英国と英国王室の歴史 (終わり)
英国と英国王室の歴史 (終わり)
ジョージ1世は現在の英国王室の直接の祖となるので、そこから現国王のチャールズ3世までを少し詳しく解説しておく。ハノーヴァー朝の名前は変遷していくが、血は直接繋がっている。
選帝候とはドイツ(神聖ローマ帝国)皇帝を選ぶ選挙権のある諸侯のことで、ハノーヴァー選帝候は1692年に成立したばかりのハノーバーヴァー公国の君主である。ドイツ(神聖ローマ帝国)に統一国家が誕生するのは1871年のことで、ハノーヴァー公国も1866年にプロイセン王国に併合され消滅している。
つまり現在の英国王室は、そのルーツが消滅している。
ハノーヴァー朝の祖となるジョージ1世は英語を話さず(話せず)、英国の政治にもほとんど関心がなく、たまに英国へ渡るだけで政治は議会と内閣に「任せっ切り」となる。そこから「国王は君臨すれども統治せず」あるいは「内閣は国王ではなく議会に責任を負う」という英国政治の基本が出来上がっていく。
ジョージ1世は、英国王としての実績は何もなく、当然に英国では不人気で、だいたいほとんど英国に居なかったが、ハノーヴァー選帝侯としては無能だったわけではない。王妃のゾフィー・ドロテアが絶世の美女だったにもかかわらず全く顧みず、妾のメルジーネを溺愛し、英国にも連れて行き爵位を与えて実質的に王妃として振る舞わせた。
メルジーネは長身だったが美貌は王妃のドロテアにはるかに及ばない。しかも金銭欲が強く(英国政治に興味がない)ジョージ1世に代わって権威を振りかざしたため、英国での評判は最悪だった。
またジョージ1世は全く顧なかったドロテアが愛人を作ると、そのドロテアをアールデン城に32年間も幽閉する。愛人は発覚直後に遺体で発見された。
そんなジョージ1世が1727年に亡くなると、そのドロテアとの間に生まれていた長男のゲオルク2世がジョージ2世(在位1727~1760年)として即位する。外国生まれの最後の英国王で、まだまだ英国王に「専念」していたわけではなく、英国での人気も「いまひとつ」だった。また父親のジョージ1世とは大変に不仲だった。
1760年にジョージ2世が亡くなると、長男のフレデリックが早世にしていたため、その長男のウィリアム(つまりジョージ2世の孫)がジョージ3世(在位1760~1820年)として即位する。その時点で22歳だった。このジョージ3世になって、ようやく英国に定住し、英語を話し、英国王に専念するようになる。英国内の人気も徐々に上昇していった。
依然としてハノーヴァー選帝侯との兼任だったが、在任中の1806年に神聖ローマ帝国が消滅したため、選帝侯ではなくハノーヴァー国王となる。ちなみにジョージ3世は生涯一度もハノーヴァーを訪れていない。また英国は1801年にアイルランド王国を併合したため、アイルランド国王も兼任する。59年を超えるジョージ3世の治世は、その初期に植民地だった米国を独立させてしまったところに尽きる。
ジョージ3世の即位を挟む1756~63年に、英国・プロイセン・ハノーヴァー公国連合軍と、フランス・オーストリア・ロシア連合軍との間で「7年戦争」となる。実質的に最初の国際戦争となる。この戦争は米国内の英仏植民地間でも行われ(フレンチ・インディアン戦争)、勝利した英国植民地は1763年のパリ講和条約でミシシッピ川より東の広大なフランス植民地を獲得する。
ところがジョージ3世は獲得した広大なフランス植民地を「国王直轄」として、米国東部13州の住民の入植を禁じてしまう。また「7年戦争」の戦費を取り戻そうと、米国東部13州に印紙法(すべての出版物に課税する)や茶法(英国の東インド会社の取り扱う紅茶しか販売を認めない)を押し付ける。
この時点の英国はまだ完全に「国王は君臨すれども統治せず」との政治体制にはなっていなかった。ちなみに東部13州の1つだったジョージア州はジョージ3世の名前から、フランス領だったルイジアナ州はルイ14世の名前から付けられている。
しかしこの時のジョージ3世に対する米国東部13州の不満が直接のきっかとなり、英国からの独立を求めて米国独立戦争(1775~1783年)となる。この戦争も米国東部13州・フランス・スペイン・オランダ・プロイセン連合軍が、英国・ハノーヴァー公国連合軍と戦った「れっき」とした国際戦争である。英国以外の欧州諸国が参戦している理由は、もちろん米国で新たな領土(植民地)を獲得するためである。
そして戦争開始直後の1776年に米国東部13州が一方的に独立を宣言し、1783年のパリ条約で英国も米国独立を認めてしまう。これは英国政府が「バラバラの東部13州がひとつの独立国としてまとまるはずがない」とタカをくくっていたからである。
これで米国独立戦争に参戦していた英国以外の欧州諸国も完全にタダ働きとなり、フランスではルイ16世が国民の支持を完全に失いフランス革命(1789年)の原因ともなる。また米国独立時にまだ38歳だったジョージ3世も、そこから政治にあまり口を挟めなくなる。
そんなジョージ3世の死後は、長男のジョージ4世(在位1820~30年、浪費癖と女癖の悪さで大変に評判が悪かった)、さらにその弟のウィリアム4世(在位1830~37年、兄とは全く違ったまじめな海軍軍人だった)と続くが、依然としてハノーヴァー選帝侯との兼務で、妃はすべてドイツ諸侯の子女から迎えていた。
ちなみにウィリアム4世は64歳で即位しており、これは現国王のチャールズ3世が73歳で即位するまで英国王室史における最高齢の即位だった。成人した子女がいなかったウィリアム4世が亡くなると、その弟であるエドワード(直前に亡くなっていた)の長女ヴィクトリアが18歳で即位する。
