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利上げによる金融破綻論のバカバカしさについて

はじめに

日銀総裁の交代に伴い、YCC(Yield Curve Control)が見直されつつある。YCCは、簡単に言ってしまえば日本国債(以下、特に指定しない場合、「国債」、「n年債」と記載しているときは全て日本国債を指す)を日銀が売買し、日銀が望ましいと考える長短の金利を実現することだ。これは、市場のリスクプレミアムを下げることで投資需要を喚起する、というのが目標であったが、7年ほど続けた現在、残念ながらその目標は達成されていない、というのは誰の目にも明らかだろう。そして、YCCの失敗に乗じて、利上げによる破綻論がにわかに注目を集めている。

利上げで破綻する?

財政破綻論者がよく引き合いに出すのは、利上げによるリスクだ。バリエーションはいくつかあるけれど、大まかに言えば

  1. 利上げにより国債価格が暴落するのだから、銀行が膨大な損失を計上し、また日銀は債務超過に陥ることで、金融パニックを引き起こす

  2. さらに、利上げにより利払い費用が増加することで、政府の財政的信任(あるいは中央銀行=日銀の信任)が疑われ、国債の応札者がいなくなり、国債は際限なく利率が上昇する。結果として予算通りの資金調達ができないことから、借り換えが円滑に行われず、猛烈な円安やインフレに襲われるか、政府はデフォルトを選択する

  3. 結論として、これらを発生させないために、財政規律を堅持し、増税によって財政黒字を目指すべきだ

というような議論の展開となっている。このような主張をする著名人として、例えば藤巻健史は典型的だし、加納裕三も似たような主張をしている。

「利上げによる破綻」はどんなときに発生するのか その1

まずはじめに、利上げによる銀行の破綻が起こりうるかを検証しよう。これを理解するためには、そもそも銀行はなんで国債を買うんだろうか、という点を理解しなければいけない。ざっくり言えば2つの目的があり、ひとつは貸出と受取のサイトを一致させることにある。例えば、いま筆者が10年の定期預金を預けた(銀行から見れば、「筆者から借り入れた」)とすると、10年後に銀行はいくらかの利息をつけて筆者に返済しなければならない。銀行は筆者から借り入れたおカネ(や他の預金者のおカネ)をどこかの会社に貸し出して、その利払いと、筆者に支払う利息の差額を利益とする。一方で、適当な貸出先がないならば、元本の償還が確実に見込める安全な投資先に投資することになる。つまり国債だ。こうした国債は、通常、会計上では満期保有目的債券として区分される。満期保有目的債券は時価評価しないので、会計上での損失は発生しない。よって、時価評価すると大赤字、というのはそもそも発生しえない仮定を置いていることになる。なお、藤巻健史は米系銀行では時価会計、と言っているが、IFRSでも満期保有目的債券は実効金利法による評価である。

もちろん例外はあり、満期保有目的債券を時価評価せざるを得ない場合というのは確かに存在する。その場合というのは、銀行がなにかの理由で巨額の預金引き出し要請に直面したときだ。

こうしたシナリオは、一時期世間を騒がせたSVB(シリコンバレー銀行、米)の破綻が良い例として参考になる。

SVBは、短期資金需要の多いスタートアップを顧客基盤としながら、MBS(Morgage Backed Security=不動産担保証券、住宅ローンを貸し出した金融機関が、これを証券化したもの)で運用していた。

しかし、金利上昇により、繰り上げ返済(借り換え需要)が止まり、MBSの支払いにより流入を予定していたキャッシュが調達できないまま、スタートアップからの資金需要に応えるために、満期保有目的債券であるMBSを時価で売却せざるを得なかった。

結果として、SVBは巨額の損失を計上して、取り付け騒ぎが起こり破綻した、というのがおおよその流れだ。

つまり、もし銀行の破綻を気にするなら、国債保有額の大きさだけで論じることはできず、貸出側がどのような構成になっているかも見なくてはいけない。

以上のことから、満期保有目的債券について、破綻論者たちのいう、時価評価による銀行の巨額損失発生というシナリオが発生するためには、まず、どこかの銀行が急激な資金需要超過に見舞われたことで、満期保有目的債券を時価で売却せざるを得なくなり(それが巨額の損失を計上したことで)、取り付け騒ぎが発生する、という想定をしなければいけない。

