文人たちの江戸名所(一)        「根岸鎮衛と芝神明宮」前編

「江戸の三男」が揃い踏み!
「てぇへんだ、てぇへんだ~い!」
「なんだい熊さん、騒々しいよ。まるで火事でも起きたように騒ぐんじゃないよ」
「いやさ、そいつだ!火消が百人集まって、神明さんに突っ込んでいったぜ」
「え~っ、とびが突っ込んでいっただと?神明さんから火が起きたか、あわわ、こりゃ逃げなきゃ」
「大家さん、腰が抜けちまったか。いい歳して早とちりすんない。火事じゃねぇよ。出入りでぇ」
「驚かすんじゃないよ、まったく。で、喧嘩の相手は?」
「相撲取が丸太や刀を持って待ち構ぇてるのよ。幕内の四ツ車よつぐるまも居るんだぜ」
「四ツ車!ほい、そいつは見逃せねぇ!行かなくちゃ」
「あら~、もう行っちまったよ。大家も好きだねぇ」
 文化二年(1805)正月十六日、「芝神明」の愛称で親しまれていた、飯倉神明宮で、火消しと相撲取の大乱闘という珍しい事件が勃発しました。
 こちら現場です。心配して見守る皆さんにお話を伺ってみましょう。
「おお、あれは怪力の四ツ車じゃないか。鳶を持ち上げて投げ飛ばしちまったよ、アハハハ」
「ぴょ~んと飛んでったよ。へっ、こいつは砲丸投げか」
「お、鳶の辰五郎が屋根に上って瓦を投げ始めやがったぞ。俺はあいつと同じ町内なんだぜ。身軽だねぇ」
「いよっ、辰五郎!日本一!」
「九龍山がガオ~ッと吠えたね。あらら、火消の首を捕まえて、ぐるぐる回し始めちゃったよ。お~い、それじゃ首が抜けちゃうよ~」
「いや楽しいねぇ。オリンピックよりずうっと面白れ~や」
 神明境内ばかりか、近くの路地まで、野次馬が江戸中から押し寄せて来たかのような大騒ぎです。
 駆け付けた町奉行所も、手を出しかねて遠巻きに警戒しています。神社の管轄は寺社奉行だから、町奉行所は入れないのですね。
 俗に「江戸の三男さんおとこ」は力士、火消、与力(町奉行所)と言われます。その三男が揃ったんですから、野次馬達が大盛り上がりなるのも、無理有りません。
 三田村鳶魚えんぎょが校訂した『未刊随筆百種』の中に、この事件の様々な記録を集めた『角力め組鳶人足一条』があります。
 微妙に食い違う記述を整理して事件をまとめてみましょう。
 発端は大乱闘の一日前の正月十五日。境内で開かれていた勧進相撲の、木戸銭を巡るトラブルでした。
 芝界隈は町火消「め組」の持ち場です。普段からその特権で、境内で行われる芝居や勧進相撲の木戸御免、出入り自由を認められていました。
 江戸の名主の備忘録、『重宝記』によれば、いわゆる「町火消いろは四十八組」は、この頃は壱から拾までの八つの大番組(四と七は抜け)にまとめられています。
 弐番組に属するめ組は、芝口、神明町、桜田久保町、浜松町、新銭座、源助町辺りを持ち場として、火消人足二百三十九人を抱える、大所帯の組でした。
 火消人足は一町毎に定抱じょうがかえ鳶人足と、町入用で小遣いを渡しておく駆付かけつけ鳶人足で構成されます。
 火消は町から小遣いだけでなく、法被|《はっぴ》、股引き、頭巾を渡され、鳶口を持って土木建築や道路管理に従事し、火事に出動するとその度に賃銭を受けていました。
 頭取(鳶頭のこと)、纏持まといもち梯子持はしごもちひらと序列が厳しく、団結力と縄張り意識が強い集団です。
 日頃から、ブイブイ言わせていた男が多く、うとまれてもいましたが、若者の憧れの対象でもありました。

