小説・青木ひなこの日常(2)
「おかえりー」
「ただいま。ごめん、じゃました? 青くん、まだ仕事中?」
「あと一時間」
「おっけー、がんばって。京王でお惣菜買ってきた」
「ありがと、じゃ、またあとでね」
コロナ禍に、ひなこの夫・青木ハルキ、は在宅勤務になった。会議やクライアントとの打ち合わせもオンラインになってほとんどの業務を在宅で出来るようになり、会社も在宅勤務を推奨するようになった。
ハルキは一時間と言ったらちょうど一時間で終わらせる。それに備えてひなこは着替え、片付けをして、お湯を沸かしながら、今日一日のことをなぞってみる。一日の終わりに、だいたいそうする。朝から晩までのことをざっと、大まかな見落としがないか、日記を書くように、思い出す。たんたんと思い出して、今日も仕事をしたな、思う日もあれば、どうしても気になることばかりが大きく思い出される日もあった。今日は、昼に若い同僚ふたりと、年の近い美咲と四人でランチに行ったことが思い出された。そして、午後二時頃、美咲と話してふたりでなんだか笑いあったのは、楽しかったけど、若さを前にして無力なもの同士、慰めあっているようでもあった。そのあとふいに昔はどこにでも喫煙場所があったとか、高校時代の定期試験のことなんかを思い出して、時代が変わったことや、ひなこにも若い時代があったことで、どうにか自分を慰めているかのようで、みじめな気もしてきた。
出汁パックを鍋に入れる。会社の近くで、料亭のあご出汁のパックが安く手に入って買いおいている。お買い得なのだと美咲に教えてもらった。独身でひとり暮らしの美咲は食べることが好きで、土鍋で炊いたごはんや、出汁パックで煮た野菜が好きだし、デパ地下で高級なチーズを買い集めたりもするけれど、ジャンクフードも美味しく食べている。つまり、とても気楽で楽しそうだ。ひなこだって、家族がいるとは言っても、子供はいないし、住宅ローンもなくじゅうぶん気楽なのだろう。
ひなこがハルキに出会ったのは学生時代だった。大学三年生のときに、ひなこと同じゼミで学部委員会というのをやっていた同級生が急に委員会を辞めてしまい、ゼミから代理を出さねばならず、何の係もやっていないひなこが頼まれた。学部委員会とは主催が文系学部全体で、数名の教授が運営者となっているものの、実際には学部生数名が主に運営しており、外部からの講師を招いて講演会を主催したり、学内懸賞論文大会の運営をしていた。体育会系の部活と同じように部室も与えられていた。アメフトとラクロスの間だった。ひなこは、どういう団体かよく分からないまま参加していたけれど、いわゆる意識高い系の集まりだった。学部委員会の歴史の中でたまたまそういう世代だったのか、たまたまそういう人が集まっただけなのか、よく分からないままだった。決して人前に出て目立つことはないけれど、高校の生徒会のような雰囲気だった。ひなこがもっとも仕事の少ない、積極性のないメンバーで、ハルキはそこにもともといて、なんとなく入ってしまった委員でその場の雰囲気に合わせている風だった。明るく場を和ませるタイプで、だれもがハルキがいると安心して、ハルキの意見を聞きたくなる、そんな人だった。ひなこが後から入ってきて状況を理解していないことにハルキはさりげなく気をくばってくれた。帰る方向が一緒だったことで、ふたりで話す機会が増えて、そのうちひなこはふたりで帰るのを楽しみに思うようになった。
それから二十年以上もたち、和やかに暮らせるのは、ありがたいことだとは思うけれど、ひなこはこんな日に、気の合う話題で楽しく過ごしたいと思いながら、思っていることをつらつらと言いたい気分にもなった。
ハルキは結婚することにも、子供を持つことにも、家を買うことにも、ほとんど興味がないままだった。結婚については、双方の親に「籍を入れた方が良い」と言われて、押し出されるように入籍した。入籍にあたり、ひなこはいくつか約束してほしいとハルキに頼んだけれど、ハルキはうんうん、と聞きながら、結局いまだに何も果たせていない。
子供を持つことも、自然にまかせれば良いと思うし、正直なところは子供が欲しいかよく分からないと言った。ひなこ自身も子供が欲しいのかよく分からなかったけれど、子供を持つことはあたりまえだと思っていた。それにはハルキの前向きな気持ちと協力に頼りたかった。ハルキの気持ちや協力に頼らなくてもよいという気持ちになった三十代の中頃には、不妊治療のクリニックに通った。ハルキは協力的だった。それでも子供ができなかったのだから、ひなこはそれを受け入れた。
住宅の購入もひなこが欲しいというかあれば安心だと思っているけれど、ハルキは一生賃貸で良いじゃないかと言う。ひなこにはあこがれがあり、なんども話したけれど、ハルキは興味がないままで、むしろローンを背負うことで平穏には暮らせないし、自由もないと思うようだった。だれかの新築の家に招待されても、はあすごいですね、くらいの反応で、ひなこは周りの人が家を買ったとか、家を買い換えたとか、ローンを完済したとかいう話を聞くと、悲しいような悔しいような虚しいような気持ちになった。
夫婦の財布をひとつにする、というのもあった。ハルキはのらりくらりと避けて続けている。ひなこは、ハルキの財布や貯金の状況は知らないままだ。それでも、食べ物から電子機器から洋服から、何でも買ってしまい、イデコもニーサにも手を出していない様子を見ていると、あまり貯金はないように思えた。
