生娘シャブ漬け炎上案件を正しく読み取れていない人が多いかもしれない案件
最近はマーケティングと広報にかかわることが多い身として思うことがあったので、久々にノートを書いてみようと思う。話題は吉野家役員の不適切発言だ。
吉野家も言う通り不適切な発言であることは分かりきっているのだが、それ以外にも個人的には気になることがあったので筆をとった。このニュースへの反応を見ていると、「日本語が伝わっていないようだ」と思ったからだ。
「生娘シャブ漬け戦略」とは何だったのか
まず最初に、吉野家の取締役が本当に説明したかったマーケティング戦略が一体なんだったのかを、マーケティングに関わらる人間として不適切でない表現に翻訳してみようと思う。すでに不適切な発言から読み取れている人には不要な解説だが、あえて長々と説明して置かなければ本題が語れないのでご容赦いただきたい。
上記は講座に参加したらしい女性のFacebook投稿の一部だ。「生娘シャブ漬け戦略」のより詳しい内容が説明されている。翻訳の納得感を補強するため、この投稿も参考にしていきたいと思う。
では、翻訳を始める。
まずは「生娘」が何を意味しているかを読み解いていこう。いくつかのニュアンスを含んでいるが、まず思いつくのは「処女である」ということだ。
「処女」という言葉は性交渉の経験がない女性を指す言葉だが、しばしば比喩的にも使われる。造船して初めての出向を「処女航海」と呼んだり、人生で初めての作品を「処女作品」と呼んだりするのは聞いたことがあるのではないだろうか。すなわち、ここでいう「生娘」というのは、「吉野家をまだ経験したことがない」という意味を比喩しているのだ。
「生娘」が示唆しているのはそれだけではない。生娘というのは単なる性行為の有無だけでなく、初々しく幼さの残る「初心(うぶ)な女性」であることも指す。つまり、吉野家のマーケティング施策がターゲットとしているのは単なる「若い女性」ではないのだ。
吉野家の常務取締役が示したかった「初心(うぶ)な女性」とは何なのかは、前述のFacebook投稿から読み取れる。すなわち「田舎から出てきた右も左もわからない若い女の子」だ。これも不適切な表現なので、マーケティングという観点から翻訳する。
具体的に「田舎から出てきた右も左もわからない若い女性」がどんな女性かといえば「進学や就職などで転居してきたばかりの女性」だ。つまり、生活のスタイルが変化したばかりで、まだ定まっていない状態である。
ここで考えるべきポイントは、「若い女性向け」でありながら「生活スタイルが変わったばかりの女性」というニッチなターゲットに絞っているということだ。逆説的に、他の「若い女性」には施策が難しいと考えていることが予想される。
ファーストフードのマーケティング戦略の王道として、「子供の頃から親しんでもらう」というものがある。味のような感覚的な好みは一生を通じて変化が少なく、小さい頃に好きになった食べ物は多くの場合で大人になっても好きだからだ。経済的な余裕ができても「無性にジャンクなものが食べたくなった」などと言ってマクドナルドのポテトやケンタッキーのフライドチキンを食べている人が身近にいないだろうか。
しかし、吉野家はこうした子供向けのマーケティング戦略を取りづらい。多くの店舗が路面店で、回転率と座席数を重視した間取りは子供連れには入りにくい。ボックス席に重点を置いたファミリーレストランやフードコート併設店の多いマクドナルド、持ち帰りやクリスマス商戦といったイベントの強みがあるケンタッキーなどと比べると、吉野家は子供向けの戦略が難しい状況にあるのだ。
では、子供を除いた「若い女性」ではなぜだめだったのかというと、そこは「男に高い飯を奢ってもらえるようになれば」という部分から読み取れる。生娘の翻訳途中ではあるが、こちらの不適切発言も翻訳してみよう。
まず、この翻訳の前提として知って置かなければならないのが吉野家の現在の女性需要だ。
