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小説・青木ひなこの日常(4)

雨の最初の一粒が風にのって、ひなこの手の甲に触れた。ひなこは息を吸いながら顔を上げる。先ほどから吹いていた風は大きな雲を運んでいる。ママチャリが勢いよくひなこを追い越していく。隅田川にかかる橋の欄干から、カモメが大きく飛び立った。風で川面に細かく波が立ち、海の方へ向かっている。高架の首都高が、川に沿って走り、スカイツリーの方へ伸びている。ひなこはポケットのスマホで時間を見て、少し早歩きになる。

ーーー
ヒナコは転職したいの?
え、なんで?
そんな質問するからよ。
うーん。自分でもどうしたいのか分からなくって、いろんな人に聞きたくなっちゃう。先生にも、どうして日本にきて日本人に英語を教える気になったのかな、って。

そうねえ、日本はずっと憧れだったし、IT系の会社が解散、ってなったときに、考えたの。私は本当に何がしたいのか、ってことを、それでね、ぐるりと自分の周りを見回してみたの、ああ、日本文学を勉強しよう、って、それから、どうにかそこに関わりながら日本で暮らしたいって。それはね、大きなプロジェクト。

プロジェクト、いくつもあるね。

そうよ。昔からそういうのが得意なの。

すごい。どうやって? 

ノートでも、ワードファイルでも、なんでもいいから、そこに、順序とか気にせずひたすら書き込むの。嫌なことも含めてね。そうすると見えてくるものがあるわよ。それは時々見直して。方向性が、たとえば、日本文学を勉強しようとかね、決まったらノートを一冊用意して・・・私はノートやルーズリーフだったけど、今は便利なアプリもあるかもしれないわね。それに計画を書き込んで行く。大事なのは、時々見直すことよ。そこの本棚を見て。「65+」っていうファイルがあるでしょう? 65歳以降の人生計画。あと五年ね。そういうのを作って、どんどん追加して、修正して、変更していくのよ。
ーーー

ひなこは月に一度、英会話のプライベートレッスンを受けている。それは以前の同僚の小田原さんという人が、紹介してくれたものだった。小田原さんは、十年くらい前に、英語講師を紹介するというサイトで、数千円を払って紹介してもらったのだそうだ。職場から三十分以内で、駅から近い場所で教えてもらえる、という条件でヒットしたらしい。小田原さんは、転職してきた先輩で、ひなこに英会話の先生を紹介して、一年もしないうちにまた転職していってしまった。もちろん英会話のレッスンもやめた。ひなこは十年ほど続けているものの、月に一度で、英語が上達するわけでもなく、込み入った話は、すべて日本語でやっている。

ひなこは少し考える。ひなこが聞きたかったのは、どうしたら大きな転換点にたどり着いたのか、というところなのかもしれない。不満がないとはいえないけれど、これといった不自由がないのに、何か変化を求めているのだ。でも、ひなこの行動原理は、いつでも受け身だから、どうやって行動したのかを知りたかったのだろうか。

雨が降る前に、とさらに早歩きになった。

小田原さんは躊躇なく仕事を辞めて、英会話をやめて行った。迷惑はかかるかもしれないけれど、取り返しがつかないという訳でもない。普通のことだろう。たくさんの取捨選択のうちで、英会話はやめたのだろう。不思議と小田原さんの今の姿は目に浮かばないし、会ってみたいかと言われればそうでもなかった。

ただ、ひなこは、たくさんの人の話を聞いてみたい気もした。それでもやっぱりたくさんの人の話は、たくさんの他人の話であって、何かしらヒントがあるかもしれないけど、自分の気持ちではないな、と思う。自分の気持ちとは、いまこの瞬間なら、雨が降る前に早く駅に辿り着きたい、というのがしたいことだ。それから、アオ君と待ち合わせて焼き肉を食べに行くことになっている。

いったい何がしたいのだろう、ひなこの頭の中でさきほどからずっと問い続けている。

浅草橋から総武線に乗って、高架の線路から、秋葉原の街を眺める。雨はまだ降っていない。線路と垂直に交わる首都高を見下ろし、その下の一般道を走る車を眺め、雑多なビルを眺めるうちに、車両は駅に滑りこみ、たくさんの乗客を吐き出し、たくさんの乗客を乗せていく。

御茶ノ水駅で中央線に乗り換えて、ひなこは新宿に向かった。総武線から乗り換えると中央線は車両が広く感じる。お茶の水駅の、緑色の水を見下ろしながらひなこは窓の外を眺める。

もし、変化を求めているなら、どんな変化なのだろうーーひなこは考える。
自分の周りをぐるりと見回して・・・みよう。
ひなこは小さく首を回してみた。乗客がたくさんいる。
家のこと、仕事のこと、英会話のこと、友だちのこと・・・・・・
そうじゃない。
学生の頃のこと、テニスをやっていたこと、陶芸教室に通ったこと、好きな本のこと、ちょっと通ったホットヨガスタジオのこと。
なんかちょっと良い気がしてきた。
家の好きなスペースのこと。お気に入りの机とか、バルミューダのトースターとか。掃除の行き届いた部屋とか。

月にたった一度しかいかない英会話をやめたい、とは思わない。英会話が出来るようにはならないけど、先生とのおしゃべりは楽しい。

仕事をやめたい、とも思わない。大した仕事ではないし、そこまで人の役に立っているとも思えない。不満もたくさんある。でも、会社に行って手を動かすと、頑張ろうと思えている。

結婚生活をやめたい、というのも思っていない。だらだらと終わりなく続く、しかも家を買うことにならない、財布もひとつに出来ない、という不満はある。

したいこと、というより、日常で少し暇を持て余しているのかも。今日も、平和な一日が終わっていく、ということなのだろう。

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