禁断の摺半鐘が鳴った!
 本筋に戻りましょう。
 鳶頭・又衛門の倅で鳶の辰五郎は、仲間の長次郎と隣町の富士松を連れて、いつものように相撲小屋に木戸御免で入ろうとします。
 勧進元は興行を始める際、め組に挨拶をして、顔パスを認めていましたから、何の疑問も感じません。
 ところが木戸番は四角四面な男だったので、富士松はめ組ではないから駄目だと、入場を断りました。面子めんつを潰された辰五郎は、木戸番との激しくやり合います。
 そこへ通りかかったのが、柏戸部屋の幕下力士、九龍山扉平こへい。木戸番の主張を認め、辰五郎の抗議を一蹴してしまいました。辰五郎は不満タラタラで引き上げます。
 ところが翌十六日、この口論が飛び火したのです。神明社で行われる宮地みやち芝居は、市ヶ谷八幡宮、湯島天神とともに三宮芝居と言われ、大人気でした。
 この日も奥山喜太郎一座の芝居は満員で、そこに九龍山が人混みをかき分けて入ってきました。
「見えねぇぞ、うどの大木!どきゃ~がれ!」
 の鋭い声。何と、辰五郎も鳶仲間と芝居見物していたのです。
 辰五郎は昨日の仕返しとばかり、巨体の九龍山を罵倒し、周りの観客も煽られて九龍山を野次ります。
 ブチ切れた九龍山は大暴れ。なんと辰五郎を舞台に投げ飛ばして、芝居をめちゃくちゃにしてしまいました。
 すると辰五郎は、小屋を飛び出して仲間を集め、出てきた九龍山を襲撃。殴り合いの大喧嘩となります。
 ここに来合わせたのが、後に小結になった幕内力士の揚羽あげは空右衞門。知人の神明社の鳶頭・万吉と二人掛かりで仲裁し、引き分けお預けとしました。
 ところが収まらない者達が双方にいました。引き上げる九龍山の前に立ちはだかったのは、同じ柏戸宗五郎の兄弟子で、後に前頭三枚目まで上がった怪力力士、四ツ車大八。
 騒動を聞きつけて、押っ取り刀で駆け付けてきたのでした。四ツ車は短気で有名です。
「おめぇ、鳶に殴られてこのまま済ませたら外聞げぇぶんが悪いぜ。でぇち、あいつ等は相撲場すもうばを荒らしに来るに決まってらぁ。とことんやっちまえ。骨は拾ってやらぁ」
 と煽ったので、九龍山も再び気合いを入れ直します。
 帯刀を許されていた力士は刀を抜き、その他の力士も丸太を抱え、いざ相撲場を死守せんと、向かいま~~す!(浄瑠璃風に声を張り上げてね)♬ベベン、ベン、ベン。
 さてこちら、め組の頭取宅の現場です。
 頭取や長老達は、辰五郎達を何とか押さえようと必死ですが、若くて威勢の良い鳶達の突き上げが激しい。
 四ツ車の予想通り、こうなったら相撲場をぶっ壊しちまえ!の声が沸き上がってきました。
 江戸の消防は、破壊消防ですから、壊すのはお手のものです。日頃から武士身分である事をひけらかす相撲取への反発が、火を噴いたのです。
 お~っと、興奮した浜松町二丁目の鳶、長吉が、ついに火の見櫓に上がって、禁断の摺半鐘すりばんしょうを打ち始めました。
 火事が近くに迫っているぞ~っ、の合図です。
 め組の持ち場の町々から百六十五人の鳶人足が、火事場装束となって駆け付けてきました。
 もうダメ、ダメです。こうなったら止まりません。
 火消達は鳶口を振りかざして、力士が守る相撲場に、突っ込んでいきました。しびれる~。興奮してきたゾ。
 さて、突然ですが、話は平成二十四年五月の平成中村座にワープします。興奮ついでです、お許し下さい。
 出し物は「め組の喧嘩」を扱った歌舞伎『神明恵和合取組かみのめぐみわごうのとりくみ』です。
 今は亡き名優、十八代目中村勘三郎演じる頭(この芝居の設定です)の辰五郎が、水盃を交わして叩き付け、鳶達の先頭を切って戦いの場に駆け込んで行く場面。
「中村屋~!」「十八代目!」「待ってましたっ!」
 あちらこちらから掛け声や悲鳴が乱れ飛び、場内は騒然となりました。
 観客は目に涙・・・あ~、アタシも。
 難病から復帰してきたばかりの十八代目・・・その後食道癌にかかり、翌年亡くなりました、グスン。
 さて・・・そんなこんなで始まった大乱闘。
 神明社を管轄する寺社奉行はただの大名です。とても大乱闘を解決する力はありません。
 結局、遠巻きに見ていた、町奉行所が割って入り、鳶十三人を召し捕り、寺社奉行に引き渡しました。
「こらっ、へっぽこ役人、もっとやらせろ!このすっとこどっこい!おたんこなす!」
 これこれ、大家さん、お下品な。興奮しちゃだめですよ。

