20年前のワイタンギ・デー当日のワイタンギ訪問=英語にまつわるお話(その10)=
「みんなイングランドが育てた」
「英語にまつわるお話(その9)」で、「みんなイングランドが育てた」と書きました。これはまぁレトリックのつもりなのですが、それって言い過ぎじゃないのと思うところがないわけではないので、ニュージーランドのワイタンギ・デーのお話をします。
アロテアロア・ニュージーランドのワイタンギ・デー
4日過ぎてしまいましたが、2月6日は、ワイタンギ条約が結ばれたアロテアロア・ニュージーランドのワイタンギ・デーです。
ワイタンギ・デーとは、1840年2月6日、アオテアロア・ニュージーランドの創立文書と見なされているワイタンギ条約の署名がおこなわれた日です。けれどもこれを「建国記念日」と訳すのは不正確ではないかと思います。
ワイタンギ・デーはワイタンギ・デーであって、一時期、ニュージーランド・デーとなりましたが、すぐにやめて、ワイタンギ・デーに戻りました。それは、ワイタンギ・デー自身が解釈と論争の的であり続けているという歴史を持っているからです。1840年以来、1934年までワイタンギ・デーが祝われることはなく、1974年にようやく国民の祝日となったことの遠因でもあります。
20年前のワイタンギ訪問
ちょうど20年前、アロテアロア・ニュージーランドで2度目の海外研修中だった私は、ワイタンギ・デーである2月6日にワイタンギを訪れる計画を立てていました。
それを知り合いのマオリに話すと、彼のパートナーが「ワイタンギ・デーにワイタンギに行ったって何も学ぶものはないんじゃないかな」と言われたことを覚えています。彼女がワイタンギを訪れたのは、1990年のときのことで、抗議(プロテスト)に出かけたと言っていました。当時の時代認識は、プロテストだけではダメだというのが彼らの基本姿勢のようでしたが、ワイタンギに出かけていくマオリはプロテストするグループが多かったのです。それ以来、彼女はワイタンギには行っていないということでした。
そもそもワイタンギ条約に書かれていることと現実とのギャップに悩んでいるマオリは、ワイタンギ条約なんて嘘っぱちだと言います。ところが、社会運動の盛り上がりに合わせて、そうではない、ワイタンギ条約の精神にもとづいて、現実を変革していくのだと考え方を大きく変えてきているといいます。だから彼らの基本姿勢としては、ワイタンギを祝うのがワイタンギ・デーとなるわけです。
ワイタンギ・デーには、ワイタンギに行かずとも、例えばオークランドならオカファ湾(Okafa Bay)に、ハミルトンならハミルトン湖(Lake Rotoroa)に行けば、当日は、各地で、ワイタンギ・デーを祝うための集会が催され、大勢のマオリが集まるといいます。その知り合いのマオリも、ワイタンギ・デー当日には、仕事半分で、ハミルトン湖(ロトロア)に行くことになっていました。
それでも、私のように全くワイタンギ・デーを経験したことのない日本人が、ワイタンギ・デー当日にワイタンギに行くことも全く無駄でもないだろうと考えました。
それともう一つ。
全くの偶然ですが、当時、日本で大学生だった娘が1年だけヴィクトリア大学に留学することになり、ワイタンギ・デーの2日前にオークランド空港に到着することになっていました。ハミルトンからオークランド空港まで車で出迎え、娘を乗せてそのままワイタンギを目指してベイオブアイランズ経由で北上し、ワイタンギ・デー当日に一緒にワイタンギを訪れ、その後、ウェリントンまで南下して大学の寮に娘を送るのはどうかと考えたわけです。
ワイタンギ・デーが近いことをテレビが伝えている
ワイタンギ・デーが近づくにつれて、昨日の朝、TVNZのブレックファースト(Breakfast)という番組で、またワイタンギのことを報道していました。
ニュージーランドは、二つの文化が共存しえるのかという実験をしているような国。英語では文化という単語の culture は普通、複数形にはならないけれど、1個1個、別の文化となれば、これは数えられる名詞となります。この番組でも、"two cultures to coexist" と言っています。「共存する二つの別の文化」ということでしょう。もちろん、これはヨーロッパ系白人(主にイングランド人)とマオリのことを指しているわけです。
