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ヘトヘト記者がフリーランスになった

●きっかけは寿退社

今、世間は「多様性」の受け入れが当たり前になってきている。
仕事、生き方、ジェンダー・・・。
あらゆる人が、あらゆる選択肢を持っている。
そんな当たり前のことが、ようやく受け入れられる時代になった。

しかしほんの15年前の世の中は違っていた。
私がフリーランスになった理由は、ライフスタイルを貫くためだった。

きっかけは、今では死語かもしれない「寿退社」だった。

●見つからない現実的な選択肢

大学卒業後、東京に本社を置く新聞社に入社。ちょっと働いたところで静岡県民と結婚することになった。
・全国転勤が待っていること
・勤務が早朝深夜に及ぶこと
の2点を乗り越える得策は、見当たらなかった。

正直なところ、「逃げ」もあったのだと思う。
ずっと記者を続けている仲間もたくさんいるので、
単純に私が弱かった、という問題かもしれない。

当時の全国紙の地方支局は、こんな様子だった。

週に1度は泊まり勤務があり(今はもうないらしい)、夜中の事件発生を警戒していた。ざらざらしたシーツが嫌で、毎回マイシーツを引き、埃だらけの掛け布団で数時間の仮眠をとる。翌日が休みになることはなく、いつものように夜中まで働いた。月に2〜3回の休みも、”市外”に出る時は先輩に報告しなければならなかった。

たまーに実家へ帰り息抜きはしていた。だが、そんな時に限って持ち場で事件が発生。携帯が鳴る。それでも気付かないとポケベルがガンガン鳴った。

でも、特ダネを追う新聞記者の仕事は好きだった。
あの正義感と高揚感はたまらない。
しかし、いろんなことにがんじがらめ。
20代の私の心身のバランスは見事に崩れた。ヘトヘトだった。

おまけに1年後には都内か名古屋、大阪への転勤が待っていた。

●多様な生き方のひとつ

こんな状態で結婚生活は無理だ・・・。

ある時、パンッと何かが弾けて、辞めようと決意。

当時の上司に「お前、辞めたら絶対後悔するぞ!」と凄まれ心は揺れたが、
今になって考えると、私にとってフリーランスという道は、家族との時間を大切にしたい私のライフスタイルに最も合っていた。

地方にいながらできることは、確実に増えている。
全国区の仕事も、都内へ出向かなくてもできる。

地方在住が足枷になることがゼロではないが、
15年前よりも「色んな働き方」が世の中に受け入れられていると実感する。

出世もしなけりゃ安定もしないフリーランス。けれど、会社員時代より多くの出会いがあり、そして何より子どもたちとたくさんの時間を過ごせる生き方を、私は気に入っている。

さて、今日から子どもたちは冬休み。
子どもの長期休暇は一緒に休む、が私のモットー 。
今日までに年内の取材の仕事は終え、
あとは家(事務所)で原稿を書くだけだ。

生き方に正解はない。
ただこれが私のいい感じな生き方、
つまり”多様な生き方”のひとつなのだ。

【ライター:大楽眞衣子】2019-12-24 記


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