「劇場型お裁き」の仕掛け人
 さて、ここで一息入れて、大喧嘩の舞台となった神明社を紹介しましょう。
 飯倉神明宮こと芝神明宮は、明治五年に芝大神宮と名を変え現在に到ります。いまも立派な社殿ですが、江戸期には三倍の敷地がありました。
 参道には名物の太々餅だいだいもち屋は勿論、茶屋、矢場やば、吹き矢、小間物屋が立ち並んでいます。近くには岡場所もね、ホホホ。
 境内では、勧進相撲、宮地芝居だけじゃなく、手妻てづま軽業かるわざなどの興行も掛かる、城南一番の繁華社でした。
 幕末の地誌『江戸名所図会』にはこう書かれています。
「飯倉神明宮 神明町にあり。『江戸名所記』等に、日比谷神明とあり。いま、俗間ぞっかん、芝神明と称す。その旧地は増上寺境内飯倉天神の社地なりと」
 寛弘二年(1005)に勧請された豊受大神(伊勢神宮外宮)を祀る社で、当初は飯倉山に鎮座していました。
 しかし、その地に広大な増上寺が建立されたので、現在地に遷座します。
 祭礼は九月十一日から二十一日まで延々と続き、俗に「だらだら祭り」として有名で、多くの参詣者を集めました。
「商ひ物多きが中にも、藤の花をえがきたる檜の割籠わりご、および土生姜ことにおびただし」
 現在も続く生姜市ですね。
 経木きょうぎで作った玩具の千木筥ちぎばこは、三つ重ねにして藁で結ばれ、表面には泥絵具で 藤の花が描かれています。
 そもそもは神社屋根の千木の余りで作られたので、千木筥と名付けられたとか。千着に通じることから女性の衣服が増えると大人気のお土産でした。
 参詣客の多い、江戸でも指折りの有名神社です。そこを舞台にした、力士と火消の大喧嘩ですから、その決着に興味が集まるのは当然です。捕縛者を預かった寺社奉行松平右京亮うきょうのすけはどう扱うのか。
 江戸中がお手並み拝見とかたずをのんで見守りました。
 ところが意外な展開でした。
 寺社奉行と町奉行さらには勘定奉行も乗り出して、幕府最高裁決機関である評定所で行うことになったのです。
 享楽的な第十一代将軍徳川家斉が、「やらせてみよ」とそそのかせたのかもしれません。
 何しろ、この子どもを五十五人も産ませたオットセイ将軍は、超遊び好き。寛政三年以来、たびたび城内で上覧相撲をやらせてきた相撲通でもあるのです。
「面白いじゃん」
 と言ったとか言わなかったとか。
 ・・・そういえば、肝心の主人公がまだあらわれませんね。どこに行っちまったんでしょう?
とぼけたことを言うんじゃねぇよ」

