音楽を「優しい自分に酔うためのツール」にするな
お正月から、大災害や大きな事故に心を痛めています。
被災地の皆様、事故に影響された皆様にお見舞いの気持ちと、事故でお亡くなりなった方々に哀悼の意を表します。
一方で、それに対して戦う人々や、事前に準備されたシステムが機能するのを見て、人間の恒常性への執念に敬意を感じます。
とりあえず、今回の地震でミュージシャンの演奏ボランティアは一旦待った方がいいです。衣食住が整ってない時に音楽のボランティアは迷惑になります。最悪の場合、石投げられますよ(経験談)
— 亀井政孝 (@MASAX7761) January 2, 2024
音楽家の出番はある程度、衣食住が確保されてから。これも悲しいけど東日本大震災の時の教訓です。
阪神淡路大震災のとき、東京からママさんコーラスが『歌を届けに来ました』と来て
— 宮良 (@MiyanagaKujira_) January 2, 2024
食料も水もなくて1日1つの配給パンと350mlのお茶で凌いでいる僕らを横目に、持参したお弁当食べてゴミを放置して楽しそうに良いことした顔で帰っていったの本当に石投げようかと思った
自分に酔った顔、まだ覚えてる https://t.co/YEIiYj3G8C
被災地に「演奏ボランティア(?)」が押しかけ、迷惑になることがあるようです。
自分がもし社会的評価をされているミュージシャンであったとしても、被災地で演奏ボランティアをやろうなんて考えないと思います。
やるとしたら肉体労働ボランティアか、やるとしても呼ばれて自衛隊や警察、消防等の公共サービスに従事する人々への慰問か、被災地以外でお金を稼いで寄付すると思います。
前にも書きましたが、音楽家は、音楽を特別なものと考えすぎるところがあると思っています。
そもそも「被災地の人々に自分の音楽を届けて慰めてあげよう」なんて考えは傲慢だと思います。
そういう人は「優しい自分」に酔っています。
なぜなら被災者を「可哀想な人」として無意識に上から見ている発想だからです。そして自分と音楽の価値を異常に評価しています。
そういう人が音楽と音楽家の社会的評価を落とすのだと思います。
話が変わりますが、障害者に対しても同じだと思うのです。
よく障害者施設や高齢者施設で演奏ボランティアというのを聞きます。誘われたことも実はあります。
でも、プロがやるならボランティアでしょうが、音楽で一定の社会的評価がない人が他者に自分の音楽を聞かせる機会として施設で演奏会を実施することは、ただの迷惑ではないでしょうか。
障害者を題材として感動コンテンツにすることを「感動ポルノ」と呼んだりします。
「演奏ボランティア」をやる人の心理的な根源は、それに似ていると感じます。
「優しい自分」に酔うためのコンテンツであり、行動なのです。
私は、そうならないために、
「優しい自分」に酔うな。
音楽を「優しい自分に酔うためのツール」にするな。
自分と音楽の価値を過大評価するな。
を肝に銘じておきたいと思います。