若くして即位したヴィクトリアの在位は1937~1901年の64年に及び、エリザベス2世の70年に次ぐ次具。またハノーヴァー選帝侯は女性に継承権がなかったため、ヴィクトリアはハノーヴァー朝で初めて英国王に専念することになる。
またこの時期の英国は、アヘン戦争(1840~42年)、アロー戦争(1856~60年)に勝利して清国の半植民地化を進めていった。日本に対しては薩英戦争(1863年)で苦戦したこともあり、薩摩・長州による明治新政府誕生に手を貸し経済的利得を狙う。
また1858年には現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ミャンマーを含む広大な地域を英国領インド帝国とし、ヴィクトリアは1877年に初代インド皇帝を兼務する。英国王が「最初で唯一」となる皇帝の称号を得たことになる。
まさにヴィクトリアの治世は、エリザベス1世の治世と並び英国が国力を拡大させていた「黄金期」となるが、ヴィクトリアの治世は「国王は君臨すれどもでも統治せず」の政治体制が最もうまく機能していた時期となる。首相・外相を長く務めたパーマストン子爵のような「えげつない」閣僚が英国の政治とくに海外戦略を主導していた。
ヴィクトリアも、それまでのハノーヴァー朝の国王と同じようにドイツからザクセン・コーブルク・ゴータ家のアルバートを夫に迎える。大変に夫婦仲が良く、アルバートが1861年に42才で早死にすると、ヴィクトリアは10年以上も喪服で過ごした。
ヴィクトリアの死後は長男が59歳で即位しエドワード7世(在位1901~1910年)となり、ゴータ朝が始まる。通常の王位継承であるが、父方がハノーヴァー家からゴータ家に変わったことによる王朝名の変更である。
このエドワード7世の治世の1902年に日英同盟が締結されている。共にロシアの南下に対抗する必要があったところ、エドワード7世が渡英した伊藤博文・元首相との会談で意気投合して同盟締結となった。伊藤は幕末に長州藩から英国に密留学しており、英語が話せたことが大きい。伊藤の英語は大変に下手だったらしいが、トップ外交には十分である。
エドワード7世が亡くなると、長男のアルバートが1892年に亡くなっていたため次男のジョージ・フレデリックが45歳でジョージ5世(在位1910~1936年)として即位する。
ジョージ5世は次男だったため海軍軍人となり、軍艦で植民地を含む世界各国を訪問していた。また射撃の名手でもあった。1881年には日本を訪れ、そこで見た刺青を気に入り腕に龍の刺青を彫らせている。皇太子となった1901年に除隊しているが、その後も海外歴訪を繰り返して、非常に外交的な国王であった。
ジョージ5世の治世の1918年に、海外植民地を含めた英国領土が人類史上最大の3370万平方キロメートル(陸地面積の約4分の1)となる。
皇太子時代の昭和天皇が1921年に訪英された際、ジョージ5世は自ら大歓迎し、そこから天皇家と英国王室の親密な関係が始まる。
また1917年に第一次世界大戦が始まると、敵国ドイツ風の王朝名ではまずいため、英国風のウィンザー朝に変更している。そのジョージ5世が亡くなると、長男のエドワードがエドワード8世として1936年1月に即位するが同年12月に退位してしまう。
エドワード8世は独身で即位したが、皇太子時代から既婚者である米国人のウォリス・シンプソン夫人と大変に「親密」だった。そこをボールドウィン首相にたしなめられると、があっさりと王位を放棄してしまった。
生前退位であるが英国王室の生前退位は非常に珍しく、名誉革命で追放された(退位させられた)ジェームズ2世以来で、もちろんその後も例がない。
皇太子時代に日本を訪問したこともあるエドワード8世は、退位後はヒトラーやムッソリーニに接近して英国や英国王室の頭痛の種となる。ナチスが英国を征服した時は国王に戻す密約があったとか、そもそもシンプソン夫人がナチスの意向を受けてエドワード8世に近づいたなどとも噂されたが、どちらも事実ではなさそうである。
エドワード8世が退位したため、次男のアルバート・フレデリックがジョージ6世(在位1936年~1952年)として即位する。エリザベス2世の父君で、映画「英国王のスピーチ」のモデルでもあり、実際にひどい吃音を克服している。
ジョージ6世の治世は、英国が大英帝国時代の領土を次々と失い、第二次世界大戦後の覇権を米国に奪われ、斜陽の国への坂道を転げ落ちていた時代となる。ジョージ6世も「決して望んだわけではない」王位で苦労したのか1952年に56歳で亡くなり、エリザベス2世(在位1952~2022年)が即位する。
70年に及びエリザベス2世の治世は、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを含む英国民の敬愛を集め、直接の政治権力は保持しないが数多くの公務を通じて英国、旧植民地で構成される英連邦、EUを含む欧州全域、自由主義諸国、そして共産主義や独裁国営含む全世界に対する影響力は大きかった。エリザベス2世の個人的な人気に負うところが大きい。
また英国王は、英連邦に所属するカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、カリブ海諸国を含む14か国の国家元首を兼ねる。
エリザベス2世は2022年9月8日に96歳で亡くなり、現国王のチャールズ3世が即位している。また王朝名は、エリザベス2世の夫のフィリップ王配がマウントバッテン家の出身であるため、マウントバッテン・ウインザー朝となっている。
チャールズ3世は2024年2月に癌を公表している。
(終わり)