2年前の記事ではあるが、ダイアモンド・オンラインによると吉野家のイートイン男女比率は8:2であるそうだ。一方でテイクアウトだと5:5である。すなわち、潜在的には女性顧客が見込めるはずではあるが、イートインでは需要を逃しているという見方ができるだろう。現状として女性に選んでもらえていないということだ。
この視点に立って「男に高い飯を奢ってもらえるようになれば」という言葉を翻訳する。「男に高い飯を奢ってもらっているような状況」というのは、つまり「ディナーデート」だ。
ディナーデートをする女性は、ちょうど生娘でいう「進学や就職したばかりの女性」と対比する存在として登場している。すなわち、大学生にしろ社会人にしろ、ある程度生活スタイルの型ができている存在を示す例として登場させられているのだ。
もう一つ、このディナーデートが比喩しているのが、食事に対して何を評価基準としているかだ。ここで思い出してほしいのが、吉野家の有名なコンセプトフレーズである「はやい、やすい、うまい」だ。この3つが同社のアピールポイントであるが、ディナーデートが比喩しているのは「はやいことを食事の評価軸として重視しない」という価値基準なのだ。単なる夕食であれば提供のはやさを評価するかもしれないが、ディナーデートでは「はやい」が求められることはないと言っていいだろう。
吉野家を利用しない女性像の例としてディナーデートをする女性を登場させていることから、同社が「女性需要を取り込めていない理由」をどう分析しているかが読み取れる。すなわち、「はやい」という強みが通用しないということだ。「高い飯」と言っていることから、「やすい」ことも十分な強みになっていないと見ているのだろう。この2点を強化したり、アピールしたところで、女性需要の獲得には至らないだろうというのが吉野家経営陣の考えだと読み取れる。
では何で女性需要を獲得しようと考えていたかのか。最後の不適切ワードである「シャブ漬け」の翻訳に入ろう。つまり、「味」である。
「シャブ」というのは覚醒剤を指す隠語だが、覚醒剤と吉野家というのは共通性が乏しい。覚醒剤は「高い」し、簡単には「手に入らない」。「やすい」「はやい」とは対局である。だが、「中毒性がある」という点だけは、「うまい」と共通性がある。ファーストフードの家族向け戦略である、慣れ親しんだ味だ。「シャブ漬けにする」というのは、「美味しさを知ってもらう」ということに他ならない。
吉野家は「やすい、はやい、うまい」に自信を持っている。そしてテイクアウト需要からも読み取れる通り、その味はきちんと女性需要に応えられると吉野家経営陣も考えているのだろう。課題はファーストフードの家族向け戦略が難しいために、その味に慣れ親しんでもらう機会を喪失していて、結果として特に女性の需要を取りこぼしているということだ。
以上のことから、「生娘をシャブ漬けにする戦略」を翻訳すると次のようになる。
「進学や就職といったタイミングの女性向けにマーケティング施策を強化することで、生活スタイルの型が定まる前に味の魅力を知ってもらい、価格や提供の速さではリーチができていなかった女性層からの長期的な需要獲得を狙う戦略」
翻訳してみればなんてことはない、現状分析と王道的マーケティング施策に基づいた妥当な戦略と言えよう。
「女性差別」などと受け取られた理由をわざわざ言語化してみる
さて、ここからようやく本題だ。
広報にかかわる人間としてはこうした会社のキーパーソンの不注意な発言には目を光らせなければならない。そこで、この事例から教訓を得られるように、吉野家常務の発言が「女性蔑視」だと読み取られてしまった理由というわかりきったものをあえて言語化してみよう。
実のところ、単語ベースでは「シャブ漬けにする」という言い回し以外は理屈の上では問題がない。例えば「生娘」という表現。「処女航海」や「処女作」といった慣用表現が受け入れられているように、処女性を比喩的に使ってもそれが即座に性差別だと断じられるわけではないはずだ。
