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唐澤克之先生のこと

思いつくまま、つれづれなるままもよいところ。今日はとてもたいせつな方を偲び、思い出を綴ります。

代表作である『バブル文化論』のあとがきにも自ら記しているように、2004年の秋、原宏之は35歳の若さにして上咽頭がんステージ4と診断されました。
一軒めの入院先で、当初は楽観的な見立てであったものの、精密なMRI検査の後、医師から私に告げられた言葉は、「ここまで進行してしまうと治療する医師はいません。もって3か月。残念ですがご自宅に帰って思い出を作って下さい」というものでした。
告知をどうするかと尋ねられ、「彼の人生ですから、ほんとうのことを伝えてあげて下さい」と、真っ白な頭でわかった風なことを言ってはみたものの
病状を告げられた後、何も言わず抱き合った彼の厚い胸、どこか遠くの山奥の岩から滲み出たような澄んだ涙を、今でも忘れることはできません。

その重みに一度は打ちのめされた私たちでしたが、報せを受けて大変に心を痛め奔走して下さったふたりの恩師(「ひとりはパープルのシャツにグレーのジャケット、ひとりは黒の革のつなぎ」)によって、原は都立駒込病院へと救出されることになるのでした。

「その放射線科の医師はスゴ腕で、打率8割といったところだそうだ」

ユーモアを交えてそう言って下さり、ご自宅が近いからと入院中いく度も病室を訪ねて下さった恩師。
話題の「打率8割」の強打者こそが、唐澤克之先生でした。

なぜ今、唐澤先生のことを書こうと思ったのか。
闘病中のある友人から偶々駒込病院について尋ねられた昨夜、放射線科の唐澤先生が今もいて下さるといいのだけどなぁと iPhoneで何の気なしに調べ始めた視界の端に、「訃報」という検索候補が現れたのです……
打ち消したい思いで慌ててスクロールしてゆくと、原が旅立った一昨年の、彼よりほんの2ヶ月前に先生が急逝されていたことがわかり、何も知らずにいたことに衝撃を受けました。
当時と変わらず、激務をこなしていらした日々。ご勤務先でのほんとうに突然の旅立ちだったそうです。
走馬灯のように思い出が巡り、昨日は遅くまで眠れませんでした。

がんの治療は、病気の部位や性質にもよりますが、手術を行う外科、抗がん剤治療を行う腫瘍内科、放射線科といった各科がチームを組んで進められます。
原の場合、頭頸部腫瘍科という恐ろしくいかつい名前の診療科の三橋先生が主治医となり、抗がん剤のカクテルと放射線の併用療法によって、まずは手術可能な段階まで腫瘍を縮小させることを目指す計画でした。

治療の大変さをようやくうすうす感じ始めた私が、「身体にあまり過酷なことは……」と言いかけたのをピシャッと遮るように、「あなた何言ってるんですか?!助けられるものは徹底的にやります!」と厳しい目でおっしゃった三橋先生。
治療中も、退院後数年のフォローの間も、私たちにとっては厳しくて声をかけるのも憚られるような、怖い怖い先生でした。

そして、併用療法の放射線治療を担当して下さったのが唐澤先生です。
初めてお会いした時の印象は、手塚治虫さんみたいな人。
眼鏡の奥にキラリと光る目には(月並みな言葉ですが。語彙力〜!)果てしない知性が溢れ、それでいて「一緒にがんばりましょうね!」というその微笑みには、患者のカチカチの緊張を溶かす温かさがありました。
かなりの進行がんだったため、重粒子線やIMRTなどの先端的な治療も検討していた。それでも熟慮の末、「ぼくが標準治療でやります」との力強いお言葉に、この人を治すのだといううそのない熱い思いがぐんぐんと伝わってくるのでした。

3種の強力な抗がん剤を身体に巡らすのと同時に患部に放射線を照射する併用療法は、背水の陣で賭けてみるだけの期待がもてる効果に比例してひどい副作用が現れます。
何度思い返しても、原はほんとうにがんばった。あんなに苦しいことをよく乗り越えてくれたと今でも思います。
入院時に着ていたパジャマを目にしただけで、あの大の男が泣いてしまうような、文字通り血を吐きながらの無我夢中の毎日でした。抗がん剤の、予定されていた最後の1クールは、とても耐えられるものではないと判断し中止しました。

