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母の誕生日に思う

雪が積もった今年の2月7日。
今日は、母の誕生日だ。
母が亡くなって、もう何年にもなる。
母は59歳でこの世を去った。
私はその頃結婚をしていて、
息子が小学生になったばかりの頃だった。

母は岩のような人であり、
大福のような人だった。

(なんだそれ…。でも母を思ったら、このイメージが浮かんできた)

私は母の頑固で素直ではないところに
「だからお父さんも怒るんだよ!」といら立っていたし、
頑張りすぎるあまり、二度ガンに倒れた母に、
「そんなんじゃ、早く死んでしまうよ」と不安になった。
飾りっけがなくて、お化粧もしなくて、
いつもニコニコしていて、
他人様にペコペコと頭を下げている母に、
「そんなんじゃ、舐められてしまうってば」と
どこかで母をさげすむところもあった。

親のよくないところを子は受け継ぐようで、
シャイな母に似て、私も猛烈な恥ずかしがり屋な人間として育った。
母にだけは、「おはよう」さえ照れくさくて言えなかった。
日常会話もままならず、
いつも母にかける言葉はケンカ腰だった(なんと30代まで思春期男子のような態度を取っていた。だから息子には偉そうなことがいえない。いやむしろ息子にもこの態度……)。

岩タイプの母も、もちろん私にやわらかな甘い言葉をかけることはなく、
「ほんと、おめは、ろくでねごど!(ろくでなし・根性悪)」とよく言われていた。

だから大人になって、恋愛がうまくいかなかったとき、
仕事でなかなか認められないとき、
すぐ何かに傷ついて、被害者意識を持ってしまうとき、
自分の面倒くさい性格は、母が弟ばかりかわいがって、
私のことを否定するようなことばかり言ってきたからだ。
親が私を認めてくれなかったからだ、という考えにすがりついた。

弟の帰りは、ごはんを用意して寝ずに待つけれど、
私が帰宅が遅くなった時には、ごはんは片づけられているし、
もちろん先に寝ている。
「ごはん用意してるとおもったのに!」と
悪態をつく私に、母が
「いい年して、自分でやれ!」と言ってきた記憶を引っ張り出して、
ほれ、私はこんなにひどい目にあわされたんだ…と
たまに友達に愚痴っては、自分の境遇と自分の性格の悪さに導いた過去を嘆いていた。

母がなくなった年、母方の祖母、つまり母の母が亡くなった。
自宅での長い闘病生活を一人で乗り切ってきた心丈夫な祖母だったが、
静かに力が尽きていき、入院した。
母は自分の母に付きっ切りだった。
私と母の関係は、恥ずかしがり屋同士のバチバチしたものだったが、
どんなときも朗らかでユーモアを忘れない気概のある祖母と母はとても仲良しで、母はよく実家に顔を出して、ふたりでお茶を飲みながらコロコロと笑っていた。
お母さんておばあちゃんのことが大好きなんだな、
お母さんの急所はおばあちゃんと弟だ…と、子ども心に感じていた。

私も祖母が大好きだったが、祖母がついに入院したと聞いて、母のことが心配で心配でたまらなくなった。
母が大切な人を失くしてしまう。

当時の私は、睡眠不足で二度気を失って倒れたくらい仕事で多忙を極めていたが、とにかく何度も祖母が入院する病院に通った。

私はいろいろあって母方の親族にあまり評判がよくなかったけれど、
名誉挽回とばかりに、祖母のそばにいて、母の手伝いをして、
時折腰痛の酷い母のマッサージをした。
もちろん祖母のためでもあったけれど、そのときの私の心の中に浮かんでいたのは、こんな気持ちだった。

やっとお母さんに、優しくできる

自分でも、この感覚に思い当たったとき、とても不思議だった。
あれだけ反抗していたのに、私はお母さんに優しくする機会を
千載一遇のチャンスとばかりに、待っていたようなのだ。

正々堂々と、甘い言葉をかけることなんて、どうしてもできない。
でも、母が人生のピンチの今なら、母が大切に思う祖母のために尽くすことが、母にとっても何より嬉しいことだろう、と思った。

祖母には本当に申し訳ないことだし、不謹慎だなとも思ったけど、
祖母は孫が娘を思ってやることなら、きっと何でも許してくれるだろうとも考えた。

ああ、私、母に本当は優しくしたかったんだな。
でも、優しい弟に優しくされた方が母は嬉しいと思って、優しくしたい気持ちを別なものに変えてしまっていたのかもしれないなと思った。

