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ひとり遊びに花の装い

 平成の終わった年の冬、京都の繁華街にある店でのことでした。そこは酸味が爽やかなコーヒーを飲ませてくれるカフェとして知られているのですが、陽が傾き始めるとウィスキーを頼む客が増えてきて、夜にもなれば当時でもすでに珍しかった全席喫煙可のバーになる店でして、間口が狭くて見つけにくいし、夕暮れになると、周囲にある敷居の高めな老舗に灯が入ることから、賑やかな人たちが少し離れた別の界隈に流れていくので、遅い時間を選んで入りさえすれば、まず窮屈を感じさせない店でした。とはいえ、なにせ小さな店ですから、磨き抜かれた低いテーブルを囲む、これもまた低いソファーに陣取って、明かりやら煙やらを眺めていると、小鳥みたいに物静かな女子大生風のお給仕さんから、相席をお願いされることもありました。
 その夕暮れ、私が重たい硝子戸を押し開けたときにも、すでに店はいっぱいで、案内してもらったテーブルには、相席を受け入れてくれた先客が座っていました。その人は私と同じ年頃の女性でした。颯爽としたショートカットが室内を満たす琥珀色の明かりを吸い込んでいて、毛先がオレンジ色に滲んで見えたのが綺麗でした。
「どうも」
 短く声をかけながら、お給仕さんに手で示されたソファーに荷物を置くと、手元の携帯電話に落とされていた視線がこちらを向いて、真っ黒い瞳が見えるのと同時に、不思議な色に彩られた唇の両端がキュッと吊り上がって、微笑みをかたち作ったのを覚えています。
 時間はウィスキーでしたが、木目の細かい長方形のテーブルに、うっすらと香ばしい湯気を立ち上らせるシノワズリのコーヒーカップが並んだところ、古くてふにゃふにゃに柔らかいキャラメル色の革のソファーへ沈み込んだ私たちは、どうやらどちらも下戸だったようです。私のカップは白地に青い線で山水の描かれた落ち着きあるデザインで、彼女のカップは赤い枠の中に牡丹の描かれたゴージャスなものでした。その艶やかさに目を奪われた振りをして、何度目かに彼女の唇を盗み見たとき、笑みを含んだ真っ黒な瞳に見返されてしまって、ぎゅっと動きを止めた心臓の緊張を、私はまだ胸の筋肉に感じられる気がします。
「――素敵なお化粧ですね」
 先に声を発したのは、焦った私の方でした。
「あらまぁ、ありがとう」
 思いのほかなくらい素直に照れた彼女は、もうひとつニッと笑みを重ねると、もう冷たくなっている様子のコーヒーを含んでから、隣席に放り出された黒革のバッグに手を突っ込んで、どうやら裸のままで放り込まれていたらしいリップスティックをテーブルの上に出してくれました。
 それが、そのシーズンには街角でよく見かけていた、でも誰がいつどんな風に使うのか見当が付かないと首を傾げていた、有名な低価格コスメのブランドが出している真っ青なリップスティックなのに気づいて、私はなんだか呆気にとられてしまいました。
「おねえさんにも似合いますよ」
 錆びを含んだ声で笑った彼女が、私の顔をまじまじと覗き込むものだから、自然と見つめ返すことになった私の方も、真正面からその貌を観察するかたちになって、切れ長のまぶたを彩るアイシャドウが、オレンジのような、パープルのような、グレイのような、シルバーのような、でもじっと見つめないことには、メタリックな薔薇色にも見えるような、玉虫色をしているのが分かりました。
「とは言っても――」
 薔薇の唇だなんて古臭い小説的な表現だと思っていたけれど、彼女の青い唇は奇を含んだ紫の薔薇みたいで、甘みと毒の気配を放っているところに、なにか人差し指の先で触れたようなリアリティを感じさせるように思われました。
「あなたのシャネルだって、よく似合ってます」
 のぼせ上がりかけた私の耳元で、愛用していた香水を言い当てると、彼女はそのまま含み笑いで席を立って、おやすみなさいと立ち去って行きました。それっきりです。
 世の中の流れに合わせて、紫煙はすっかり晴れてしまいましたが、それでもあの店には今でも変わらず、小鳥みたいに物静かなお給さんがいて、低くて柔らかいソファーと木目のテーブルがあり、琥珀色の明かりが満ちています。私も変わらず、私によく似合うシャネルの香水を肌に忍ばせ、酸味の爽やかなコーヒーを飲みに行きます。いつか、彼女を指して「それっきりです」なんて口にしたことを、撤回できれば嬉しく思うのですけれど。

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