理解できないものと闘い、歌うー「ソラリス」オペラ
先日、スタニスワフ・レムのSF小説「ソラリス」のオペラを観てきました。オペラ鑑賞はほぼ初めてです。SFをオペラにするだけでも、言葉を尽くして作家が構築するユニークな世界観を表現するのは非常に難しいはず。
それを、ソラリスで……心理描写と人知を超えた「ソラリスの海」についての理論的考察が大半を占めるこの小説でやるとどうなるのか。見ると今回の公演はたった1回ではありませんか。なんとか目撃したい!という一心でチケットを取りました。
ステージには、青く照らされたパイプオルガンを背景に、少人数のオーケストラと、奥に座る4人の歌手。衣装は普段着っぽい雰囲気で、想像以上にシンプルな舞台に、思わずSFを思わせる仕掛けを探してしまいます。が、特にない。周りの席から「海」はどうやって表現するのかな?という囁き声が聞こえてきます。わたしも素人なりに、視覚的には海をどう描くかがカギかな、と思っていたので、この時点であらゆる予想がひっくり返されました。海、あの深遠さ、つかみ所のなさ、善意も悪意もない、巨大な存在…
「その後もずっと、このシロップを思わせるゼリー状の海がどのようにして天体の軌道を安定させることができるのか、誰にも分からなかった。…学者たちは自分が相手にしているのは思考する怪物だ、という確信に次第に傾いていった。つまりこの海は、信じがたいほどの規模に肥大し、惑星全体を取り巻く原形質の脳のようなもので、宇宙の本質について異様なほど幅広く理論的な考察を行いながら時を過ごしている。この海は、われわれの理解のいかなる可能性も超えた巨大なモノローグを深淵で永遠に続けているのであって、われわれの装置が捉えるものはすべて、そのモノローグからたまたま盗み聞きした取るに足らない断片に過ぎない、というのである。」
スタニスワフ・レム『ソラリス』(早川書房)
でも、舞台ですから当然、「海」は楽器(と、電子音)で構成される目に見えない存在として描かれます。それも、ヒーリングミュージックのような穏やかな海の音…わたしたちが海を表現するときの音としてインプットしている音…はひとつも出てきません。不協和音、鋭く反響する電子音が響き、押し寄せたと思ったら急に宇宙の広がりに放り出される。
でもそれが見事に海と対峙する人間とシンクロしているんです。原作のセリフを的確に拾いあげ、高い熱量で痛切に歌い上げる歌い手の姿に見入るうちに、この小説の本質は「海」というより「海」と対峙する人間の精神の働きなのだと気付かされます。大洋を大洋として克明に描くことはもちろん素晴らしいですが、それがなくても、ないからこそ浮かび上がる像もあるんだなと驚きました。歌と音に向き合った90分間ぶっ通しの公演は、私の心に、音と言葉からなる静謐な心象風景を形作って終わりました。
人間の精神こそがテーマ、というのは、いままた原作を読み返してあらためて感じたことでもあります。
ソラリスに対する人間の反応は、まさに人間が自分の手持ちの思考の枠組みで決して腑に落ちない出来事と対峙する過程そのものです。
なにか理由、法則があるのではないかと信じて、理論化を試みる。複数の仮説が立ち並び、有力な仮説が次々と現れては消え、ふいに何も説明できないのではないかと絶望感に征服される。絶望感を打ち消そうとするかのように、罵詈雑言を浴びせるが、事態はなにも変わらない。手がかりもなく、何も明らかにならないまま取り残されてしまう。
自分の存在に気付きながら、無視しているのか?気付いていないのか?「気付く」能力がないのか?悪戦苦闘する我々をいっさい気に留めず、高次に存在し続けているのか?
そんな苦闘は、小説においては「ソラリスの海」に対して繰り広げられますが、対象はもっともっと普遍的です。突然降りかかった不運、他人との埋められない深い溝、分かっているようで全然わからない自分自身。
怒りすらも無力化されるような、相手の見えない闘いの焦燥感。苦しみと小さな希望のサイクルをメタ認知して、それを前向きに変換していこうとする営みの意味を教えてくれる物語です。