私は仕事の行き帰りや週末に見舞うことしかできませんでしたが、お医者さまも看護師さんたちも、24時間体制で、それは献身的に想像もつかないハードな仕事をこなしておられることに、原は驚き、顔を合わせる度しみじみとそのことへの感謝を口にしていました。
朝夜勤を明けた看護師さんが、しばらくすると明るい顔をしてまた点滴の交換に来てくれる。トイレに立つ暇もないほど昼間は外来が混み合っているのに、先生たちは早朝から病棟を回って患者を励まし、夜は遅くまで会議や研究、事務処理。手術の曜日には長時間の手術。

闘病からフォローアップも含め10年あまり、私はいかめしく恐ろしい「癌」という漢字を使うことができず、原を喪うことばかりを恐れながら、振り返るとどんな風にして過ごしていたのかよく思い出せないような年月を送りました。
彼を死の淵から救い出し、毎晩本駒込の駅まで、涙がこぼれないよう夜空を見上げて歩いた私の心をも支えて下さったおふたりの医師。

【2024年夏🌻に数行追記】
先日、土井善晴さんのレシピをベースにして、玉ねぎを焦がしトロトロに炒めて昭和なお母さんのカレーを作りました。

仕事の後で夜の駒込病院に原を見舞うと、点滴のガラガラを引きながらよく食堂につき合ってくれて(喫煙所にもしょっちゅう行きましたが🤭)
そこで私が注文するのは決まってミニカレーでした。
彼は抗がん剤の治療中だし、大食漢の妻も悲しくて食欲はあまりなかった。それでもほどよい量の、どこか懐かしい食堂のカレーはおいしくて、ニコニコして食べられた。
あっと言う間の面会時間が終わる頃、病室に戻る途中の自動販売機でお茶やジュースを買ってくれた。
若かった二人とも、ちょっと油断すると泣いてしまいそうなそんな月日を、たくさん過ごしたんだなぁと思って
今日はじーんと心が温かくなりました。

思い出への玉手箱

タイトルに添えた写真は、治療を終えてほどなく、体力を回復すべくヒョロヒョロの身体で近所を散歩していた原です。

三橋先生は、年を経るごとに表情が柔らかくなり、検査を無事にクリアしたある年の診察日には、「原さんは私にとっても、生きていてくれてほんとうに嬉しい患者さんのひとりだよ」と言って下さいました。
ああ。あんなに苦手に思い怖がっていたけれど、先生は助けようと必死で、毎日真剣に診て下さっていたのだと、思わず胸が熱くなりました。
郷里の九州へお戻りになってからも何度かお便りを下さった先生に喪中葉書をしたためた一昨年の暮れには、ごめんなさいと切ない気持ちになったものです。

目の回るようなご多忙の身にもかかわらず、豊かな趣味をお持ちで、お元気にマラソンにも出場されていた唐澤先生が突然にこの世を去られたとは。
ご家族のお悲しみはいかばかりであったでしょうか……

先生の人となりを伝える記事を二つほど、引かせていただきます。先生のお仕事ぶり、功績は私の拙い言葉では語れません。どちらも大きく大きく頷きながら読みました。

読んでいると、そのお姿は私たちの知る唐澤先生そのもので、あの理知的で時に茶目っ気のある微笑みが浮かび、涙が溢れました。
先生は千葉ロッテマリーンズのファンでいらっしゃり、原の地元が千葉であることから私たちも応援していますと申し上げると、お子さんとの野球観戦の様子や、「マリーンズ検定」で好成績を上げられたお話など、写真を見せながら得意げに聞かせて下さるのでした。そんな診察日の帰り道は、安堵も手伝って一層心楽しかったものです。

唐澤先生のお名前を追っていた流れで、奥さまも大変に優れたお医者さまでいらっしゃり、ご夫妻が学生の時分から助け合い、ご家庭を築き、切磋琢磨しつつおひとりで何人分ともいえる偉業をそれぞれに成し遂げてこられたことを今さらながら知りました。
どれだけの患者さんや家族を勇気づけ、その命を救い、また永らえてこられたことでしょうか。喪われたものの大きさを改めて思い、自分のようなちっぽけな者であっても、駒込病院には、日本の放射線医療には、唐澤先生という素晴らしいお医者さまがいて下さったのだということを今一度の感謝とともに声を大にして伝えたい。そんな気持ちになりました。


シューベルトのアダージョ変二長調 D.505 を慰めに聴きながら

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