火消の喧嘩は手打ちもド派手
「オメエさんよ、肝心のオイラを忘れるってぇのは、何か含むところがあるんじゃねぇのかい(ニッコリ)」
「へへ~っ、と、とんでもない、御代官さま、じゃなかった御奉行さま。喧嘩に興奮している内に、気が付いたら、いつの間にかこんなに進んじゃって、オロオロ」
「ふざけんねぇ、この入れ墨が見えねぇのか」
 バサッ(片袖を脱ぐ音です)
「いよっ、御奉行、日本一!」(やんやの大喝采)
 というところで目が覚めました。
 こうして、無駄に派手な登場したのが、め組の喧嘩当時、月番だった南町奉行、根岸肥前守鎮衛ねぎしひぜんのかみやすもりです。
 怒られついでに、通称銕蔵てつぞうからテッチャンと呼ばせて頂きましょう。(ヒエ~ッ、そんなムチャな)
「本所の鐡」と云えば、泣く子も黙る「鬼平」長谷川平蔵ですが、テッチャンと云えば根岸鎮衛です。(と云う事にします)
 前述した通り、喧嘩を取り囲んで警戒していた南町奉行所は、火消と力士三十六名を捕縛し、寺社奉行に引き渡しました。裁きは寺社奉行所で行われるかと思いきや、最高裁に匹敵する評定所に持ち込まれます。
 黒幕は時の将軍と噂されました。(盛っているかな?)
 そもそも火消の喧嘩は、この頃は珍しい事ではありません。
 この頃の消防は破壊消防で、延焼を防ぐ為に周囲の建物を壊すのが基本。正に戦場でした。
 火消は火事場に到着すると、組の名前を書いた消札けしふだ、を近所の軒先に掲げてどこの組が担当するか示します。さらに纏持を屋根に登らせ、纏を振って集合の目印にします。
 この消札と纏が、名誉や褒美を受けるための証拠なのです。
 ところが、これで「ほう、そうかい、任せたぜ」と収まる大人しいヤツは火消にはいません。
 後から駆けつけたにもかかわらず、自分の組の札と勝手に取り替えるなんざ序の口。
 他組の纏持を屋根から引きずり降ろして、火事場を乗っ取ろうとするヤカラも現れました。
 これを消口争けしぐちあらそいと言います。
 中でも、め組の喧嘩から十三年後の文政元年(1818年)におきた「ち組」と「を組」の消口争いは、すさまじい。七百人以上の鳶が大乱闘を繰り広げ、死傷者が多数出たのです。
 その手打式の詳細が、曲亭馬琴こと滝沢とくが編集した奇談集『兎園小説とえんしょうせつ』に残されています。
 手打式の七年後に資料を記したのは、海棠庵かいどうあんこと関思亮せきしりょう。常陸土浦藩士の書家です。
「町火消人足和睦の話
いぬる文政元年の秋八月、町火消人足を組、ち組喧嘩の和談のありさまを書けるものを見しに、いとおごそかなる事にて、いにしへ戦国の講和もかくやありけんと、自笑じしょうしてしるす事、左の如し。
文政元寅八月廿二日、向両国むかうりょうごく三河屋喜右衞門貸座敷において」
 資料によれば、この戦国時代の講話式を思わせる手打式は、文政元年八月に両国尾上町の三河屋喜右衛門で行われました。
 江戸の火消組は殆ど参加したと言うから驚きです。
 帳場に祝儀を差し出した者は千六百四十八名、朝五ツ時(八時頃)から、手打が済んだ夕方七ツ時(四時頃)まで、九百余人が詰めかけたと言います。
 手打式の作法も詳細に定まっていて、一番から二十五番に及ぶ儀式張ったものです。下図をご覧ください。

両国尾上町で行われたち組とを組の手打ち式配置図

 物々しい!まるで東映ヤクザ映画ですね(懐かしいなぁ)。これに比べるとめ組の喧嘩は総勢百人ですから、規模としては小さい。
 しかし、舞台と登場人物の派手さが違います。場所は江戸名所として人気の芝神明宮。め組の相手は庶民の人気を火消と二分する相撲取でした。
 喧嘩フェチの関心がグッと盛り上がります。

オットセイ将軍の「隠し玉」
 さらに、喧嘩フェチを唸らせたのが、「お裁き」が前述の通り評定所に持って行かれた異常事態でした。
 評定所は「幕府の訴訟裁決機関として最上位に位置する司法機関」(『江戸幕府大事典』)です。
 町奉行、寺社奉行、勘定奉行、大目付、目付、老中が評定衆となり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なっていました。
 特に寺社奉行・南北町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所の中心です。この時の三奉行はこうでした。
 寺社奉行は、上野国高崎藩八万二千石の松平右京亮輝延うきょうのすけてるのぶが月番でした。
 勘定奉行は、 柳生主膳正しゅぜんのかみ久通、中川飛騨守忠英ただてる、石川左近将監さこんのしょうげん忠房、松平淡路守信行らが、一年交替で担当。この年の担当者は不明です。
 そして町奉行が、南のテッチャン、根岸肥前守鎮衛でした。
 評定所は大手門を出た辰の口に設けられています。曲輪内くるわないでも御城に近く、周囲は老中屋敷等が建ち並び、いささか庶民には敷居が高い。
 評定所裁定を聞きつけた大家さん、はたと膝を打ちましたね。
 
