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文化的景観の意義と課題―柴又を例にとって

文責:魚の理


 文化的景観とは、文化財保護法第二条第1項第五号の定義によると、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」である。端的に言えば、我々にとって身近であり、生活に不可欠な景観を指す。

 文化的景観が成立した背景には内的要因と外的要因がある。まず、内的要因としては斜面地農業が生み出した棚田や段々畑の風景が失われることへの危機感がある。1970年代に進んだ米の生産調整や地方の過疎化・高齢化により耕作放棄地が増加し、多くの田畑が荒廃の一途を辿った。棚田は等高線に沿って形成された独特の風景が魅力的だが、耕作地としての役割を終えてしまえば、荒れ果てた光景に様変わりする。そこで、まず棚田の保全という側面で、国や地域の景観保護政策が講じられるようになった。

 次に外的要因としては、世界遺産におけるCultural Landscapeの重視がある。本中眞は、世界遺産条約やラムサール条約が制定された1970年代に「保護された景観(Protected Landscape)」の概念が成立し、世界自然遺産の選定に自然保護の観点が取り入れられたことが文化的景観の成立に寄与したと指摘している(本中 2009)。実際、1992年の世界遺産委員会で「文化的景観(Cultural Landscape)」は世界遺産条約第1条の「自然と人間の複合的な作品」を代表するものとして世界遺産の選定基準に加えられた。

 世界的な注目が集まる一方、日本の歩みは遅かった。1975年の文化財保護法改正では伝統的建造物群保存地区(伝建)制度が定められたが、肝心の景観に関する法整備は地方自治体によって景観条例が制定される程度であった。文化的景観が公式に認められるのは2004年の文化財保護法改正まで待たねばならなかった。

 文化的景観の政策的特徴は、文化財保護法に限らず、諸制度を組み合わせながら保護が進められている点にある。例えば、文化庁は特に重要度の高い景観を「重要文化的景観」として選定しているが、その基準となるのは景観法に基づく景観計画区域又は景観地区の中にあること、文化的景観保存活用計画を定めていること、景観法やその他の法律に基づく条例で保存のために必要な規制を定めていること、文化的景観の所有者又は権原に基づく占有者の氏名・名称と住所を把握していることである(文化庁 2024)。とはいえ、保護政策の実現にあたって課題となるのは、文化的景観の役割を地域に共有することである。

 葛飾柴又の文化的景観は東京都葛飾区柴又に存在する重要文化的景観である。映画「男はつらいよ」 の舞台となった柴又は帝釈天題経寺を中心に江戸時代の下町情緒を残す門前町の街並みが有名であるが、他にも柴又用水や矢切の渡しといった農村の痕跡を現在に伝える役割を果たしている。

 重要文化的景観はこれまで地方を中心に選定されており、東京都内の柴又が選定されたのは異例中の異例である。その背景としては寺社や参道が観光資源となる一方で宅地化の進展により古風な景観が損なわれることへの危機感があった。最近は月島や清澄白河のような下町の街並みが残るエリアでタワーマンションが乱立し、古き良き街並みが失われつつある。その中で、柴又の住民は景観保護に対して高い意識を持っていたようである。

 大迫和己によると、柴又のまちづくりが始まったきっかけは昭和63年頃に生じた帝釈天題経寺の周辺にマンションを整備する計画であったが、街のランドマークの近くに高層マンションが建つことを拒否した住民は周辺の建物の高さを10mに制限する紳士協定を結ぶことで、古風な景観が守られた(大迫 2019)。他方で、柴又と千葉県を結ぶ矢切の渡しは江戸川の架橋により廃止の危機に瀕したが、映画「男はつらいよ」の人気で観光資源へと変化したことにより、現在でも運航されている。つまり、柴又は住民の景観保護に対する高い意識と映画の波及効果によってもたらされた観光資源化により、重要文化的景観の保護が成功したと言える。

 ただし、柴又における重要文化的景観の保護には、避けて通れない難題が待ち構えているように思われる。それは 「火災」 である。東京都が30年以内に70%の確率で生じるとされる首都直下地震の被害想定を推計したところ、葛飾区は東京23区内で最も死者数が多く、とりわけ建物の火災や倒壊が非常に多いという結果が出た(葛飾区 2010)。 特に火気器具の使用頻度が高い18時においては焼失面積割合が荒川区に次いで多く、その際に懸念されるのは木造建築の焼失である。葛飾区を含む城東地域は都内でも有数の木造建築密集地帯であり、関東大震災においても火災旋風が生じていた。当時葛飾区は農村地帯で被害は軽かったようだが、宅地化が進み観光資源が豊富な現代では災害のリスクが決して低いとは言い難い。

 無論、柴又が災害対策を施していないわけではない。毎年1月26日には「文化財防火デー」に合わせて帝釈天やその参道で防火訓練が行われている。 ただ、荒井美紀によると、参道内における建物の57%以上が旧耐震基準に基づいて設計されており、構造改修もほとんど行われていないままである(荒井 2011)。このように根本的な防火対策が取られていない現状において、柴又の景観は急な災害によって容易く失われてしまう恐れがある。

 火災に強い文化的景観を維持するためには建物の耐火性を上げることが重要である。東京都は大地震で重大な被害が予測される木造住宅密集市街地を「不燃化特区」に指定する 「木密地域不燃化10年プロジェクト」を実施している(東京都 2012)。具体的な取り組みとしては①耐火建築への建て替え、②延焼遮断帯を形成する都市計画道路の整備、③地域における防火まちづくりの働きかけの3点が挙げられる。このうち区画整理は非現実的であるために②はありえないが、①と③は不可能ではないと考えられる。③は現状でも行われているが、①は徹底されていないままである。例えば、修復工事において不燃性・難燃性のある木材を使用したり、 建物内の防火性能を向上させることによって火災による被害は軽減されると思われる。

 重要文化的景観の保護は文化財保護を担う部局だけでなく、都市計画や景観計画を司る部局と密接に関わっている。それを逆手にとって文化財保護に必要な資源を複数のアクターに分散させていくことが可能である。 柴又を契機に、文化的景観に対して包括的な防火対策が進められることを期待したい。

参考文献

本中眞(2009)「国内外の文化的景観に関する最近の動向」『ランドスケープ研究』73巻1号 pp.6-9.
文化庁(2024)「文化的景観の保護のしくみ」
荒井美紀(2011)「木造の街並みの保全と法制度の関係に関する研究―柴又帝釈天参道への保全手法の提案を例として―」『芝浦工業大学システム理工学部環境システム学科梗概集』第18巻
大迫和己(2019)「重要文化的景観における生業の実態に関する研究:「葛飾柴又の文化的景観」を対象として」『法政大学大学院デザイン工学研究科紀要』第8巻 pp.1-8.
葛飾区(2010)「東京直下型地震発生時の葛飾区周辺の被害想定」
東京都(2012)「「木密地域不燃化10年プロジェクト」実施方針」

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