見出し画像

まぁ最近は横文字が謳歌しており、やたらとビジネス用語を難しい専門用語や英語系にしたいみたいですが、パブリックマインドとは、社会的課題への活動への関心とでも翻訳できるでしょうか。

つまり、世の為、人の為、社会の為にというのでしょうか、三方良しというのでしょうか、利他に生きようとでも言うのでしょうか。こうやって書くとキレイごとにように見えるのだが、仕事というのは社会の役に立つことが前提となっていることは日本国民なら国民の三大義務となる「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」として理解しているだろう。近年ではこれらに意を唱える議論もあるようだが、議論はどんどん活発に行ってもらいたい、そうすれば選挙投票率も向上するだろう。

さて、コラムではホワイトカラー又はブルシッドジョブ、ブルーカラーなど、資本主義を中心とした経済論調を少し話して来ました。中でもコロナ禍の中で、特に医療・看護関係従事者のエッセンシャルワーカーと言われる人達には敬意を払うものです。また、あまり報道はされていませんが清掃業者の方々の活躍にも頭が下がる思いです。コロナ禍のおかげでタオルなどの洗いまわしする用具が少なくなり、紙ペーパーなどの利用が増える一方で、その分大量のゴミが発生しています。もしかしたら、そのゴミ等には感染症等の菌が含まれているかも知れません。それでも、毎回決められた回収は守られるし、周辺にまき散らさないよう衛生管理上においても徹底的に作業をしてくれます。そんな中でも、オリンピック開催、第四回目となる緊急事態宣言含めワクチン接種まで、本当に医療だけでなく切迫している事業などが毎日メディア等でも報道されているが、一向に感染者が減少していない理由に二十代からの若者達の関心度が低いと上げられている。

検査要領の向上や変異型ウィルスの猛威などで新たな感染者を生み出しているので、若者達だけに限定とは言わないまでも、日本国民一人の当事者であり自分だけでなく他の人への感染を防がなければ、また報道されているエッセンシャルワーカーの人々達の懸命な対応等を見ていれば、緊急事態宣言の意図や自分たちの行動等にも関心が持てると思うのだが。。。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」。。。のではなく、個人の価値観を持つ、そしてその価値観の意味と目的を考える大人に、社会人になって欲しい。とにもかくも社会的問題には関心を持ってもらいたい。意見を持ってもらいたい。疑問を持ってもらいたい。国民である以上、国の一大事な時に「無関心」ほど「無責任」なものは無い。オリンピックでは無いが、日の丸である国旗と君が代への敬意と誇りを感じ取ってもらいたい。

昔は高層マンション等が少なく一戸建てが中心に建っていた時代があったが、祝日ともなればどこの家でも国旗を掲げていたものである。現代でも官公庁をはじめ大企業や公立系の学校機関等では、国旗を掲げている光景を見るものだが、一般の住宅では殆ど見られなくなった。国旗ならまだしも、二十四節季の中でも桃の節句の「ひなまつり」、端午の節句の「こいのぼり」もめっぽう見かけなくなった。偶然にでも菖蒲の湯などは、旅館でも行かないと入れないだろう。二十四節気、七十二候くらいは、住宅を設計する従事者には少しでも関心を持ってもらいたいものだ。。。

2020東京オリンピックに参加してくる国々は決して先進国だけではない。発展途上国や後進国からも参加している。彼らは貧困の中から国を代表し、誇りを持って、国や家族の為に必至に這い上がって来ている。そのハングリー精神は競技を見ていても伝わって来るものだ。しかしながら、彼らが必ずしも今の現代社会のような資本主義大国を望んでいるわけではない。そこにパブリックマインドを持っているからだ、又は持とうとしている人がいるという事を忘れてはならない。一般人でも企業人であっても、それが「プロ」の眼であり仕事でもあるのだと誇りを持っているからだ。

パブリックマインドを持つという事は、リーダーとしての絶対条件と言っても過言ではないだろう。また、そういう人材がポストに就かなければならない。公益とは何なのか。自社はなんのためにあるのかという問いに不明瞭な言葉が返って来ては、恐らくこれからの時代の社員は離れて行くだろう。

