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小説・青木ひなこの日常(1)

午後はオフィスの気温が上がる。

肌寒いと思っていた秋が終わり、寒さが二段階ほどギアを上げたばかりの十二月初旬、冬の間にさらに寒くなるだろうからと、ダウンジャケットやヒートテックを着るのはまだ躊躇われ、寒さになれない身体をどうにか、薄いウールのコートだけで通勤してきた。

数日前に二十歳も年下の若い同僚ふたりに今日のランチに誘われて、二時間ほど前、青木ひなこは喜んで出かけた。若い同僚ふたりと、ひなこと同じ歳の他部署の同僚、美咲と、四人で、カキフライ定食を食べに行った。

「私たちは恵まれている世代だと思います」
「前の職場は恵まれていました」
「ええーっ、青木さんって藤原所長と同じ年なんですか?」

というすべてに、ひなこはにっこり答えた。

あの無敵感というのは、若さから来るものなのか、その世代のものなのか。気付けば、若さの打撃を受けて、無力化された気がした。これは世代、若さその両方のものだろう、とぼんやり思いながら、午後の室内の暑さを不快に感じた。若い同僚は、眠くなってきました、と言って笑いながら髪をヘアクリップでまとめ、ざっくりしたセーターの袖を、一本ずつ違う色にデザインされたネイルで折り返していた。

ひなこはにっこり笑って、眠くなるよね、ほんと、と答える。

カーディガンを脱いで、七分丈のブラウスになった。もう何年も、仕事中に眠くなることは、ほとんどなかった。疲れても、集中力を若干欠くくらいで、その間は、集中力が必要とされない仕事をこなして過ごせば切り抜けられて、その後はいつも通り仕事が出来た。若い人は眠くなるのだろうと思えた。

ひなこは係長という役職がついていた。会社の定めた規定の年数を働いただけで、職能給に五千円が追加されただけだった。その五千円以外には、何もないのだ。十人いる部署の一人が主任で、入社三年以内の二人を除いて、残り七人が係長だ。

「おつかれちゃん」
一緒にランチに行った美咲が給湯室で声をかけてきた。
「あーおつかれ」
「ね、なんか、ランチのさ、あの世代って最強じゃない?」
「あーあのふたり、なんか、きらきらしてるよね」
「そうそう、そんな感じ」
「大事にされて育って自己肯定感高め?」
「うーん」同意の代わりになぜか唸る。
「親世代って、バブル世代?」
「あー、そうじゃない?」
「わたしたちの親世代というのは・・・ダンカイ?」
「それだね」
「そしてわたしたちが氷河期世代」
「まさに」
「はあー」
「はあー、だよ」
「自己肯定感って言葉、当時聞いたことなかったよ」
「うんうん。むしろ劣等感」
「そう」
「努力が足りないとか」
「そう」
「昭和根性論」
「うん」
「昭和組、頑張ろう」
「ハイ! 先輩」
「あはは」

給湯室の背後の非常階段前に続く扉にはめ込まれた、分厚い磨りガラスに、午後の日差し当たるのをまぶしく眺めた。扉のノブに触れてみてもピクリともしない。鍵のサムターンはプラスチックで覆われて、非常の場合にはそれを割って外に出るように書かれている。

何年か前までは、界隈を歩いていて、上を見上げると、ビルの非常階段に喫煙者をよく見かけた。記憶の中では、赤い灰皿が踊り場に置かれていた。タバコを嗜む人たちは、違う階の会社の人とそこで知り合って、ぽつりぽつりと言葉を交わし、ケイタイのアドレスを交換し、飲みに行くようになった、とかそんな話を聞いたこともある。

街から喫煙所がなくなっていった頃、喫煙場所を探す人のことを、急に居場所がなくなって困るだろうな、と心配したりもしたけれど、そのうち、何も気にならなくなった。

時間が流れたのだ、と思う。
それだけだ。

ひなこは急に自分を検分してみる。外見に優れたところもなく、美容院に行ってすぐにはつやつやの髪も、二週間もすると弱々しくなる。頬のシミは、隠せなくなっている。歯には銀色の詰め物がある。美しくはない容姿を手入れしたいと、清潔に、丁寧に手入れされた外見というのに憧れるようになったのは、高校生の時だった。上手くいかない受験勉強や、強くはないテニス部の人間関係の、公立高校。

高校の校舎は山の中腹にあった。JRの駅からバスに乗り、十五分ほど揺られて、終点にあった。校舎の前には、広い校庭があり、高校生のひなこは授業中によく窓から校庭の木や、遠くの丘陵地帯の、稜線を目で辿ったものだった。

高校生だった頃、年号が変わった。

冬の夕方の教室で暖房器具の前に机を並べて勉強した。
「あ、コレ出るよ、きっと」
「どれどれどれ?」
「コレ、この文」ひなこは教科書を指す。
「ひながそういったの、だいたい当たるよね」
「うん。なんか、出るなって思うの」
「すごい。ちゃんと授業聞いているとそういうの分かるのか」
「さっちんは塾忙しいし」

さっちんは、現役合格を目指す予備校に通っていて、学校の授業より予備校での勉強を中心にしていた。だからなのか、学校のテストの成績がなんだかいまいちだったし、学校の先生からもちょっと疑わしい顔で見られていた。でもさっちんは学校の授業だけで大学に合格出来ると思えていなかった。

ひなこは、テニス部の練習が忙しかったけれど、窓の外ばかり見ているようで、授業は聞いていた。テストの傾向は、ひなこが先生だったら、ここ出すな、というのがなんとなく分かった。それだけのことだった。

思い出、というほどのものではない。親しい人に話すようなことでもない。ただ、ふと思い出した記憶の一ページ、と思いながら、ひなこはスタバのタンブラーを洗い、ペーパータオルで手を良く拭き、それから席に戻った。 


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