新国王となった根拠も、この王位継承法による直系長子継承である。英国民の間で人気の高いウィリアム王子に直接継承できない。チャールズ皇太子(当時)が即位を辞退すればよかっただけであるが、生前のエリザベス2世がそう望まなかったはずで、亡くなる直前にチャールズ皇太子が2005年に再婚したカミラ夫人の「王妃」継承も認めている。

 そして1714年にアン女王が亡くなった時点で、スチュワート朝の血を引くプロテスタントとする王位継承資格者のトップが、ジェームズ1世とアン王妃の娘であるエリザベス・スチュワートの娘で(何と第12子)ハノーヴァー選帝侯妃となっていたゾフィー(英語名・ソフィア)となり、王位継承法でも「ゾフィーの子孫に限る」と規定されている。

 そのゾフィーもアン女王の2か月に亡くなっていたため、その長男のゲオルク・ルートヴィヒが英国王・ジョージ1世(在位1714~27年)として即位する。その時点で54歳になっており、ハノーヴァー選帝侯との兼任である。英国名はゲオルク(Georg)の英語読みのジョージとなった。

 英国王室としてはハノーヴァー朝の始まりであるが、その後の国王もハノーヴァー選帝侯との兼任が続く。また英国王が突然ドイツ(ハノーヴァー公国)から迎えられることになるが、これも1701年制定の王位継承法に則った選出である。

 スチュワート朝のルーツであるスコットランド王室の系列などカトリックはすべて王位継承者から外されており、それがなければゾフィーの継承順位は50番目くらいだった。またスコットランドは1707年に英国と統合されており、英国王室より長い歴史があるスコットランド王室も消滅していた。

(続く)