企業としての意思表示やコミットかも知れないが、末端の社員であっても他人に喜ばれる仕事としてプロ意識があるならば、仕事を通して気持ちが世の中に繋がっているはずである。だからこそ、仕事以外のところでも関心が高くなるか又はアンテナが立つくらいはもてるのである。そういう意味合いでは、パブリックマインドを持たない又は持てない、無関心な上司や人は、仕事をする上ではプロとして失格と思われ、社会人としては属性が低いと言われるだろう。

そうは言っても資本主義経済のシステムというには、仕事する上での欲求レベルが高いものである。高級車や立派な住宅、豪華な旅行や食事など物質的な欲求価値を求める事が幸福感を満たすことが是としてある。ただし、そこにある裏側の原料や資材を調達している、後進国や発展途上国からの労働力の搾取と自然資源の収奪ナシに、その豊かな生活は不可能なのである。

「一例ではあるが、私たちが普段着ている先進国のファスト・ファッションの洋服を作っているのは劣悪な環境条件で働くバングラデシュの労働者であり、その原材料である綿花を栽培しているのは、40℃以上の酷暑の中で作業をしているインドの貧しい農民である。遺伝子組み換えの綿花、大量の化学肥料、除草剤も全て自費で購入しなければならない。干ばつや熱波で不作ともなれば農民たちは借金を抱えて自殺に追い込まれる事も少なくない」「先進国による帝国主義的な様式は、グローバル資本主義の構造的理由から、平常運転に依存されている」あくまでも一例ではあるが「人新世の「資本論」」(著者:斎藤幸平)で、これらの事由が多く紹介されている。

「フェアトレード」という製品があるが、労働者に適正な賃金が支払われることはもちろん、労働環境の改善、自然環境への配慮、地域社会・福祉への貢献、そして何よりも子どもの権利を守るという児童労働の撤廃が盛り込まれている。国内外問わず一流企業のファストファッションを含めたいが、安価な製品のしくみは、こういった発展途上国や後進国の生産国名になっているはずだ。。。SDGsが踏み絵にならないよう少しづつでも前進してもらいたい。グリーンラベルを選定するだけでも、関心の一歩になるだろう。少なくとも決して無関心にならないようにしたいものだ。

SDGsの観点からなのか日本企業も海外で訴訟等を抱えているようだが、少なくとも環境倫理観はじめ経済の在り方に「地球」が1つしかないということ、人類の活動が地球のキャパを超えていることは動かぬものであることを知っておこう。そういった環境からも我々の年代では、経済の発展こそが環境問題の解決に繋がるなど、道理に反するとは言わないまでも表面的なことしか教えられていなかった。しかしながら、現代の義務教育過程ではSDGsなどを小学生の頃から学習しているのである。時代は明らかに変わっているのである。

既に2025年には空飛ぶ車社会になると言われており、そのルール作りやしくみなどが各国で協議されている。ガソリン車と比較して環境に良いとのことらしいが、いずれにせよ何らかの動力に依存する事になるので、その動力源は間違いなく一次エネルギーであり化石燃料の変わる膨大なエネルギーである。これらを生み出すには、再生エネルギーでは追い付けないことは確かである。しかもデジタル社会の中枢になるのは、既にAI自動化になることも必至で、これは拡張し続ける経済活動と生産力至上主義であることの象徴であることは明白である。

政治的な話はさておいて、パブリックマインドを持つことの意義を、この地球で持続可能な社会の実現に向けて、我々の子孫へ何を残して行くか少し考える時間の余裕を持っても良いのではなかろうか。オリンピック開催の裏側で、先進国である日本のおもてなしが絶賛を受けている中で、情報スピードの早さや時間の余裕のなさ、張りつめられた仕事中心の社会に驚いていた模様も映し出されていた。

2100年に地球に暮らしている人は、もう生まれているのである。

20210809