東京に住む龍 第十話 千客万来⑤
ゴールデンウイークに入った。講義がはじまって二・三回しかなかったので、宿題は一つしかなくて、ほっとした。出された宿題は編曲学の講義で、「最近気になった編曲作品についてのレポート 五百字」というボーナスレポートだった。編曲学は三十代の准教授が担当していた。アレンジャーとしても業界で知られている、見た目が長髪に派手目な柄シャツだが、言動を見て小手毬は中身は明治の学者と見ていた。
連休初日、祖母と叔母に誘われて、日比谷のホテルのフレンチレストランに行った。現世でこんな高級な所に行くのははじめてだった。結納の時に来た赤い振袖を着ることにした。既婚なので振袖は現世で着る機会が短いので、ちょっとでもいい所に行けるときは振袖を着て行きたい。高級ホテルに振袖でも、結婚披露宴でも、結納でも、お見合いでもない。飛び切りのお洒落をして有名シェフのモダンフレンチに行くのだ。少し大人めに袋帯を成人式でする盛って盛っての結び方ではなく、お太鼓結びにし、ヘアメイクも控えめに、まとめ髪に塗りの櫛とシンプル目の薔薇の摘み細工で、軽めな振袖姿にした。
有楽町駅から江戸小紋を着た祖母と歩いてホテルに向う。行き交う人が振り返る。胡蝶さんじゃないけれど不躾に盗撮してくる輩もいた。ホテルのドアを開けると一瞬その場にいた多くの人間の目が集まった。ロビーには披露宴の参列者らしい振袖の令嬢もいたが、和装慣れしている小手毬の方が、抜群に着こなしが上だ。
ロビーでは叔母が待っていてくれた。予約の時間にまだ間があったのでロビーで話をした。世界的に有名なアーティストがプロディースした吹き抜けの空間。上質な革張りのソファーに座り、小手毬は外界とは異質な空間に気後れしながら楽しんだ。
近況報告からはじまった話題は、小手毬の振袖になった。冥界の振袖は長男長女が十八歳の成人になるまで着れる。現世の振袖は残念なことに、未婚女性の第一礼装なので、結婚した小手毬はそう長く着れなかった。
「叔母さん、早とちりな旦那の所為て、何枚も振袖を持っているけれど、あと何年着れるのかしら」
「そうね二十五歳までとか、三十になったら独身でも控えなさいとか言われているけれど、三十五位までいいと思うわ。やっぱり綺麗だものもったいない。
そう言えば女優さんは、結婚しようが子供が幾つになっても、振袖を着るわよね。芸能人は一生振袖が着れるんだって。東京の女性漫才師の重鎮が言っているのを聞いたことがある。
小手毬さんは雅楽師さんに成るんでしょう。ステージ衣装にすれば」
成る程、正月に振袖でステージに立てば喜ばれるかも知れない。
時間になってホテルの高層階にあるフレンチレストランに向かうため、エレベターに乗った。開放感のあるロビーから小さな空間に移ると、「アマポーラ」が流れていた。歌が無く小編成の室内楽で、明るい中にもほろ苦いレトロな曲調で、耳障りは悪くはない。歌もなく弦楽四重奏と思しく楽器数も少ない、それ故にシンプルで心に刺さった。エレベター上りでこれからグルメを楽しむ、高揚感わくわく感を上げていくにふさわしい編曲だと思った。
レポートにはこの「アマポーラ」にすることを決めた。最近気になった編曲作品ならクラッシクでも、ポップスでも、アニソンでも何でもいいということだった。翌日書こうとして躓いた。「アマポーラ」はスペインの歌唱曲とネットで調べたら簡単に分かった。「アマポーラ」は随分前にテレビドラマに使われていたので知った。その時は日本人歌手が日本語で歌っていた。切ない大人の恋のストーリーの伴奏だった。
翌日さっさと終わらせようと、小手毬はノートパソコンに向かった。ざっくり書き上げて、辰麿の書斎でプリントアウトした。現世と隣り合わせの幽世では、ネットもガジェットも有線で使うことになっている。それを持ってリビングに行き、小手毬はあまりの出来の悪さにがっかりした。
あの「アマポーラ」について説明し、聞いた時のシュチエーションを事細かく述べた。それだけで軽く規定枚数を超えたので完成でもいいのだか、何かぴりっとしない。小学生の作文みたいで、小手毬にしては近年またとない駄作だった。
