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株式市場はどこから生まれたのか?+独自検証


【動画】

【概要】
この動画では中世イタリアに端を発した株式市場の歴史を皮切りに、オランダでの最初の企業株発行やイングランドの国債発行、アジアの取引所誕生までの流れを概観し、現代へと繋がる金融制度の進化を解説しています。

【動画の結論・要点】(詳細は後述)

  • 株式市場は中世の融資・借金交換から出発。

  • 最初の企業株(オランダ東インド会社)や国債(イングランド)などの誕生が大きな転機。

  • コーヒーハウスや街路樹の下など、人々が集まる場が取引所の原型となった。

【動画の詳細】
中世ヨーロッパでは、商業が発展し始めた1300年代後半ごろ、イタリア(特にヴェネツィア)で金銭の貸し借りを仲介するブローカーのような存在が生まれました。彼らは板(スレート)を持ち歩いて取引情報を管理し、顧客に売買内容を伝える役割を担っていました。はじめは単純な商品の売買仲介でしたが、しだいに借金や債務の交換を扱うようになり、複雑化していきます。これは高金利・高リスクの貸付債権を手放したい貸し手と、長期低リスク債権を保有している貸し手が債権を交換できるように仲介する仕組みで、当時としては画期的な動きでした。

さらにヴェネツィアは、他国の債券や国債の売買にも携わるようになり、証券取引の先駆けとなります。その後、1602年にはオランダ東インド会社が設立され、個人投資家が同社の株式を購入できるようになりました。企業の株を一般の投資家が売買できるというシステムは、現代における株式取引の基礎を築いた重要な出来事です。

1688年にはヨーロッパで初めて株式同士をトレードする発想が生まれ、アムステルダムのマーケットで実践されました。当時の株式市場の状況を最初に系統的に記録した文献としては、ジョセフ・デ・ラ・ベガが著した『Confusion of Confusions』が知られています。この書籍は商人・株主・哲学者の対話形式で綴られており、市場の複雑さや投資における忍耐の重要性などが述べられています。

イングランドでは1693年に国債が発行され、イングランド銀行も誕生しました。多額の戦費をまかなうために国債を発行し、それらが証券取引の対象となったのです。1698年前後、ロンドンではブローカーがコーヒーハウスに集まり、株価や商品価格を掲示したリストをもとに取引を始めたのが、ロンドン証券取引所の起源だとされています。

アメリカでは1792年にニューヨークのウォール街で24人の証券ブローカーがボタンウッド協定(Buttonwood Agreement)を結んだのが、ニューヨーク証券取引所の始まりとなりました。シカモアの一種であるボタンウッドの木の下でわずか5種類の証券を取り扱っていたのが、今日の巨大な株式取引所につながっています。

アジアに目を向けると、インドのムンバイ(当時のボンベイ)では19世紀中期ごろから株式取引の場が設けられていました。最初はわずか数人のブローカーが街路樹であるバニヤンの木の下に集まり取引を行っていましたが、次第に規模が拡大していき、1875年にはボンベイ証券取引所(BSE)として正式に設立されました。

こうした世界各地の取引所の多くが、最初は木の下やコーヒーハウスなど人々が集まる場所で始まりました。現代のような電子的かつ大規模な取引インフラを備えるまでに至ったのは、金融制度の成熟と技術革新が何世紀にもわたり積み重なった結果です。日々膨大な取り引きが行われ、国際的な資本の流れを司る存在となった証券取引所ですが、その原点を振り返ると、意外にも人間同士の直接のやりとりが礎になっていることがわかります。こうした歴史の経緯を知ることで、金融機関や取引所がいかに社会と経済を形成・発展させてきたのかを理解でき、投資や市場取引のあり方をより深く考えるきっかけとなります。

【当サイト独自検証:事実確認&他専門家の見解との整合性】
まず、1300年代のイタリアで証券取引の原型となる行為が行われていた点については、多くの歴史学者や経済史の専門家も概ね同意しています。たとえば、イタリアにおける中世後期の金融活動は、ジョヴァンニ・アンドレア・バリアン(Giovanni Andrea Balian)などの研究を通じても確認されており、当時のヴェネツィアやフィレンツェでは国債や商業手形が活発に売買されていました。また、イタリア各地に存在した「カンビオ」(為替取引所)やブローカー的存在が、後の株式取引所のルーツの一つとなったというのは通説です。

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