非経済的な妻
私の妻は着なくなった服をメルカリで売るよりも知っている人にあげることを好む。その人の体形や普段のセンスを知ったうえでサイズが合い、なおかつ似合いそうな知り合いにあげるのだ。もちろんクリーニングを終えたもので、着用回数が少ないものだ。
先日も一つのスーツを知り合いの社会人3年目の娘さんにあげていた。
そのスーツは5年前に結構な値段で買ったものの、なぜかトータルで5回程しか着るタイミングがなく、その服が似合う年齢も過ぎてしまった。
結局そのままクローゼットの中に塩漬けになっていたものだ。
先日スーツをあげた娘さんから妻の携帯にLINEが送られてきた。
姿見鏡に全身を写した写真と一緒に
「スーツのサイズはぴったりでした。親も喜んでいます。ありがとうございました!」(本当はもっと顔文字が加えられていて、「まぶしい」文章なのだが)
というメッセージが添えられていた。
妻はこのメッセージをとても喜んでいた。
わたしはこの一連の流れを見て何か教えられた気がした。
「経済活動」としての妻の行動は完全に「非経済的」だ。
クローゼットの中にある邪魔者をお金に換えるチャンスを棒に振ったのだ。
しかしこの一連の行動に対する妻の満足度はとても高い。
妻はよく人にものをあげるとき「喜んでくれるかなぁ。似合うといいなぁ」と口にする。相手がこちらの「こう使ってほしい」という気持ちに応えてくれた時にその満足度はピークを迎える。通常ピークを迎えた満足度は下がる一方なのだが、今回の満足度の下降の角度は浅いと思う。その人が喜んで受け取ってくれたことは転じてその商品を使うその人をイメージするからだ。
メルカリはあくまでフリーマーケットであって、その場で物品のやり取りが成立すればそれでおしまい。服の取引では場合によっては裁縫や洋裁が趣味で服の生地が目当てで服を購入する人もいる。(以前出品したウェディングドレスは生地を目的に購入していった人だった)
もちろんお金をもらっているし、お金を払っているので双方確かに「WIN WIN」の関係ではあるのだけれども、売り手側に「このように使ってほしいな」という願いがあることをこちら側が理解した上でこれからは取引したいと思った。
それはメルカリに限らず、どんな商品でもそうだ。
商品の「作り手・売り手」がいて「買い手」がいる。
それぞれに思いはあるのだけれどもお互いの思いがマッチして取引ができれば幸せなのではないだろうか。
買い手側の「こうやって使いたい」という願いがあるのも良くわかる。
「お金を出して買っているのだからこの後この商品をどのように使おうと勝手ではないか」という声が聞こえてきそうだ。確かにその通りだし、その思い、考え方を否定しない。自分もそうだからだ。
作り手の想定していた使い方ではない使い方の方が便利が良いという例も少なくない。食器乾燥機をプラモデルの乾燥ブースとして使ったり、バナナをつるしておくハンガーがヘッドホン掛けになったり。
それはそれでいい傾向なのだが、モノや商品には本来の目的があり、作り手の思いが込められていることも忘れちゃいかんのだと思う。