辰麿が休憩で戻って来た。丁度いいのでレポートを見せた。辰麿が読んでいる間、ノートパソコンで「編曲」と検索していた。編曲について知識が無いのが問題かと思った。家に専門書はない、今更買いに行ってもいい本と出合う確率が、と思った。
「龍君ちょっくら大学に行って、図書館に行ってくる」
何回か読んだ辰麿が、
「これアンケートだよ、そこまでしなくて大丈夫」
「アンケート。一億歳の龍、見方が飛んでるねー」
「龍じゃなくっても、状況的にアンケートじゃん。何回この講義を受けた」
「二回かな、教えてくれている准教授は割と知られたアレンジャー・編曲者なのよ、映画・ドラマ・コマーシャル、あとアニソンなんかもするみたい。で一回目の講義は業界の裏話的な軽いお話で終わったわ」
「つまり、その先生の本格的な講義に入ってない、
この先生いい先生だよ。今年の学生がどういう曲に興味があるのか、編曲についてどのような知識があるか、さらに言っちゃうと、講義をまともに受ける気があるのか。そもそも日本語がまともに分かるのか、アンケートしている訳。
小手毬の今の編曲の知識で、分析すればいいじゃん。あとホテルで聴いたときの下りはいいと思うよ」
「そっか、期末のレポートじゃないから編曲についての知識を求められていないんだ。書き直そうっと」
小手毬は帰りの下りのエレベーターの中で流れていた、フルオーケストラのプッチーニのオペラを思い出した。一流ホテルだけあって配慮がされていて、音量も大きくなく、さりとて曲調も分からない程の微かな音量ではなかった。アマポーラに比べると、音の重なりが多いのがエレベター内では似合わない気がした。婚礼客が乗ることもあるこのエレベーターには、ヒロインが自殺するプッチーニのトスカは、ちと不味なとも思った。
「大学で聞いたんだけど、龍君はエヴァンゲリオンの古い方の映画は観た」
「まごころを君に、みたいな題名のやつ、僕封切りを映画館に観に行ったよ」
「あのトラウマ映画を、映画館に観に行ったんだ。へえー。私もAmazonプライムビデオで見たよ。無茶苦茶だわー。あのテーマソング『甘き、死を来たれ』を最近ウエディングで使うのが、流行ってるんだって、皆な分ってやっているのかなー」
龍は分かり易くお口を開けた。人間だってお口ぽかーんだ。
「前から聞いてみたかったんだけれど、龍君は龍御殿に居ると、気まぐれで龍になるでしょう。大学の天文学部の学生だったときや、國學院大學の研修所で、レポートが出たじゃない。レポートを書いている時に、龍に成りたくなったらどうするの」
「んっ、簡単簡単、ノートパソコンの内臓マイクに向かって、音声入力するだけ。でもね鋭い鉤爪ではパソコンのマウスもキーボードの操作は出来ないし、専門書ののページをめくることも出来ない。そういう時は人間の姿になってやるんだ」
龍になった辰麿が、パソコンに向かって話すところを想像した。
「のりのりの時に、龍に成ちゃうじゃん。今プログラミングをやっているんだけど、これは困るんだー。鈴木さんに頼んで鉤爪でも使えるキーボードを考えて貰らおうかな。黄龍も白龍もエクセル使うし」
「エクセル!えっ!龍が」
「そうエクセル。アドビのイラストレーターやフォトショップも普通に使うよ。日本冥界の日本語入力は松だね。もちワードの変換も出来るよ」
「イラレにフォトショ!!」
「龍が使える入力ガジェットが出来ると、欧州にいるドラゴンも、地獄に居る八岐大蛇も助かると思うよ」
「八岐大蛇って地獄に居るの」
「そう亡者を痛めつけているんだ。地獄も報告書を書かないといけないんで、パソコン入力必須だよ」
連休最終日端午の節句は、良く晴れた穏やかな日だった。鯉のぼりを揚げると、からからといい音を出す金色のくす玉に矢車が回る、その下には五色の吹き流しと鯉の家族が泳いでいる。それを嬉しそうに辰麿が見ている。
端午の節句の鯉のぼりは明治元年の創建時から、龍神社で揚げられていて、近所の名物になっている。鯉のぼりが揚がると散歩途中の人が龍神社に寄ったり、親子連れがわざわざ遊ばせに来た。
参拝客が途切れたとき、鯉のぼりを見上げる辰麿に小手毬は声を掛けた。
「本当、龍君は鯉のぼりが好きだね」
