「迷いながら生きていく」より抜粋
本当の情報とは、「情(こころ)」あるもの
情報の「情」とは、人間の感情や感覚のことを言います。
日露戦争の頃ですが、情報将校を大陸に派遣して、情報収集をさせました。彼らが集めた情報の中には、上質とされる情報と、割りあい低くみられる情報とがあったそうです。敵の兵馬や大砲の数、補給線の様子などは、必要な情報ではあるけれども、それだけではあまりすぐれた情報とは考えられませんでした。むしろ敵の兵士たちの士気やその国の国民たちがどう思っているのか、そういう感情を分析して、きちんと把握して伝える情報を大事にしたそうです。
つまり、情報というのは、相手の心情を伝えていなければ、真の情報とは言い難い。数字や統計のような客観的データももちろん必要ですが、そこにあるこころを読み解く目が入ってはじめて情報と呼べるのではないでしょうか。
私は、情報が溢れる社会になればなるほど、生の情報の価値が上がっていくと思います。ここで言う生の情報とは、物事に出合った人の感想や、ある人が考えたことそのものということです。そこには「情(こころ)」がある。
加速する情報社会から逃げるのではなく、自分の判断基準で決める。
観察して得た情報を、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分なりに一瞬でいいから咀嚼してみる。そこでやはり重要になるのは「こころ」です。あなたのこころがどう感じるかを見逃さないようにしましょう。
情報は、あなたのこころで吟味する。
真に受けすぎず、鵜吞みにせず。
こころで感じる時を待ちましょう。
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こころの無い意見を平気で発言する人がいるが、そういう情報にはそれほど価値がないのだろう。自分の心に響かないからだ。情(こころ)のない情報には反応せず、聞き流すことに徹する方がいいし、そういう意見を平気で発言するような人間は避けた方がいいのかもしれない。そういう人の意見は情(こころ)のない虚偽情報なのかもしれないからだ。
著者が述べているように、こころで感じる時を待つのがよいのだろう。何も感じない情報は真に受けなくて良いと思えるようになった。
正しい事実ばかりを述べるだけ、自分がなぜそれを重要であると考えるのかは述べない人の意見は参考にならない。ただ言われたことを守っているだけの宗教家のような側面があるからだ。ただ信心深いだけでは、その発言を受容するだけの理由にはならない。
なぜ正しいのかを説明できない人の意見は信用できない。本人が盲信しているだけかもしれないからだ。また自分の意見を理由もなく強要してくる人間には気をつけないといけない。そういう人間は世間の規範を盲信しているだけであり、情報を吟味する力がない可能性があるからだ。そのような宗教家に思考を改宗されないように注意しないとならない。後、中途半端な諦観主義の人にも気をつけた方がいい。こういう人間は全てを下らないと考えている末人の可能性があり、努力している人間を馬鹿にしてくる、また酷い場合は努力することを妨害し、努力する意志を挫こうと試みるからである。妨害行為を楽しみとしているかもしれないからだ。自分一人で完結してくれれば良いのに、中途半端だから完結できないのである。本当にタチが悪いのである。極力関わらない方が賢明である。
自己基準ですが、正しいことにはその維持に労力がかからない。太陽の動きと同じだと思うからです。当面は東から登り、西に沈む。太陽の動きを科学すると大変ですが、体感出来る範囲では太陽を人工的に制御する必要がないからです。正しさとはそういう事のように思えます。
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