鍋から出汁パックを取り出し、ひなこはちょっと考える。味噌を入れて、あおさとネギにするか、とうふと卵のおすましにするか。
このままだと、このままだ。
ネットでは政治家の名前のついた構文と言われていた。それは呪文のようにときどき浮かんでくる。仕事中にふと。給湯室でふと。休みの日にふと。そんな風に思うのは、「このまま」に満足していない証拠だと思う。変化を望んでいるのかもしれない。ハルキ曰く、頑張らない、無理はしない、ひなこ、なのに。
いったい、わたしはどうしたいのだろうーーひなこは思う。このままあと二十年ちかく同じ会社に勤めて、今の主任が退職するときに、もしかしたら、ひなこが主任を任されるかもしれない。いや、それはないだろう。子供がいないというだけで、今でこそひなこの仕事は同世代の同僚よりは多いし頼られることも多いけれど、その頃には、子育て中の同僚も、子育てに一段落し、十分仕事をしたいのではないか。やる気のある子育て経験者の方が何かと信頼されるだろう。それに、ひなこは変化を期待しているけれど、役職を期待しているのではない。
結局、冷蔵庫から三パックセットのとうふをひとつ出した。とうふと卵にして、長ネギを薄く切って最後に入れることにする。
「ごめんねー遅くなって。あ、美味しそう」
「おつかれさま」
「ひなちゃん、今日ちょっと早かったんじゃない?」
「うん。金曜日だし、ほとんど残業しなかった」
「いいね」サムアップのポーズを取るハルキは機嫌が良かった。ひなこもサムアップのポーズを返す。
「きょうはどんな日だった?」小さい子供の親のようにハルキはほぼ毎日こうして聞く。きっとハルキはそうやって育ったのだと思う。
「きょうはね、若い人たちとランチに行ったよ」
「おお、そうだ、言ってたね。どうだった?」
「若かった。謙虚でね、あたしたちって恵まれているんですっ、って言うの。時代が良いから就職できたんですっ、青木さんたちの時代だったらとてもこの会社には入れませんでしたっ、とかね」
「ほう。良い子じゃない」
「うん。賢くて、良い子」
ひなこは、隠そうとした小さな暗い気持ちが少しずつ広がるのを感じた。あの子たちは、自分よりよっぽど賢く先を読んで、人生を切り拓いている。ひなこのように、ぼーっとしている間に歳をとってしまったのとは違う。ほんとうに恵まれているのだろう。情報的にも経済的にもひなこより恵まれて、良いモノに導かれて、良い選択をし、良い教育を受け、世界は自分を肯定してくれる。彼女たちの親はきっと教育に熱心で、世の中をよりよくして、子供たちによりよく生きて欲しいと願っていたはずだ。彼女たちは将来どういう身の振り方をするのだろう。決して経済的にはカツカツにならなそうだ。どんな人と結婚するのだろう。SNS映えするようなステキな家に暮らすのだろうか。たとえば結婚しても、しなくても、子供がいても、いなくても、決して肩身の狭いとか、居心地悪い気持ちにはならないだろう。昔から結婚しない人も子供を産まない女性もいた。そういう人たちが肩身が狭いとか居心地の悪い思いをしてきたか、と考えると、そうじゃない人もたくさんいると思えてきた。時と場合によっては肩身がせまかったり、誇らしかったりするだろう。
そうか。ひなこは思う。--わたしは、絵に描いたような「ふつう」が自分だけ手に入らないことに、がっかりしているのだ。子供、持ち家。それらは、「ふつう」の人の手にしているものなのだ。「特別」な人は、バリキャリで、会社を経営していたり、好きな何かに没頭しているハズなのだ。「特別」な人が、結婚していない、子供がいない、家を持っていないのは、あの人は「特別」だから、と思うけれど、「ふつう」の人で、子供がいない、持ち家がない、お金もあまりない、というのは・・・・・・ひなこはそこまで思って、周囲のそういう人を思ってみたけれど、みんな「特別」だった。美咲だって、特別だ。美咲は大学院での専攻した分野の仕事を今でも続けている。他の人のことを、家がないとか子供がいないとか、そういう理由で、哀れに思うことはないのに、なぜか自分のことになると、情けない気持ちになる。それならその時間を特別なことにかけるべきだった、と。
もしハルキに、そういう情けない気持ちを伝えたら、ハルキには伝わるのだ。
ーーひなちゃんはさ、なるべくみんなと一緒が良いんだよね。みんなが持っているものを持っていると安心する。ひなちゃんの周りはさ、みんな幸せのかたちがひとつだよね。結婚して、子供が出来て、マンション買って、って。
ハルキはそう言うだろう。それは、でも、ひなこに呆れるのでもなく、見下すこともない。「そうなんだ」という事実として受け止めている。
「ひなちゃん?」
ひなこは驚いて顔を上げた。「なに?」
「どうしたの? 真剣な顔して、生春巻き食べて?」
「え、ぼぅっとしてた。なんでもないよ」
「じゃ、いいよ」ハルキはにっこり笑う。「明日はお掃除がんばろーか」
「え?」ハルキの意外な発言にひなこは驚く。ハルキは掃除に興味がない。ひなこは休日は窓を全部開けて掃除をしたかった。ハルキの仕事が金曜夜遅くなったりすると、翌朝ハルキが起きるのが遅くなって、なかなか掃除が出来ず、カーテンを閉め切った部屋で昼近くまでひとりで朝食を食べ、本を読み、ときには買い物を住ませて待っていた。
ハルキは、ひなこの希望をだまって受けとめて、出来ることは協力してくれる。出来ないこともある。
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