しかもその取り付け騒ぎは、日銀が「最後の貸し手」の機能を発揮するような偶発的なものではなく、経営責任を問われるような方針により生じる、つまりは銀行の経営者たちが、金利により受払のサイトを合わせられないような資産で、とんでもなく雑なリスクテイクをしているせいなんだ、と考えなければ辻褄が合わないが、破綻論者たちが、これを証明するような信頼できる資料―例えば銀行の開示資料や新聞記事など―を提示したことは、少なくとも筆者の知る限りでは一度もない。

一方で、日銀が利上げを望んだことにより、時価で国債を売却することで、日銀が債務超過に陥る蓋然性はかなりの程度存在する。しかしそれはおそらく大きな影響を及ぼさないだろう。もし、市場がパニックに陥り、国債市場で異常な利子率の上昇が観察されれば、日銀自身が国債の買い入れをはじめとした、金融安定化のための政策を行えるからだ。

満期保有目的債券の時価評価による損失は何を表しているのか

こうした満期保有目的債券の時価評価の損失は、もし損失が発生しないとすれば―これまで見てきたように、損失が発生する可能性はかなり低いが―何を表しているのだろうか。この答えは単純で、「過去に国債を買っていなければ、今得られた利益」、つまりは機会損失だ。

こうして見ると、破綻論者たちはかなりヘンなことを言っていることがわかる。つまり、「銀行の経営者たちがとんでもなく雑な経営をしているぞ」ということか、もしそうでないなら、「機会損失が信用不安を招くぞ」である。前者であれば具体的な例を出せ、ということになるし、後者がどのように信用不安につながるのかを理解するには、筆者には財政破綻論の教祖たちに対する信仰心が足りなさすぎる。

「利上げによる破綻」はどんなときに発生するのか その2

もうひとつ、銀行が国債を買う目的が存在する。それは長期的なキャピタルゲイン、あるいはインカムゲインを目的とした場合だ。いわゆるBuy & Hold型の投資である。満期保有目的債券との違いは、取得時点において、満期を待たず売却することを想定しているか否かだ。会計基準上、日本、IFRSともに、これらは時価評価することになっている。

ならば時価評価すれば巨額の損失が発生するのではないか?との疑問はもっともだ。もちろんその可能性はあるが、かなり低い。それは各銀行の開示資料から明らかだ。

例えば三井住友銀行ならば、その他有価証券として保有する国債の評価額は118,406億円、これに対してデュレーション(加重平均した回収期間)が2.6年と開示されている。現在のように10年債利回りが1%を割るような状況下では、修正デュレーション(金利への感応度、金利が1%変化したときに債券価格がどの程度変化するか)は、ほぼデュレーションと等しいと見なせるため、仮に日銀がハイペースでの利上げの必要性に駆られて、次の1年間で1%利上げしたなら、債券価格は1✕2.6=2.6%下落し、このときの損失額は3,078億円となる。かなりの額に見えるが、これは同社のtier1自己資本の約2.8%にすぎず、金融危機を引き起こすにはまったくもって不十分な水準だろう。

みずほFGはもう少し親切な開示をしてくれていて、金利上昇により市場性運用はプラスに転ずるそうだ。これは画像のように運用の大部分を日銀当預に回しているため、日銀当預への付利がそのまま収益になる、ということだろう。

みずほFGのFY2024 1Q決算説明資料より

これだけでも十分ではあるのだが、これはよく言っても粗雑な近似でしかない。そこで、金利急騰のリスクに対する影響を確認するより確実な方法を紹介したい。バーゼル規制対応の関係で、銀行自身が金利急騰のリスクへの影響度を試算し、公表しているのだ。これはIRRBB(銀行勘定の金利リスク管理)と呼ばれる。そのうち、ΔEVEと呼ばれる指標が、最大損失額を表している。そして、金融庁は全国の銀行職員の胃壁を代償にして、このΔEVEが自己資本の20%(国内基準金融機関=国際業務を行わない金融機関、概ね地銀等中小金融機関が該当)またはTier 1資本の15%(国際基準行=国際業務を行う金融機関、概ねメガバンク、上位地銀、商工・農林中金が該当)を超えないように、厳しくモニタリングしている。金利の上昇により金融機関が破綻しうるかどうかは、このΔEVEを見れば、一目瞭然である。

弱小金融機関は金利急騰で債務超過に陥るのか?

