勉強について考えていること、雑感

子すずめは学校法人角川ドワンゴ学園N高等学校の通学コース生でこの春高校2年生になりました。2022年4月からN高オンリーです。

通信制高校に子が所属している保護者のSNSなどを見ると、「勉強」の定義が私が考えるものとは違うんだなあと感じることがしばしばです。

勉強の定義ー

あ、私も子すずめも「勉強」大好きです、「勉強」の定義が「自分が知らなかったことを知ること」であるならば。「知らなかったことを知る」とか「普段気づいてなかったけれど、そのことの価値を再確認する」ことってワクワクしませんか?

家の中の居間のごみ箱の位置が悪くて、そのごみ箱に何度も足を取られて躓くーもしかしてごみ箱の定位置が違うんじゃない?と思い至る…ことも、私の定義では「勉強」なんです。「勉強」の定義がゆるゆるなんです。

そのmy定義に則って勉強大好き!というと、珍獣を見るような目で見られることも多いし、その心持ちを羨ましいと言われることも多いのですが。でも、そういう勉強大好き人間が陥りやすい罠ってのもありまして、知識を得ること自体を楽しんでいるため、「知識を定着させる」とか「知識を自分の血肉にする」ことが…ものすごく雑です。学ぶの大好きなので、何か新たな知識を得た後は、学んだ気になって満足しちゃって終わり。たとえ話するならば、食べ放題の店に行って食い散らかして満足しているだけの客みたいな感じ。たくさん学ぶことが大事、たくさん学びたいという欲望に突き動かされているけれど、その学んだことを深める時間をあまり取っていないな…という自覚があります。たくさん学んでるつもりだけど、実質は…たくさんの中から漏れ出て忘れ去られるものも多い。時間経過とともに「学んだ瞬間の感動」は薄れていきますし。実は効率悪い勉強の仕方してるんだよなあ…

私も子すずめも気づいているのですが、「蓄えた知識を活用できる人の方がすごい!応用できる人はもっとすごい!」。美味しそうなご馳走(面白そうな知識)を食い散らかすだけではなく、臓腑の中に取り込んで自分の細胞に作り替えるという実践をしている人のほうが、かっけー!私も子すずめも、面白そうなことを見つけて飛び込む反応スピードは速めなのかもしれないけれど、その「面白そうなこと」を味わう過程が雑なのと、「面白そうなこと」を突き詰める時間が不足気味なので、「知識を自らの血肉としている人」には憧れます。

「自分が知らなかったことを知る」とか「普段気づいてなかったけれど、そのことの価値を再確認する」については、N高の通学コースは子すずめにとってドキドキワクワクを提供してくれる「良い場所」だとは感じています。ですが、ドキドキワクワクの刺激だけ多くて、そのドキドキワクワクをもっと掘り下げる機会があるのか?掘り下げる際にメンターさんやTAさんは適切に助言相談に応じてくれているのか?そもそもドキドキワクワクを深めるために没頭できる時間は十分にあるのか?そこらへんに関しては、少し不安です。いろんな魅力的なことを提示されたら、次々と目移りして何か一つに没頭することが難しくなってしまうから…。(競馬出走前の馬のように出走ゲートに入って、他の馬の動向が見えないように、前だけを向くことに集中できるようにしないと、意識が散漫になるんじゃないの?と思ってる…子を馬のように例えるのも酷い話だけど)

個人的には、ドキドキワクワクを深めるには、[一定期間、没頭して、継続的に、取り組む]必要があると感じていて、その都度都度相談にのったり助言をしてくれたりする人に並走してもらうのがよい手立てだと思っているのですが、通信制高校に限らず、現代の若者を取り巻く[刺激が多くて目移りしがちな環境]の中で、どれだけそういう取り組みができているんでしょうね。成人済みの中年の保護者であっても、デジタルデトックスが難しかったり、注意力散漫になってしまったり、楽しそうな刺激に振り回されているのに、子に対して偉そうなことは言えないよなあ…


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