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隠密廻り同心の真実

 隠密廻り同心というと、悪党の巣窟に潜入し、悪事の証拠を探り出して、巨悪を退治する、そんな時代劇のヒーロー・ヒロインを思い浮かべる人も少なくないだろう。では、彼らは実際にはどんな人たちだったのか。本稿では史料から彼らの横顔を探ってみたい。乳幼児期の試練(注1)をくぐり抜け、成人しても、五六〇代で亡くなる人がまだ多かった時代の、スーパーお爺ちゃんたちのお話。
 元町方与力(注2)の編著になる『江戸町方与力』によれば、隠密廻りの職掌は「奉行ニ直属シテ秘密探偵ノ事ヲ掌ル」とある。万世ばんせい系の江戸町鑑まちかがみは彼らを「御用懸り」と称しているように、現代風にいえば、市政裁判所長官(町奉行)に直属し、その耳目となり、時には手足ともなって働く、「特命係長」といったところだろうか。
注1)江戸時代は乳幼児死亡率が高く、平均寿命は40にも満たなかったといわれるが、たとえ成人しても、今日のような高齢化社会とは程遠かった。
注2)元南組の佐久間弥太吉、安藤源五左衛門、仁杉五郎八郎、原弥三郎、元北組の尾崎繁之助

 では、旧幕府引継書の『与力同心勤方つとめかた』(享和元年(1801)校合)で「隠密廻り」の勤務内容を見ていこう。

  隠密廻り勤方之事
寛政十年書出かきだし
一 御頭おかしら様(注3)善悪ならびに御家中(注4)如何敷いかがしき取沙汰及承うけたまわりおよび候得はそうらえば申上候事
一 御下ケ物承糺うけただし之儀被仰付おおせつけられ密々取調是迄申上候事
一 御組与力同心善悪其外如何敷取沙汰申上候事
一 武家方町方は勿論遠国等之儀にても不依何事なにごとによらず於御当地ごとうちにおいて風説強く申触シ候儀は不拘真偽しんぎにこだわらず申上候尤町方より訴出うったえいで候儀は不申上もうしあげず
注3)町奉行のこと
注4)奉行の家来のこと。公用人や目安方など、いわゆる内与力

 まずは何を探索するか。町奉行本人や、その家来、あるいは部下たる組与力同心たちの評判、彼らに関する如何しい噂はないか、奉行からの特命事項などを極秘に調査し、江戸の武家や武家地、本来の所管である町人や町人地のことは勿論のこと、遠国等のことであっても江戸で広まっている噂であれば、どんなことも、真偽にこだわらずに、報告する。

一 三芝居(注5)見廻り衣裳等御法度ごはっと之品相用候歟尚又如何敷儀新狂言に取組仕候はヽそうらわば早速申上御差図おさしず次第に取計とりはからい候事
一 新吉原町燈籠とうろうにわか花植(注6)等之節其外平日も折々見廻り候事
注5)中村座、市村座、森田座の芝居三座のこと
注6)吉原遊郭の三大景物といわれた、三月の花植、七月の燈籠、八月の俄狂言のこと

 ついで江戸でもっとも影響力のあるメディア=三芝居には目を光らせ、如何しい演目に取り組んでいたら、すぐさま奉行の指示を仰いで対処する。また多くの人で賑わう吉原遊廓からも目を離さない。

一 忠孝者幷長寿之者及承うけたまわりおよび候得はそうらえば申上候事
一 博奕幷隠売女かくしばいじょ新規之場所は及承うけたまわりおよび次第に申上候事
一 盗賊并かさつ者廻り先にて見請候得はそうらえば召捕差出申候尤紛失物手筋出来可仕つかまつるべきおもむき廻先にて承候得はうけたまわりそうらえば密々取調候儀に御座候併兼而かねて手段致し捕者とりものつかまつり候儀には前文之趣風聞重に心懸こころがけ罷在まかりあり

 つづいて忠義者や親孝行な者、長寿な者のことも報告する。彼らを報奨するためだ。このほか、博奕や売春、盗賊や乱暴者にも常々目を配るように求められている。

右之とおり御座候都而すべて御届等之儀は御直おじき又は印封いんぷうにて是迄申上候尤廻り先にて及承ほか御用向ごようむき有之これあり御届難罷出節まかりいでがたきせつは其場所より町役人ちょうやくにんもって印封にて申上候儀に御座候此段御尋に付申上候
  午(注7)十二月
注7)寛政十戊午つちのえうま

 まさに奉行の耳目といっていい役目を果たしていたわけだが、報告は奉行に直接面会して行うか、出頭するのが難しい場合には機密保持のために印封した文書で報告するとある。
 通常、組同心は上役たる組与力の指揮に従う。この当時、与力と同心との間には身分の上で甚だしい懸隔があったことを思えば、与力の上司でもある奉行から直接命令を受け、報告することを許されていた隠密廻り同心がいかに特別な存在であったかがよく分かる。実際、彼らに対してだけは与力も一目置いていたという。

 組同心はみな、最初に若同心から初めて、次第に年功を積み、主任クラスに相当するだろうか、物書同心(本役と添役などあり)を経て、やがては年寄同心に至る。これらの職級を組役といって、昇進すると役俸もついた。年功序列が原則だ。年寄同心は最古参の組同心ということになる。
 一方、有能と目される人は廻り方、あるいは吟味方や年番方の下役など、重要な掛役かかりやくにも就いた。同心の掛役中でももっとも重んじられたのが隠密廻り、じょう廻り、臨時廻りの三廻りだ。三廻りは(奉行に直属するため)与力を直属の上司にもたない同心専任役で、組同心にとってはまさに花形であった。なかでも隠密廻りはその筆頭格であったのだ。
 寛政年間(1789~1801)には、もっとも古いとされるじょう(町)廻りに加えて、隠密廻り、臨時廻りの勤方も書き出されていることから、その頃までには三廻りの体制も整えられていたものと思われる。文政以降はほぼすべての隠密廻りが年寄同心であり、若くても五十代(注8)、六十代は当たり前で、七十代の人も多く、八十代で現役の人もいた。隠密廻りは最上位の職級である年寄同心の中でも、もっとも有能な人が選りすぐられていたのだろう。まさに組同心の最長老的存在であった。
 当たり前だが、ドラマのように潜入先で大立ち回りなんてことはなかったであろうが、足と頭で稼ぐ役目ではあったろう。時代劇の鬼平ではないが、一癖も二癖もある手先たちを使いこなしたのも彼らであったに違いない。北組で臨時廻りを勤め、後に隠密廻りも勤めたという山本啓助が残した日記には数多くの手先たちの名前も登場する。ついでながら、かの吉田寅次郎(松蔭)を下田から江戸まで護送したのも彼である。このとき、彼と同行した大八木四郎三郎も後に隠密廻りとなるエリート同心であった。
注8)ごく初期にはもっと若い隠密廻りもいたようだ。

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