「普通ならお裁きは御寺社でしょう、ねぇ熊さんや」
「御寺社と言えば、御大名役ですな」
「しかし、世間知らずの御大名じゃ、こんな面倒な争いを裁ける訳がないじゃありませんか」
「ごもっとも」
「となれば、下情かじょうに通じた根岸さまが実質差配なさるに決まっていますよ。わたしゃ裏にムニャムニャ様がいると読んだね」
「えっ、将軍さまが・・・」
「これ!コイが高い」
「フナが安い」
 ポカリ。
「いてぇ」

 口さがない庶民はもう背景を察知していました。
 将軍家斉は、この『文人たちの江戸名所』でも度々紹介したように、四十人前後の側室を持ち、五十五人の子供を得たいや艶福家でした。オットセイ将軍と言っておきましょう。
 徳川家正史の家斉の項は『文恭院殿御実記ぶんきょういんどのごじっき』ですが、そこには正直な評価が記されています。
遊王ゆうおうとなりて数年を楽しみたまふ。嗚呼ああ福徳王と申したてまつるべきかな」
 思わず記録者の本音が・・・さすがに呆れ果てていたのでしょう。
 オットセイ将軍は、バターやオットセイの睾丸を食す(共食いじゃぁ!)健康志向で、鷹狩り、釣りなどスポーツ大好き。
 たびたび上覧相撲を催す好角家こうかくかでもあったのです。
 お気に入りの側室美代の方のおねだりで、雑司ヶ谷に巨大寺院・感応寺を建立(将軍死後、即破却)するなど、自分の為なら金はジャンジャン使いました。
 小姓出身の怪老人・中野碩翁せきおうや、おべっか使いの三佞人ねいじん、若年寄・林肥後守忠英、御側御用取次・水野美濃守忠篤、小納戸頭取・美濃部筑前守茂育もちなるを重用し、身贔屓みびいき政治を全開しております。
「裁きは肥前守にやらせよ。面白いんじゃな~い」
 と命じたとか。誰も知らない「事実」です、アハハ。証拠はありません。

大江戸ドリームの出世頭
 ということで、やっとこさテッチャンこと根岸肥前守鎮衛にたどり着きました。
 しかし、彼は決しておべっかで用いられたのではありません。
 テッチャンは百五十俵の勘定から、様々な分野に抜擢され、その度に成果を上げ、役高三千石の町奉行に出世した実力者でした。
 いわば「大江戸ドリーム」の体現者なんです。
 性格は敵を作らないし飾らない。その上能力抜群。だから怪しい寵臣達とは違い、庶民はもちろん幕臣達にも、人気がありました。
 儒学者・山田三川がまとめたと云われる『想古録』は、幕末の著名人が実名で語った、有名人の逸話集です。
 この書にテッチャンに関して、貴重な証言を寄せているのは、漢詩人岡本花亭としても有名な、勘定奉行・岡本近江守正成。
「根岸肥前守鎮衛は(略)壮時無頼のおこなひなきにあらざりしかど、後に節を折て書を読み、(略)累進して町奉行の栄職を占むるに到れり」
 テッチャンは若い頃ヤンチャしていましたが、一念発起。出世を重ね、町奉行と成ったと、当時から知られていたのです。
「博徒の巨魁某、ばくせられて(略)、足下そっかも昔は此の慰みしたるに非ずやと難ぜしに、鎮衛すこしも臆する色なく(略)、しかり我も昔はしたり、然れども我は改心せしに依て奉行となり、汝は改心せぬが為に刑せらる(略)と軽く之を反撃うちかえしければ、剛胆なる博徒も再び返す言葉もなく、首を垂れて伏罪つみにふくして死ぬ、鎮衛胆気あり」
 博徒の親分が御白州で、「アンタだって昔は博打をやったじゃないか」と抗議したところ、テッチャンはニコッと笑って、「そうさ。でもオイラは改心して奉行になったが、オメエは改心しないから刑に処せられるんだよ」とさらり。親分はしおしおと死罪に服したそうです。
 もう一つ証言は、漢学者の塩谷甲蔵。
「根岸肥州は微賤びせんより身を起しければ、其身体には一パイの文繍ほりものありたり、人し肥州に向て往時の微賤を諷刺あてこするときは、余は(略)中年より改心せしに(略)立身したるなり、足下は昔より門地あるに、何故に身を立る能はざるやと、反撃はばかる所あらざりし」
 鎮衛はヤクザ者から立身したので、身体一面に刺青を彫っていました。出自をあざけられると、「確かにオイラはヤンチャだったけど、改心して出世したんだ。アンタは生まれが立派なのに、どうして立身できなかったんだい」と言い返して、相手を閉口させたそうです。
 しかしテッチャンは、刺青を決して人前で見せませんでした。だから、真偽は不明とされています。
 刺青奉行というと、「金さん」こと遠山左衛門尉景元とおやまさえもんのじょうかげもとを思い浮かべる人が多いと思いますが、じつは文化文政時代の人にとっては、テッチャンだったのですね。
「それがどうしたい。出世と口の上手い役人ってだけじゃないか。どこが文人なのさ」
 と、反感や疑問を抱いたお方。いやいや、テッチャンは「脱いだら凄いんです」(古いですが)。
 刺青の模様が?・・・ちゃいまんがな!
 実は熱狂的フアンもいる、名だたる随筆家でもあったのです。
 約三十年に渡って書き溜めた、全十巻の随筆『耳囊みみぶくろ』の著者だったんですから。
 本人は公表を嫌って刊本を作りませんでしたが、知人の求めに応じて貸している内に、写本がどんどん広がって行ったようです。
 なんと、あのオットセイ将軍も新作を楽しみにしていたとか。

