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物件は、はずみで買い、はずみで借りる

ある物件の内覧に行くことにした。はずみ、である。前から部屋を借りようと計画していたわけではない。住む場所はあり、愛している。余分に部屋が必要というわけではない。場所は関西だし、引っ越すつもりはない。

ある物件の情報は偶然見かけた。必要ではないのだが、私は「その物件を」「その物件だから」借りたいと思った。必要ではないが、必然の気配があった。

私にとって物件は、はずみで買い、はずみで借りるものだ。はずませてくれるほどの強い何かがない場所に、自分の身を置きたくない。もちろん、いろんな条件を勘案はする。しかし、それは後の話だ。空間とは、まずはインスピレーションであり、それを重視する度合いが私は極端に強いのだろう。第一印象はまあまあだったけど、便利そうだし、コスパがいいし、みたいな選択は自分の美学にかなわない。

孤独の時間は祝祭だ。私は孤独の時間を楽しみ尽くして死んでいきたい。居住空間を大切にし、自分の好きで構成しているのは、そういうわけだ。私をもてなし、私を賀ぐ、祝祭なのだ。

住む空間、すなわち物件は大きなキャンバスだ。人生という作品の方向性を決める土台である。一方で家財は土台に配置されるパーツ、細かな描き込みのようなものだ。描き込みに必要になるのが、土台が生きるか? という視点だろう。土台との調和でしか存在してはいけないのが、私にとっての家財だ。バランスの星、風の星座、天秤座に生まれたからね。知らんけど。

だから、私は家財を間に合わせでは決して買わない。なぜ、このテーブルなのか? なぜこの書棚なのか? 「ないと困るから」は理由にならない。「ないと困る」ならば、不自由を我慢する。間に合わせの気に入らないものが視界に入り続ける地味なストレスと、結局捨てることになるそれを処分するために「粗大ゴミA券1枚とB券を2枚と……?」と翻弄される自分を想像するのがつらい。

「これでなくてはならない」という確信のみが、自分の空間に「そこに在ってよいもの」を認める理由である。

これでなくてはならない。

その納得は、条件の抽出と検討を経て、すべてが当てはまったときに生まれる。キッチンの作業台が必要である。「条件:サイズがぴったり、拭き上げやすく、美的に自分の好みに合うこと」とか。時計がほしい。「条件:壁掛けで、アンティークで、秒針を静音にカスタマイズできること」とか。そして後の検討プロセスで妥協しないから、ようやく「これでなくてはならなかった」というカチッとした何かが醸成されていく。

はずなのだけれど? ことほど左様に、「これでなくてはならない」の条件は(私のなかで)厳しいわりに、論理的な検討プロセスをまったく凌駕してしまう強さを持つものが情動なのだろう。家財はロジックと思考のうえに納得が成り立つが、私は人生の土台となる居住空間には衝動を駆り立てるインスピレーションを求めている。

2020年、校了ハイで家を買った。

全力を尽くした数年がかりの仕事が終わり、翌日の土曜日はいい日和だった。近所に散歩に出て、不動産屋の軒先の情報が目に留まった。テラスが2つ、駅から3分、図書館1分。何より物件の古さと佇まいがよかった。その場で内覧を申し込んだ。物件はいまから内装をフルリノベーションするというタイミングで、見に行ったものの廃墟だった。「これではさすがに……」と担当者が、同じ業者がリフォームしたという別の物件をクルマで見につれていってくれた。

あの廃墟に、同様のフローリングと壁、水回りが施工された仕上がりを想像してみた。同潤会アパートふうの構造と白壁、陽がよくさすテラス、白いフローリング。部屋はすべて家財の雰囲気を変えて仕上げよう。

「買います。他に検討? していません。あの物件だから買いたいと思ったのであって、さっきお店に入る瞬間までは家を買いたいと考えていたわけではないんです。衝動買いです」

2020年の冬にはずみで買った家を、私は愛し抜いている。初夏から夏にかけて燕も間借りに来る家だ。そんなことは知らなかったし、幸福なおまけだった。今年も住人が皆でやさしく見守り、燕は増えた家族と大陸に飛んでいった。

「借りたいんです。他に検討? していません。私は、この物件だから、この物件のままに借りたいと思っているんです」

不動産屋にメールを書きながら、先週はずみで持ち上がった新たな衝動について考えていた。

部屋ごとにテーマが違う。ここはデュラスの部屋。
レオノール・フィニのドローイングは眺めるたびに嬉しい宝物。

文・写真:編集Lily



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