「生娘」という表現が問題な理由は2つあると考える。一つは「生娘」という単語が単なる処女性ではなく、それによって「初心な娘」という性質も指している表現ということ。もう一つが、比喩表現であると読み取れていない人がかなり多いということだ。
前者は、戦後から続くウーマン・リブの流れからくる反発だと考えられる。生娘が「処女であるからには初心(うぶ)に違いない」と決めつけるかのようなニュアンスで使われるケースがあること、生息子という表現を使うコンテンツが相対的に少ないために「女性ばかりが処女性の有無によって評価される」といった差別的な感覚を受ける言葉として認知されているかもしれない。
こうした、辞書の定義にも書かれていない言葉のニュアンスの変化に加えて、「右も左もわからない」という言い回しも重なって女性蔑視だと感じる人が多いのだと推測される。また、「処女性」という言葉を「神聖」の類語のように使う創作物もあることから、慣用句として定着している表現(処女航海、処女作など)も含めて処女性を比喩的に使うことそのものに反感を感じる人が増えていると捉えるべきだろう。
「男に高い飯を奢って貰う」というのも同様に女性差別的と取られるだろう。比喩的な役割としては「食事に対して価格や提供の速さを重視しない生活スタイルの型がある程度決まっている女性」という意味でしかない。が、食事の奢る・奢られるといったシーンは男女間のステレオタイプの決めつけとして定番の話題だ。「女性は食事を奢って貰う立場である」「男に奢られたがっている」といった決めつけかのように受け取られれば、女性蔑視と批難する声があがるのも無理からぬことだ。
男女の表現にあって、ウーマン・リブの流れが続く女性に関する言い回しにはやや過剰に差別的なニュアンスを感じ取られる場合が多い。もともとの言語体系として封建的だったころの言葉が多く、歴史や歴史を参考にした創作物でもそういった時代を取り扱うコンテンツが多い。辞書的には差別的な意味を持たない表現であっても、女性を形容するような単語は言い回しはそれだけで差別的だと捉える人が多いと認識するべきだろう。
明らかな暗喩でも文面通りに読んでしまう
もう一つは、比喩的な表現だと認識されていない可能性だ。全員ではないものの、どうにも伝えたかったはずのマーケティング戦略が理解されていないのだ。
例えば、ある女性はTwitterで次のように発言していた。
書き出しは「吉野家のマーケティング戦略の想定シナリオ通りである」と名乗りあげているのかと思いきや、どうやら「男に高い飯を奢ってもらえるようになれば絶対に食べない」を文字通りの意味に読み取ってしまっているようだ。
比喩的な意味を読み解けば、「吉野家の味を知らないうちに生活スタイルの型ができ、はやい・やすいの評価が高くない女性」は「食べない」と言っていると分かる。が、それがどうにも伝わっていない。女性は「自社の牛丼をもっと愛してほしい」といっているが、むしろ常務は覚醒剤の中毒性に例えるほど、自社の「味」が無性に食べたくなると自信満々だ。つまり、「絶対に食べない」という例え話は、「味を知らないから買ってもらえない。味さえ知って貰えれば、『はやい・やすい』の評価が高くなくても買ってもらえる」と言っている。
「生娘」が女性蔑視と受け取られたのも、その処女性が「吉野家で食事をしたことがない」ことの比喩だと伝わっていないのが理由の一端かもしれない。日本人のうち、月に1冊も本を読まない人がほぼ半数。ニュースやSNSでは比喩的な表現は少なく、小説のようなフィクションの創作物に慣れていないのがほとんどだと考えると、こういった公の場では暗喩的な表現は使わない方がいいと考えたほうがよさそうだ。
仮に明示的に例え話だと示しても、ニュース記事やSNSでは過激に切り取られる場合もある。公の場では、そもそも例え話をすることが一種のリスクと捉えるぐらいに考えておいてもいいかもしれない。