苦心惨憺の御裁き
 さて、そろそろ「め組の喧嘩」のお裁きに戻りましょう。
 幕府最高司法機関である評定所に持ち込まれた、火消のめ組と角力の大喧嘩の行方は天下の注目の的です。
 まず担当者。角力を管轄する寺社奉行、火消を管轄する町奉行を中心に、勘定奉行と老中、目付各一名が加わって評議する「五手掛ごてがかり」になりました。まるで大名家の紛争を裁く陣容です。
 そこにさらに、享楽家の将軍家斉が、オットセイの一声。
 裁きは様相がガラリと変わりました。なんと五手掛評議の上で、裁きはテッチャンこと根岸肥前守鎮衛が下す事になったのです。
 それというのもオットセイ将軍が『耳嚢』の愛読者だったから、との噂がしきり・・・。
 家斉が吹上御庭で上覧相撲を度々催すほど、好角家であることも有名でした。独裁者の常套手段である愚民政策「パンとサーカス」で、江戸っ子のウケを狙ったのでしょうか?
 だとしたら狙いは的中。日頃の政治不満は姿をひそめ、お裁きの行方に、百万江戸ッ子は固唾かたずを飲んで見守ります。
 さて指名されちゃったテッチャンには、政治的に難しい配慮が必要でした。
 元来町奉行所は治安維持を優先し、火消人足とのつながりが深いので、喧嘩などの大概の事件を大目に見て来たのです。
 また、多くの町民は普段から付き合いのある火消鳶を贔屓にしています。町奉行としては無視できません。
「まぁまぁ、わけぇ者は元気な方がいいじゃねぇか」
 と、収めてしまいたいのが本音です。しかし、相撲を所管する寺社奉行・松平右京亮輝延の顔も立てなければなりません。輝延の先祖は智恵伊豆の名で有名な幕初の老中松平信綱。その六代目でプライドが高い。後に本人も老中になります。
 さらに相撲取のバックには、扶持を出してお抱え力士にしている、うるさ型の有力大名家も多い。
 雷電などを抱えた不昧公ふまいこうこと、松江藩の松平治郷もまだ健在でした。
 取り分け厄介なのは、テッチャンを指名したオットセイ将軍、徳川家斉です。決して公平な人物じゃありません。角力不利となれば、黙っているタイプじゃ在りません。
 客観的に見たら、このままでは、誰が裁いたって、騒動の切っ掛けを作っため組は重罪で、一人、二人の遠島刑は免れない情勢でした。
 テッチャンしきりにクビをひねります。
 火消や庶民を敵に回す判決は、治安を預かる町奉行としては好ましくありません。といって将軍や大名家の怒りを買うのは無能の限り。
 あちらを立てれば、こちらが立たずの状況です。
 事件から八ヶ月後の九月、ようやくお裁きを出しました。
 騒動の切っ掛けを作った頭取又衛門倅・辰五郎はたたきの上追放。つるんで揉めた仲間の長治郎は中の追放。
 一緒に切っ掛けを作った富士松と、半鐘を鳴らした長吉は、乱闘の怪我が元ですでに牢死しているので不問に付しました。

