物語と私と誰か
『妄想と私と誰か』と言ってもいい(笑)
一応書いておきますと、本来『妄想』という言葉には病的な意味合い(つまり本人が『妄想』と思っていない。現実と混同している)がありますが、ここではライトな意味で使っています。やや暴走気味の空想癖、くらいの。
前回の『物語の場所』のコメントを拝見した上での、補足的記事です。コメントくださった皆様、ありがとうございます。小説を書く人、絵を描く人、翻訳家さん、読者さん……それぞれの御意見を興味深く拝読しました。
さて。私なりに考えてみたのですが『物語を必要としている人』は、次のようなタイプに分類されるのではないか、と。
A.他者の書いた物語を「読むこと」を必要とし、基本それで満足できる読書家さんタイプ。読んだ作品について、頭の中であれこれ妄想したりはするが、自分がなにかをアウトプットすることは、それほど必要としていない。
B.基本「読むこと」が中心だけれど、二次創作はしたくなるタイプ。自分の好きな作品、キャラクターでの妄想が止まらず、それをアウトプットして仲間と分かち合いたい。
C.イチから自分のオリジナルで妄想し、創造し、それを誰かに読んでもらいたいタイプ。
もちろん、この三つは重複もありです。BでありCでもある、という人もいると思います。どれが中心になっているか、というくらいに考えて下さい。そして当然のことながらABCに優劣はありません。
さて、私は前回、『空想の世界は一種の逃避場所である』という見解を示しました。それを踏まえると、ABCの中で、もっとも逃避傾向が強いのはCという気がします。『自分だけの空想で、すべて完結させた物語を欲する』わけですから。いちばん他者が遠いんですね。
ところが、逃避場所としてもっとも機能するのは……実はAなのです。
逃避するからには他者を避ける必要があり、一番他者を避けられる場所は自分の脳内なわけで、『読むことに徹し、単独で空想を楽しむ』ことをよしとするAタイプが、いちばん効率よく逃避しています。これは一番『逃避しがち』という意味ではありません。むしろ逆で『少し想像の世界で自分を休ませれば、ちゃんと現実社会に戻れる』のです。寝る前にBL小説で萌え癒やされたり、週末に薄い本(同人誌)を買って萌え癒やされたりして、うまくガス抜きしながら現実世界と向き合える。
反して、自分で創る、という方向に傾きがちなBCタイプは、自分の脳内空想だけで終わらせることができません。『空想・妄想が突っ走ったあげくに生まれた作品を、誰かに見せて、その世界を共有したい』という欲があるからです。二次創作(原作から派生したパロディ作品)であれば、同じ趣味の他者を見つけやすく、そこにひとつのコミュニティが生まれます。他者を意識せざるをえなくなるので、空想・妄想の自由度はやや目減りします。少なくとも、人が読んでわかる形の作品にしなければならない。文章は読みやすいほうがいい。絵も見やすいほうがいい。あと、盆暮れのスケジュールはあけておく必要がある。だってコミケに当選するかもしれないし! ダメだったら年明けのインテが! と、大変忙しくなる可能性もあります。最近オンリーも多いしね……。
そしてCタイプになると、なにからなにまで自分の妄想から生まれた物語を、他者に差し出すという、よくよく考えたらかなり無謀なことになります。この無謀を生業とするのが小説家やマンガ家です。ここにきますと、自由度はさらに低くなります。♪ありのーままのー妄想でいいのー というわけにはいきません。『自分の妄想から生じた物語の完成度を高める』必要があるのです。じゃないと、誰も読んでくれない。「読んでくれなくていい」という人は、たぶん最初から日記帳に書いている。読んでほしいから、作品にしているはずです。少なくとも私はいつも「読んで読んで読んで」と必死です(笑)
なにが言いたいのかというと。
不思議なことに『自分だけの妄想世界を創造したい』という、一見、いちばん重度の逃避活動をしているかのようなCが、もっとも他者に近づかなければならない、という現象が生じているのです。『逃避活動である妄想を物語にしたとき、すでに他者を拒絶することはできない』。つまりこれが前回私の書いた『妄想を物語にすれば、客観性が生まれる』ということに繋がるのではなかろうか……。
うーん、なんだかいまひとつロジカルにまとまってないような気がする。とりとめもなく、読みにくくて申しわけありません。とりあえず現時点で考えたことを、書き留めておきたかった感じです。またいずれ補足するかもしれません。コメントはお気軽にどうぞ。