エルメスのオレンジ、レクイエムの白
「共感覚」という言葉を聞いたことがあるだろうか。パリに住むフリーランスのとある美人社長から聞いたこの言葉は、この歳になって初めて聞いた言葉だったのだけれど、ざっくりとした説明を聞いたところまでは当たり前の感覚だと思っていた。
どうやら「共感覚」というのは「絶対音感」のそれと似ていて、人が本来持ち合わせているものの大人になるにつれて無くなったりするものらしい。ようは「音」や「数字」として認識するものを「色」なんかの他の感覚と併せみて認識するという感覚らしく、持っていない人からするとやや羨ましいものではある。だけれど当の本人からするとわずらわしかったりもする厄介な感覚だろう。私自身調べてそうと知ったとき、それは面倒なものだなと思った。
「共感覚に憧れている」という前述の彼女はなんというか、芸術的な感性に富んでいて感傷的なことに浸れるタイプだ。私はこっそり彼女とは感覚が近しいと感じているので、なるほどと思った。
おそらく彼女の言っているのは、例えばなんらかの広告で見るように音楽に色を感じ、香りにもきらきらとベールが纏っているように見え、世界がまるで色とりどりでもっと美しいと感じることができる感覚。だから身に付けたい。美しい世界を感じたい。そういうことなのでは。
それなら本来の「共感覚」とは少しずれてしまうことになるけれど、今からでも十分身につけることが出来ると確信している。私自身「共感覚」のそういういいとこ取りをする経験はしてきたという自負があった。
さて「感覚」というものは多くの場合、どのように生活してきたかが大きく関わってくる。感じるものの全ては過去に感じてきたものに基づいていて、誰かの影響を受けたり見聞きしたり感じたことのあるものでしか解釈することができないからだ。だから「柑橘系」という言葉に多くの人は「文旦」より先に「レモン」を勝手に当てはめたりするし、知らず知らずのうちに「黄色」が思い浮かぶ。
けれども私にとってのレモンは顔がいくつもあって、甘く透き通るような香りはほの青い白だと思うし、苦味を感じるきりりとした後味には涙や悲しさが付き纏う。
私は香水やコーヒーと言った香り、こと表現が難しく認識のズレが起こるであろうものを長期間取り扱ってきたということもあり、このことについてはかなり訓練を積んできたはずだ。ここでトレーニングしてきたことをやればおそらくこの「共感覚らしいもの」は身につくのではないか。
では具体的なトレーニングの方法はというと
・多くを知ること
・人の表現したものに触れること
・意識して表現してみること
これで十分なのだけれど、何事にも反芻が必要不可欠でかつ日常的に続けること。これだけで十分すぎるほど感覚は豊かになるはずだ。
多くを知ること。
何を知りたいかにもよるのだけれど、例えば色。かのエルメスで使われている色の名前は200種類以上とも言われ、それぞれに由来があることをご存知だろうか。あの鮮やかで高貴な印象のエルメスオレンジは、実は戦時中に入手できなくなった白い包装の代わりに仕方なく使っていた色。それは暗い戦禍にあって唯一晴れやかな気持ちになるような救いの色だったのかもしれない。戦争が終わってもお客さまがこぞって白よりオレンジを切望したということから何を感じるだろうか。街は何色だったのだろうか。どんなにおいがしたのだろうか。
人の表現したものに触れてみること。
世に溢れる美しいパッケージを見てみるだけでも十分かもしれない。近年においてはシンプルでミニマムなデザインのものが多いように思われるかもしれないが、歴史的、伝統的なものにはほぼそれは存在しない。細部にまでこだわり尽くされた香水瓶はその最たるもので、見えないところにまでなんらかの細工が施されている。それは誰かがなんらかの思いを託して造形したものであって、意味のないものは何もない。誰が何を感じ、これをつくったのだろうか。そう思って見るだけであなたの引き出しは何十も増えるのだと思う。
意識して表現してみること。
結局はこれに尽きる。何かを誰かに伝えるとき、自分の中にあるイメージは膨らみ、色付き、愛おしいものになる。なぜならそれは、必ずどこかで感じたことのある記憶と結びついているからだ。
私の持っている香水の記憶は、いつかの記事で書いたシャネルの19番。母の持っていた香水に由来していて、それが仕舞われていた臙脂色の戸棚や昼下がりの少しあたたかいにおい。こっそり拝借したときの少しひやひやするような緊張による高鳴りが思い起こされて、それらは同じような感覚を抱いたときに脳内で再生される。
ではそれを伝える場合、そのひとつひとつを文字に起こす必要があるのだ。そうするとより情景はリアルに思い出され、脳内のどこか奥底に仕舞われていた記憶も引っ張り出されることになる。そうして色には香りがつき、香りには色がつく。その繰り返しだと私は信じている。
「共感覚」について冒頭で少し面倒臭そうだと書いたものの、もしかしたらものすごく幸福なことなのかもしれないと思い始めている。愛おしい誰かを思い出すということが付随するのであれば、それ以上素晴らしい感覚があるだろうか。
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