というわけで、東洋経済新報社が自己資本比率ワーストランキングを作成してくれているので、このワースト3について見てみよう。藤巻健史のいう、「弱小金融機関」が何を指すのかはいまいち判然としないが、「自己資本基盤の脆弱な銀行」を「弱小金融機関」とするのは、概ね間違ってはいないはずだ。

自己資本比率ワースト1位の福邦銀行は、ディスクロージャー誌を発行しており、その60Pに記載がある。ΔEVEの最大値は1,508百万円、自己資本は14,242百万円(いずれも単体ベース、以下同じ)なので、自己資本の想定毀損率は約10.5%となる。そしてこれは筆者も実際に調べるまで知らなかったのだが、意外にも福邦銀行は2023年3月決算時点で、金利上昇リスクで損失を被ることはなく、むしろ、金利の下落で損失を負うようなポジションを構築しているようだ。

続いて中京銀行だが、こちらはあいちフィナンシャルグループの一部として開示されており、P163に記載がある。それによるとΔEVEの最大値は8,668百万円、自己資本は95,307百万円であるから、金利上昇による自己資本の想定毀損率は約9%である。

最後に福島銀行を見てみよう。記載箇所はP63である。ΔEVEの最大値は1,131百万円、自己資本は28,942百万円なので、想定毀損率は約3.9%である。福島銀行もリスクの取り方が変わっていて、金利のフラット化により最大損失を被るようなポジションを取っている。また、短期金利が上昇すれば995百万円の損失が出る、と書いてあるので、すなわち短期金利はゼロ近傍の低位張り付きながら、長期金利が上昇するような予想のもとにポジションを取っている、ということが推測される。

筆者は有価証券報告書作成実務等に関わった経験もあり、個人投資家でもあるものの、銀行・金融セクタの株式はあまり手掛けて来なかった。しかし、今回調べてみると、金融機関ごとに市場運用リスクの取り方の差が如実に出ており、非常に興味深い一件であった。

本題に戻って、藤巻健史は華々しい金融の経歴と実に素晴らしい会計の学識をお持ちのようなので、これのどこに金融危機を引き起こす余地があるのか、その素晴らしい学識で是非とも説明してもらいたい。

筆者に対して経歴を語る藤巻健史

財政の信任が未だに保たれている驚き

さて、これらの破綻論者たちは、財政黒字化により信任を確保しなければいけないという。この議論に入る前に、まずはこれ(P86)を見てほしい。プライマリーバランスの黒字化がはじめに時期を示した明確な目標として唱えられたのは2001年の第一次小泉内閣の時だそうだ。そこからおよそ22年が経過した現在、プライマリーバランス黒字化目標は一度として達成されていない。にも関わらず(多少の混乱はあれど)市場は特に日本政府を罰したことはない。

通常、22年もの期間にわたって約束を反故にしつづければ、それは単なるポーズでしかないし、いいかげんな構造変化で目標が達成されることがあっても、それは政府が本気で取り組んだ結果ではないと解釈するだろう(少なくとも筆者はそう解釈する)。

にも関わらず、破綻論者たちの理屈に従えば、投資家たちは22年約束を反故にされ続けても、政府が約束を守ると信じていることになる。筆者にしてみれば、そのような純真な投資家が債券市場に多数存在することは大きな驚きである。

倒錯した問いかけ

破綻論者たちが言うような、財政黒字化目標とは、何を意味するのだろう。もちろん増税ではあるのだが、その含意は何だろうか。それを理解するためには、資金循環統計を確認する必要がある。

資金循環統計では、企業(民間非金融)部門が黒字主体(資金の流入)となっており、家計部門・一般政府部門・海外部門が赤字主体(資金の流出)となっている。端的に言えば、民間部門(一般政府以外の部門)では企業に資金流入が発生している、ということになる。また、家計の金融資産はこれまでに多くの割合が現預金に回っていることから、物価高や円安により支出が増大し、一時的に取り崩しが生じたものだろうと推定されているし、おそらくその通りだろう。

つまり、企業部門は今も、家計部門は一時的に落ち込んだものの、これまでの経緯からその多数を、現預金で持っている、ということになる。そしてその現預金は、もちろん主に銀行により国債の消化に回されている。

当然のことではあるが、企業は自らの望む流動性を、家計は自らの望む貯蓄水準をそれぞれ決定する権利がある。盲目的に財政黒字化を志向することは、こうした個々の企業や家計の決定権を制約しよう、と主張することに等しい。

財政破綻論者たちは、問いの立て方を誤っているのである。日本の財政を議論するとき、問わなければいけないのは、「なぜこんなにも財政赤字が大きいのか」ではなく、「なぜ企業や家計はこんなにも高い流動性・貯蓄水準を必要としているのか」である。