町奉行所しか知らない刑罰
 
ここで判決の途中ですが、非常に分かりにくい江戸の刑罰をサラッと説明させて下さい。
 何故分かりにくいかというと、刑罰の基準を定めた『公事方御定書くじかたおさだめがき』が非公開だったからなのです。
 作成された八代将軍吉宗の時代ですが、当時の老中松平乗邑のりさとが「奉行のほか他見を禁ずる」と申し渡していました。こうすれば犯罪予備軍はビクビクして、歯止めになるという考え方です。
 御定書によれば、死罪よりワンランク下が追放刑になります。江戸で下された追放刑を紹介しましょう。
<遠島>  いわゆる島流し。奄美大島や伊豆七島。京、大坂など西国では薩摩五島や天草、隠岐に流されます。付加刑は財産没収の闕所けっしょ。死罪から罪が一等軽いとされた重罪でした。
おもき追放> 武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲府駿河、相模、上野、安房、下総、常陸と、武士なら犯罪国と居住地、庶民なら居住地から追放。付加刑は闕所のみです。
なかの追放> 武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲府駿河から追放。武士は犯罪国と居住地、庶民は居住地からも追放されます。付加刑は入墨やたたき、闕所。
 敲は二尺の箒尻ほうきじりで、罪囚の肩、背、尻を打つ身体刑。かなり痛いとか。五十敲と重罪の百敲がありました。庶民男子にのみ科されます。
かるき追放> 江戸十里四方と京、大坂、東海道筋と日光、日光道中。武士は犯罪国と居住地、庶民は居住地が含まれます。付加刑は中追放と同じ。
<江戸十里四方払 > 日本橋を基点に半径五里(約二十キロメートル)四方外へ追放するザックリとした刑。
<江戸払> 江戸から追放。ただ、品川、板橋、本所、深川、千住、四谷の大木戸外と町奉行所の管轄地(朱引内)から追放される規定のため、内藤新宿や鐘ヶ淵は追放される範囲に入りません。
 さて、め組の喧嘩で、その他の者への裁きはどうなったでしょう。
 頭取の又衛門は三貫文の過料、その他乱闘に加わった火消人足百六十五人には、五十貫文の過料が命じられました。一人約七十七文。
 元禄の公定歩合は一両=四貫文でしたが、寛政頃だと一両が六貫文でした。一両十二万円で計算すると一貫は二万円。交通違反並みですね。
 一方角力側は、辰五郎ともっぱらやり合った九龍山が江戸払い。抜刀して大暴れした四ツ車は御構無おかまいなし
 四ツ車はその後三枚目にまで上がり、巡業中に死亡したといわれ、墓は江東区東砂の因速寺にあります。
 哀れを止めたのは、鳶達に集合をかける為に鳴らされた半鐘でした。事態をこれほど拡大させ、市中を騒がせた一番の原因は、勝手に早鐘が鳴ったからと断じられ、め組の半鐘が最も罪が重いとされます。流謫るたく、つまり遠島刑となりました。
 このお裁きに、江戸っ子はヤンヤの大喝采。鳶の代わりに半鐘を島流しにしたので、「洒落てるじゃねぇか」と江戸っ子から大うけでした。
 これが「根岸裁ねぎしさばき」の始まりです。
 角力側を応援してきた将軍や大名からも、九龍山一人が軽い江戸払いだった事で、角力に配慮したと納得の声。
 双方ウインウインの裁定でテッチャンの評価は更に高まったのでした。
 半鐘は明治になってようやく赦免。現在は芝大神宮に収められ、二月節分祭と九月のだらだら祭りに公開されます。お暇なときにどうぞ見てあげて下さい。
「半鐘が犯人?また盛ったな!」
 アタシへのお疑いのムキもあろうかと思いますが、半鐘遠島は、現芝大神宮のパンフレットにも記されています。アタシが盛ったんじゃ在りませんよ。
 証拠写真です。

