1974下町キッズの遊び場の三角公園というゴールデントライアングル

以下のように推敲してみました。内容の意図を変えずに読みやすさを重視し、文の流れや表現を少し整えました。


1974年、下町キッズの遊び場は、町内の片隅にある小さな空き地や、地形が悪く三角形の公園、そして土管が積まれたまるでドラえもんの世界のような空き地でした。当時、こうした「空き地」が子どもたちの遊び場としてまだ都内に残っていたのです。家が密集する下町では、土地の整備の加減で極小の空き地が生まれ、それが「公園」という名で存在していました。子どもたちは、そうした公園を「三角公園」と呼んでいました。


しかし、この三角公園の縄張りは複雑で、1974年の下町キッズたちの家の近くにあった三角公園は、隣の学区の小学生たちの遊び場でもありました。そのため、縄張り争いが頻繁に起こり、小学生同士の抗争が絶えない「紛争地帯」ともなっていたのです。少し広めの空き地には土管が置かれていましたが、そうした場所も残雪のようにいつの間にか消えていきました。遊び場が減るたびに、キッズたちは新しい遊び場を探さざるを得なくなります。


キッズたちが暮らしていた下町の問屋街には、魅力的な場所が溢れていました。例えば、橋を渡ればザリガニが釣れる池がありましたが、そこは関東大震災で約4万人が亡くなった旧陸軍被服廠跡地。今考えると、なんとも恐ろしい遊び場でした。また、風呂屋の窯場や当時増えていたビルの屋上も、今では危険とされる場所ですが、当時のキッズにとってはスリル満点の遊び場でした。このように空白地帯を遊び場に変えるのが下町キッズの得意技だったのです。


一方、国技館のある方向とは逆に総武線のガード沿いに都心方面へ向かうと、秋葉原がありました。当時は「電気街」と呼ばれ、露店のように小さな電気商がびっしり並び、まるで縁日を思わせる賑やかさでした。キッズたちは電気回路に興味はなかったものの、理科の実験で豆電球を使ったので、色とりどりのランプやスイッチを見るだけでも楽しかったのです。さらに、秋葉原には交通博物館があり、蒸気機関車や運転シミュレータも展示され、まるで夢の国のようでした。


少し足を伸ばせば、お茶の水には漫画の単行本がずらりと並び、欲しい本は確実に手に入る場所もありました。下町キッズが育った問屋街は、このような遊び場のゴールデントライアングルの中にに位置していたのです。マニアにはたまらない場所が近くにあったにもかかわらず、キッズたちはマニアではなかったため、地元の抗争を避けつつ、少しだけ足を伸ばして「大人の街」に侵入していったのです。


秋葉原の隣の御徒町は、模擬拳銃を売っている店がある街で、銃器を手に入れるには便利な場所でした。下町キッズたちはお年玉や貯金箱の小銭を集めて、最も安かったデリンジャーを買いに駆け込んだのでした。

そう言った遊び場のゴールデントライアングの中心に位置するのが紛争地帯の三角公園なのである紛争地帯ではキッズの抗争が絶える事はなく、負けて家に帰ろうものなら親から勝ってこいとどやされる始末。もちろん親はその筋の人では無く単なる堅気の商売人であるしかし紛争地帯のDNAは平和主義の小市民の血も熱く激らせるのであった。

再開発が進む下町にはもはや三角公園など存在しない。気がつけば下町キッズが暗躍した1974年はいつの間にか50年半世紀前になっていた。もはや下町と言う町は幻になってしまったのかもしれない


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