祖母は安らかに眠った。
岩のような強い母が、タオルで汗を拭くように見せて涙をふく姿がたまなかった。
でもきっと母は見送れたこと、祖母が立派に逝ったことに満足していたに違いない。私の存在もほんの少し母の支えになったかもしれない。

そう思った矢先、母が患っていた腰痛がいよいよひどくなり、
何度も病院で検査していると聞いた。

母は祖母と同じ、すい臓がんだった。

まだ祖母がなくなって2カ月もたっていない。

父から電話があった。
すい臓がんで末期。
「助かる見込みはないどや」。
息が止まった。
息が止まりそうという表現はしたことがあるが、
本当に呼吸ができなくなった。
気管を通る空気も、異質なものが流れ込んできているように思えた。
腕の一本がなくなったような、リアリティのある痛みを感じた。

持っている企画を友人たちが引き継いだり、サポートしてくれたりして、
私はほぼ毎日、バスで2時間かけて母の病院に通った。
母は、主治医に余命を宣告された日、
なんとか頑張って生きてみたいと言った。
私が、心もとない気持ちになり、
今日は一緒に泊まろうか?といったけれど、母は
「大丈夫だ。●●(息子)待ってっからかえってやれ」と、
相変わらず孫を心配していた。

強いなと思った。その強さに泣けた。
母はすい臓がんによる脳梗塞も起こし、
体も不自由になっていたが、毎日休まずリハビリも頑張った。

しかし、すい臓がんは恐ろしいもので、
すさまじい激痛を引き起こし、起き上がれなくなった。
どんなに強い麻酔も効かなくなり、時に絶叫するほど母は痛みに苦しんだ。
母は一度も仕事を病欠したことがなく、
一度も台所仕事をさぼったことがなかった。
岩のように強かった。

その母が、私を呼んで、何を言うかと思ったら
「もういいから、殺してくれ」と言った。

正直いうと、母の地を這うような絶叫からも
「殺してほしい」という声からも逃げたかった。

しかし、私が不在にすると、母は「●●(私)は?」と聞くのだそうだ。
母が愛する我が弟にも、姪っ子にも、
お見舞いにきた人に聞くのは、
私がどこにいったのかということだけ。

不思議だった。
弟じゃなくて私なのか?
あんなに弟のこと可愛がってたのにな。

母のそばにいることを決めた。
時に、苦しむ母の姿に耐えられなくなり病院に来なくなった父とケンカもした。

そして、お見舞いにくる人には極力よい娘として振舞った。
母がいい娘に育てたなと思われたら嬉しいだろうなと思った。
(繰り返しになるが、私は母方の親戚の中ではあまり評判がよくなかった)

あっという間に最期の瞬間はくる。
一度自宅へ帰った日、帰宅と同時に、
母が危篤、私の名前を呼んでいると連絡があった。
すぐに病院に戻ると、たちまち母がなくなった。
息をすーーーーーっと吐き出したその瞬間、
母の耳元で弟と一緒に、「お母さんありがとう、ありがとう」
と伝えた。
病室のはじっこで、息子が「こわいーこわいー」と泣き叫んでいた。

岩みたいな強い母は、
素直に私に愛情の言葉を伝えてくることはなかった。
その代わり、命の間際に私の名前を呼び続けた。
恥ずかしがり屋で頑固な母の精一杯の表現だったのかもしれない。


とあるカウンセリング中、
ふと何かこみ上げるものを感じて、涙が止まらなくなったことがある。
それは、

「お母さん大好き」

という感情だった。

私はこんな単純な一言がずーっと言えなかった。
母の死後7年、
幼い頃から、なぜだか抑えこんで、心の奥底に重しをつけて沈ませていた気持ちが、やっと出てきた。

最近、布団乾燥機というものを買った。
布団があったかくてふかふかして、とても気持ちが良い。

母はよく休日の晴れた日に、
「今日布団ほしてやったがらな。ほらふかふかだどー。気持ちいいべ」と
干した布団を敷いてくれていた。

私は今、息子のベッドに布団乾燥機をかける。

日常の母に思いを馳せると、母が向けてくれた気持ちが
いろんなところにあったことに今更気づく。

ところで母は岩のような人でもあるが、
大福みたいな人でもある。
白くて丸くて、素朴で、肌がしっとりすべすべで
笑顔がとても柔らかい人だった。
そんな母が今はとても誇らしいです。
お母さん、誕生日おめでとう。






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