左に注連縄を巻いて鎮座しています。

テッチャンの父ちゃん
 さて、め組の喧嘩がスッキリ終わったところで、「大江戸ドリーム」テッチャンの軌跡を改めて追ってゆきたいと思います。
 何しろ当時から出世頭だっただけに、やっかみや陰口も多く、本人もさぞかし迷惑した事でしょう。
 例えば、『甲子夜話かっしやわ』の著者、前平戸藩主・松浦静山まつらせいざんは、同書に「根岸は御徒おかちより昇進の家」と、テッチャンを「将軍に御目見すらできない軽い身分出身」と、上から目線で記しています。
 ま、それはおおむね正しいのですが、じつはそれどころじゃありません。御徒は将軍の身辺警護を役目とする御家人で、七十俵五人扶持。抱席かかえせきなので世襲は出来ませんが侍身分です。
 しかしテッチャンのルーツは武士ではありませんでした。農民や商人が御徒になる裏ルートがあったのです。
 先ず農民や町民、浪人等庶民が、一代抱の御家人株を購入。勤功を重ねて役職に出世、ひとまず家禄のある御家人(たとえば譜代席御家人)に昇進するのです。大変な金と努力が必要ですが、できないことはないのです。
 次の代になって、更に勤功を認められて旗本がなる役職(例えば代官など)に就任。こうする事で、合法的に旗本になれた例が、沢山とはいえませんがいくつもありました。
 このルートに不法な事は一切ありません。当時の幕府はそんなに緩い組織ではないのです。公的資料で出自は常にチェックされていますからね。
 基本となるのが、幕初に作られた『寛永諸家系図伝かんえいしょかけいずでん』です。
 三代将軍家光時代の寛永の頃、諸大名・旗本以上の幕臣の諸系譜の編纂事業を行わせました。
 大名・旗本に対して、素材資料となる各家の系図や家譜および証拠資料(古文書)等を提出させ、二年間かけて編集し寛永二十年に完成させた総数百八十六巻・総収録数千四百余家に上る膨大な記録です。
 それから百七十年経ち、老中松平定信は幕府初期の精神に立ち戻るため寛政の改革を行い、文教振興を次々と打ち出しました。
 そして、若年寄・堀田正敦まさあつが主導して『寛永諸家系図伝』の続編が作成されました。
 それが『寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ』です。
 今日でも資料として大変役立ちますが、誰かの原稿のようにかなり盛っているケースが多い(ええっ、アタシじゃありませんよ)。要チェックです。
 特に異例の出世した人や、養子縁組を繰り返した家は難しい。テッチャンは正にそのケースに当たります。
 と云う事で、『寛政重修諸家譜』を中心に、テッチャンの実家に深くかかわる『武州鈴木家文書』、テッチャンと親しかった加藤曵尾庵えいびあんの日記『我衣わがころも』を参考に、根岸家と根岸鎮衛についての推測を凝らし、まとめてみました。
 テッチャンの実家は安生あんじょう家です。まず安生家の成立から見てみましょう。
 延宝八年(1680)、安生彦衛門定元は徳川綱吉が将軍となる前の神田館に勤仕。綱吉の西丸入と共に抱席御家人で、前述した御徒となります。
 この安生家にいつの頃か、相模国津久井郡若柳村出身の鈴木定洪さだひろが養子に入って、当主は安生定洪となりました。経緯はまだ分かりません。
 相模川の水運を利して、上流の材木運搬で財を築いた豪商・鈴木家が、安生家の御家人株を入手して御徒の家に養子に入ったのでしょう。
 安生定洪は努力を続け、役高百五十俵の御徒組頭に出世。ここで同じ御家人でも世襲できる譜代席御家人となりました。
 扶持米百五十俵は同じですが、抱席は一代かぎりなのに、譜代席は世襲できるのです。この差が大きい。
 例えば、町奉行所の同心も世襲できる身分ではなく、一代限の抱席でした。慣習と助け合いで代を継いでいるだけです。惣領(跡取り)が親の仕事の後を継ぐ方法は、同心が隠居もしくは死亡した時に、たまたま抱えられると云う形態を取っていました。
 もちろんあらかじめ見習になって、周囲の認知を受けるという段取りも付けるのですが、原則は一代限なのです。
 だから、父ちゃんの安生定洪が譜代席御家人に出世したのは極めて大きなジャンプでした。
 テッチャンの父ちゃんの活躍は、後編でも続きます。












いいなと思ったら応援しよう!