「鯉幟は僕の幸せな記憶なんだ。前に話したけれど僕の父には、沢山の奥さんが居た。僕の母はその一人だった。僕たち家族に父が訪れるのは滅多になかった。でも父が来ると、皆で空を飛んだんだ。お父さんお母さんお姉ちゃん、そして僕。皆で並んで鯉のぼりのように空を飛んだ。大きな黒い真鯉はお父さん、緋鯉はお母さん、ピンクの小さい鯉はお姉ちゃん、青いちっこいのは僕。皆で海の上なんか飛んじゃって楽しかった」
三柱の龍に風の精が並んで空を泳ぐのが、小手毬の目にも浮かんだ。彼の本当の家族の話は既に聞かされていた。紅粉龍というピンク色の龍が姉で、大龍と言うこの世を何億年も支配した龍が父であること。八千万年前その家族を失ったことを聞かされていた。憎しみも悲しみも恐怖も長い生を生きても、拭えないものだろう、楽しいこと幸せなことはしっかりと感じ堪能するのが、辰麿の感性の様だった。
空は青く鯉のぼりがよく映えた、気持ちの良い青い空の下、辰麿は鯉のぼりを見上げていた。小手毬は口の中の唾液を飲み込込んでから話しはじめた。
「ねえ龍君、私ね不老不死となっても水神小手毬の一生をきちんと生きたいと思っているの」
「ふぁっ」
辰麿が顔を向けた。
「私はこれからずーと龍君と生きていくのでしょう。これから何千年も何億も生きる。龍君のことだから人間の世界が好き、人間として生きることになりそうでしょう」
「そんな心配させちゃって、御免」
「そうじゃないわ、わくわくしてる。人間として何代も何代も生きるじゃない。色々な人生を生きれそう。今生は雅楽師だけど、次は薬剤師にする?OL?教師もいいな。水神小手毬として生きれるのは長くて百二十歳位まででしょう。
それはそれ、水神小手毬として一生をきちんと生きたいの。私は一流の雅楽師に成りたい」
「どういう雅楽師に成りたいのかな、大好きな小手毬のことだから、僕、気になる」
「超の付くほど才能のある雅楽師を見てきたわ、これから私が幾ら練習しても超えれない天才。本当に身近、藝大には学部生にも院生にも、凄い才能のある天才がいるわ。きっとこの令和の時代の代表的な雅楽師に成ると思うわ。
龍君、私ね何をやっても演奏が綺麗なんだって。力強い演奏はちょっと無理だけど、綺麗な演奏をするのが得意みたい。才能だって。何の楽器を演奏しても、歌を歌わせても、舞楽を舞っても綺麗にまとまっているってよく先生方に云われる。
で、私考えたのよ、超一流の雅楽師にはなれないけれど、一流の雅楽師になりたい。それなら練習次第では手が届く。それと三管って知ってる」
「うん、篳篥、竜笛、笙のことだよね」
「そう、三管が演奏できる雅楽師は多くいるけれど、私は琵琶、琴に打ち物、これは太鼓とか鐘の打楽器。全ての楽器の一流の雅楽演奏家になるわ」
「うおー、流石僕のお嫁さん、小手毬、僕大賛成」
雅楽師になることを決めた小手毬。ちょっと気が咎めたのは、龍君の潤沢な資金を使い、多額の稽古料と、高価な楽器を買うことだった。一流レベルの演奏者で、どんな楽器、舞楽が出来るのを目指す。オールラウンドプレヤーなることは、雅楽演奏団体に入団し易くなるし、三管以外の楽器を得意とすれば、演奏会に声を掛けられることも期待できる。プロの雅楽師になるための、小手毬なりの方策だった。
「小手毬がこの街に帰ってきて直ぐだったよね、僕が雅楽を勧めたら、舞を奉納したいって言ってなかった」
「ずーと思っていたわ、五節の舞を奉納するって。でもずーと先の事かと思っていたのよ」
そして二人のうちどちらか言い始めるともなく、五節の舞を奉納することに決めた。
夜、AHK(あの世放送協会)で鬼のお笑い芸人の切れ切れの劇場中継を見ながら、二人で単衣と薄物に合わせた長襦袢に半襟を縫いつけていた。神主と巫女のお仕事用の襦袢ではなく、お出掛け用着物の半襟だった。カジュアル何で礼装用の白い絽ではなく、色柄物で小手毬はアンティークの刺繍半襟を、正絹のピンクの長襦袢に縫い付けている。
「男着物の今のトレンドは、パステルトーンの半襟を付けるのがマスト」
小手毬がふと辰麿の手許を見ると、武蔵野呉服店でこの夏用に買った、レモン色と淡いピンクの半襟を、自分の長襦袢に縫い付けていた。
「女物、付けるんかい」
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あとがき
あー言っていませんでしたけれど、青龍君は東京都出身です。東京ラーメンが好きです。