ところで、キーウィ(ニュージーランド人)は、白人とマオリの対立問題に飽き飽きしているようで、ワイタンギ・デーをめぐって、あれこれ議論を続けるのは、時間と金の無駄だという意見があります。この意見は多少消極的と言えますが賛成する人も多いでしょうと、男性番組司会者がコメントしています。また、多くの人が、ワイタンギ・デーをニュージーランド・デーと、名称を変えることを望んでいると続けます。繰り返しになりますが、ワイタンギ・デーは一時期、ニュージーランド・デーと名称を変更した時期がありましたが、1年ほどで、再度ワイタンギ・デーに戻った歴史的経緯があるのです。ワイタンギ・デーそのものの評価が、歴史的に変化しているというわけです。
ですから、日本語のサイトでワイタンギ・デーを、日本の「建国記念日のようなもの」とか、「憲法記念日」のようなものというコメントをインターネットで眼にしたことがありますが、これは全く的を射ていません。
TVNZのブレックファーストを続けて見ていたら、クローディア・オレンジ(Claudia Orange)氏がゲストとして登場しました。彼女の著作「ワイタンギ条約」は、マオリの基本文献のひとつですから当然私も持っていますが、彼女の顔を拝見するのは初めてのことでした。
彼女は、ワイタンギ・デーは、ニュージーランド・デーと名前を変えずに、そのままでよい。それは、歴史を踏まえた名称であるからだと明確に答えておりました。インタビューはさらに続いて、メディア報道では、プロテストばかりが目立つが、実際のワイタンギではそんなこともない。子どもたちは楽しく遊んでいるし、伝統的なワカ(カヌー)に乗ったりと、ワイタンギ・デーは、プロテストだけじゃなくて、たくさんの人々が楽しんで祝っている。彼女自身は毎年ワイタンギを訪問していると氏は続けます。1970年代、マラエ(マオリの集会所)で議論が盛んに行われたが、自分達の国はユニークな国なのだ。二つの文化の共存を求めた自分達の努力と実際の進歩を祝うべきだと、クローディア・オレンジ氏は強調していました。
ニュージーランドの1チャンネルの政治的立場は、極めて穏健なものです。日本のメディアは、まともな知識人や研究者を積極的に活用しないと以前から不満に感じていましたが、ニュージーランドのテレビを見ていて、ますますその感を強くします。大変残念なことにとあえて書きますが、まっとうな知識人や研究者をきちんと使わないという点において、日本のメディアのレベルはけっして高くはありません。
マオリらしくありたいと主張するデモ
少し小雨がぱらついてきました。
橋を渡って、マオリのアクセサリーを売っている通りの露天商に、ワイタンギ条約について聞いてみると、「1835年の独立宣言が重要で、1840年のワイタンギ条約は、それとは別に考えないといけない」と、この露天商のマオリ男性はワイタンギ条約について無関心でも無知でもありませんでした。
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道路を行進するマオリのデモ行進の隊列は、結構の人数で、まさに老若男女という構成で、子どもや十代の若者も少なくありません。空には数多くのマオリ党の旗が風にたなびいています。垂れ幕には、"MAORITANGA Est in AOTEAROA since 950 B.C. (BEFORE COOK)" とあり、「紀元前950年」かどうかは浅学で知りませんが、クックの到着以前、アオテアロアがアオテアロアであったことは間違いありません。
横断幕にあるMaoritanga(マオリタンガ)とは、マオリ語で「マオリの文化・伝統・アイデンティティ」を意味する言葉で、英語なら Maoriness や Māori culture に相当します。ですから "Maoritanga" とは「マオリであること」や「マオリらしさ」ということでしょう。自己アイデンティティ屋自己肯定感が大切であることは言うまでもありません。
デモ行進の前面に、女性が一段高いところからメガホンをもって隊列に向かって演説を始めました。
