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初担任だったあの頃~若気の至りと、意識の矢印の向きについて

転職して高校教師になったので、
僕が初めて担任をもったのは30歳のときだ。

前職は高校受験のための学習塾。
国語と社会を教えていた。
毎年11月になると「勉強合宿」と称して、
中3生と教室に缶詰で、
深夜2時ちかくまで授業をする。
松尾芭蕉「おくのほそ道」を教えるのが定番で、
暗唱を課題とし、
「月日は百代の過客にして~」と
最後までそらんじることができた生徒から
塾長特製のビーフシチューを食すのが
ルーティンだった。

振り返ってみると、
今だったら絶対できないようなことを
嬉々としてやっていたなあ。
生徒も喜んでいたように思う。

今でも「おくのほそ道」を読んだり教えたりしていると合宿のことを思い出す。そしてビーフシチューの匂いが脳内に甦る。

採用当初から5年間お世話になった
塾長先生はユーモアセンスにあふれ
ビーフシチューづくりに並々ならぬ情熱を
注ぐ方だった。
授業はもちろん、
生徒の心を鷲掴みするのが上手で、
その人心掌握術や教室運営のやり方を
ずっと、そばでみていたから、
担任を務めることになったら、
オレも
あれしたい!
これもしたい!!
と、夢ばかり大きく描いていた。

しかし、である。

学校によって異なるのだろうが
僕の勤務高は、
初任1年目は、担任になれない。

そのことが、少なからず僕を苛立たせた。

県内でも有名な大手学習塾で
5年間鍛えられ、
社長や上司からも可愛がられた
自負があったので、
学校で働くようになってから、
まず思ったのは
「学校の先生って授業へたくそだな~」だった。

転職して高校教師になったばかりの僕は
正直、傲慢だったのだ。

オレが教壇に立ったら、
どの生徒も目をキラキラさせて
勉強のおもしろさを伝えるぞ!!
早く担任もして、クラスをよくしたいな!!!
そんな熱血な思いで一杯だった。

1年目、
オレは生徒たちから圧倒的な支持を集めた
(気がしていた)。

だから余計に
担任をやりたくてウズウズしていた。
早くオレのクラスを作って、
理想のクラスにしていくぞ。
あれもしたいな、これもしたいな、
とアイデアをメモする日々。

そんな思いが蓄積されていたので、
大体採用2年目でようやく初担任になれたときの
学級開きは、猛烈なスタートダッシュだった。

よく言えば、
やる気・元気・本気のかたまりで
純粋そのものだった。
エネルギーも高いので
生徒たちもよくついてきてくれた。

遠足も体育祭も文化祭も、
そして日々の何気ない時間も
めくるめくように過ぎ去っていき、
夢中のまま1年間を駆け抜けていた。

このときの状態を
アラフォーになって今、冷静に振り返ると
「無我夢中」という言葉がピッタリだ。

付き合いはじめの恋愛状態とでもいうか、
ずっとドーパミンが出続けているみたいで、
とにかく「のぼせ」ていた。
顔も精神も上気しっぱなしだった。

今の僕が、当時の自分に声をかけるなら
肩を2、3回叩いて
「ちょっと落ち着け。周りを見ろ」
と言ってあげたいな。

実際、
初担任として、
1年間を猛烈に駆け抜けたあと、
生徒との「のぼせ」が覚めていくと、
一気にギクシャクしだす。
(その話はまた今度)

当時出していた学級通信は、
今読み返すと真夜中のラブレターみたいだ。
確かに勢いとパッションは感じる。
思いも伝わる。

でも「イタい」のだ(苦笑)
上滑っているし、独り善がり。

一言で表すなら、
初担任の頃の僕は
意識のベクトルがすべて「自分」を向いていた。

「オレのクラスを良くする、輝かせる」
「オレのクラスは○○にしていきたい」
困っている生徒、悩んでいる生徒がいたら
「オレがなんとかしなければ!」

オレオレオレ…

「オレ」がクラスの主人公だった。

そうではなかった。
当たり前だけど、
クラスの主人公は一人一人の生徒。

だから、情熱とエネルギーの矢印を、
自分ではなく、
生徒に向けはじめるようになると、
目に見えて成果が変わっていく。

要はエネルギーの使いどころを
どこにもっていくのか?という話。
そんな話を時間をかけて、
少しずつこれから言語化していきたいと思う。

今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。これを読んでくださったあなたの少しでもお役に立てたら嬉しいです。

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