英語圏の人間にしても、マオリにしても、演説を重要視している文化であることに変わりはなく、家族間の情報交換にしても、町中での挨拶にしても、口頭によるスピーチをものすごく大切にしています。だから、優れた演説家も育つのでしょう。
大変残念なことに、最近の日本は、いい聴衆が少なくなってしまいました。だから、よい演説家が育ちません。よい政治家が育たないのも、よい落語家が育たないのもそのせいでしょう。高いレベルの話術は、高いレベルの聞き手の存在が大前提になります。日本における聞かせる文化の衰退は、嘆かわしい限りです。
デモ隊列の中のマオリ男性が、沿道の見物人に対して、「見ていないで一緒に行進に参加して下さい」と訴えていました。「ヒーコイ」(行進しよう)とか、「タヒ・ルア・トル・ファー」(1、2、3、4)というマオリ語の掛け声に合わせて、デモ隊の隊列は、ワイタンギの広場へと向かいます。マオリのシュプレヒコールは、ラップのノリのようです。
新聞記者からインタビューを受ける
ワイタンギの広場には、白い制服に身を包んだ海軍の兵隊たちも来ていました。
広場の木陰で雨宿りをしていると、近くでマオリの男性が同じく雨宿りをしていたので話しかけてみると、彼は私と同じくハミルトン在住で、毎年ワイタンギに来ているといいます。ワイタンギ・デーをニュージーランド・デーにしようという動きがあるがどうかと質問してみたら、そうした動きがあるけれど、そうはいかない。これはワイタンギ・デーなのだと、彼は強調しました。
木陰で雨宿りをしながら、彼と話をしていると、ニュージーランドヘラルド(New Zealand Herald) 新聞の記者がインタビューしたいと、娘と私に話しかけてきました。
アオテアロアとニュージーランドというキーワードで、この記者に答えながら、日本のアイヌ民族の話も加えて、日本の先住民族と比べたら、マオリ語が1987年に公用語化をかちとったことひとつとってみても、マオリの前進はすばらしいと私が意見を述べると、ニュージーランドの歴史をよくご存知ですねと評価されながらも、記者は、ワイタンギ・デーの雰囲気はどうですかと、しきりに聞いてきます。2時間前に来たばかりで何も見ていないのでコメントできないと断りながら、テレビで見たのだが、銃で抗議をするマオリに対して取り締まらないのかという議論が議会であったけれど、ワイタンギ・デーそのものは、過激という感じはしないと述べました。
続いて、娘もこの記者にインタビューされることとなりました。
記者に聞いたのですが、白い制服を着た海軍は、白人側の代表の役割ということのようです。白人とマオリの両方にとってのワイタンギ・デーだから、イベントとしては、両者がそろわなければ、役不足になってしまうということなのでしょう。
祭りとしてのワイタンギ・デー
クローディア・オレンジ氏がテレビで言っていたように、ワイタンギ・デーは、祭り的な要素も強いところがあります。
模擬店ですが、マッスルを鉄鍋で炒めている店があります。ガーリックのいい香りに食欲がそそられます。8ドルで8個、10ドルで15個と品書きにあります。当然10ドルで15個の方にします。
いつもは、ワカ(カヌー)が置いてあるカヌーハウス(Canoe House)で、コンサートをやっていました。パイヒアの町でも見たアコースティックバンドが偶然にもまた演奏しているところに遭遇しました。
いろいろなバンドが入れ代わり立ち代わり登場しますが、海兵隊ブラスバンドも、ビーチボーイズの「サーフィンUSA」を皮切りに、なかなかの演奏をしています。マオリの人たちもこの演奏に対して大きな拍手を送っていました。
マオリ女性のバンドで、「上を向いて歩こう」を演奏し始めたのですが、歌詞は、「マオリ党を支持して、一票を入れよう」(Vote for the Māori party)と、替え歌として歌っていたのには笑ってしまいました。
この歌詞に安保闘争の挫折も込めた永六輔氏はどのような感想を持つでしょうか。
橋から飛び降りて遊ぶマオリの子どもたち
ワイタンギ・デーの帰り道、マオリの子どもたちが、橋から水に飛び降りて遊んでいるのを見かける。昔の日本もこんな感じの素朴な遊びが主流だったと、橋から飛び降りるために順番を待って長い列をつくっているマオリの子どもたちの明るい笑顔をみながら、そう思ったものです。