すぐに思い浮かぶ理由は人口構成だろう。すなわち、企業や家計は、(それが正しいかは別として)人口が減少し、少子高齢化が進むことで、将来の負担が増加する、といったような予想・期待を抱いており、それに適応的な行動として、過剰ともいえる流動性の確保や、貯蓄形成を行っているのかもしれない(し、全く他の原因かもしれない)。

YCCとは何だったのか、あるいはYCCは国民に損を押し付けているのか

YCCはそもそもなぜ始められたのだろうか。これには通説と事実の間に大きな隔たりがある。しかし、通説が広く受け入れられていることは、日銀にとって(少なくとも開始当初は)都合の良い事態だった。

通説 : YCCとは、八方手を尽くした日銀が苦し紛れに導入した非伝統的な緩和策のひとつである

事実 : YCCは、事実上の利上げである

YCC当初の目標は、10年債利回りがおおむねゼロ%で推移するようにコントロールすることである。そして、下のグラフはYCC開始直後のイールドカーブである。


https://www.smd-am.co.jp/market/daily/keyword/archives/japan/key161005jp/より引用

YCC開始当初は、10年債利回りはマイナス圏であり、これをゼロ%近傍でコントロールするのだから、実質的な利上げである。ただし、当時は異次元緩和の真っ最中である。オーバーシュート型コミットメント(物価目標を達成しても、「のりしろ」が出るまで緩和をやめないぞ、という宣言のこと)を明言していた黒田総裁(当時)にしてみれば、緩和縮小と見られないためにも、口が裂けても利上げとは言えなかったのである。

つまり、YCC開始当初の状況からすれば、上記のような言説の正反対を行っていることになるのである。金融関係者は、こうした真意を隠した日銀の声明を、皮肉交じりに「日銀文学」などと呼ぶが、言い得て妙であろう。

また、そもそも日銀の担当者と民間銀行のコンピューター内の数字の動きでしかなく、実質的な負担者がいないものを「国民の損」と呼ぶかは甚だ疑問である。

YCCは何が問題なのか

筆者はYCCを支持しているわけではなく、むしろ批判されるべき政策だと考えている。しかし、それは破綻論者たちの言うような、金融危機を招くだとか、国民に損を押し付けるだとかといった理由ではない。YCCは、シンプルに言えば「金融政策の自由を阻害する」からである。YCCによって、「これ以上金利は上がらない」という期待感が形成がされれば、(それこそSVBのような)不健全なリスクテイクを惹起しかねない。そうした不健全なリスクテイクによって大惨事を引き起こした例は、米国のS&L、日本の住専問題など、数え上げれば枚挙に暇がない。そして、もしそういった状況においてもYCCを継続していたならば、日銀はいずれ望まぬ形で引き締めを迫られることになるだろう。

YCCは軟着陸しつつある

しかし、筆者のこの程度の批判などは、当然日銀も考えているようだ。植田日銀総裁は、7月末の金融政策決定会合において、YCCの柔軟化として、連続指値オペの上限を1.0%まで拡大した。これは概ね市場に受け入れられる格好となり、金利の急騰を招くような事態にはなっていない。筆者がこの記事を書いている2023年10月10日時点では、10年債の利回りは0.83%となっている。このYCCの柔軟化は、市場の価格水準を上回る変動幅を設定しているという点で、実質的なYCCの形骸化である。日銀は明らかに出口を模索しているし、それは今のところうまくいっている。

おそらく植田総裁は、破綻論者たちの言うような投機攻撃による金利の急騰を避けつつ、出口に向かって経済をソフトランディングさせるため、今後もYCCの枠組みの中で市場に合わせて連続指値オペの水準を引き上げつつ、ゆるやかに国債買い入れ額の縮小に取り組むのではないだろうか。

為替をどう考えるべきか

破綻論者たちの最後のよりどころは、円安である。マネタリーベースが拡大すると、円が市場にあふれるぞ、それは高い利回りを求めて国内のリスク資産や海外にも流出し、円安になるんだ、というものである。

しかし、為替市場は合理的でもなければ効率的でもない。詳しくは(いくぶん古いが)Paul Krugmanが話していて、為替市場が実体経済を反映しているかは、かなり怪しいと言わざるを得ない。

為替レートは、それが確たる根拠にもとづかなくとも、みんな(市場参加者)がなんとなくこう思う、と思えば動いてしまうのである。当然、こうした市場動向はコロコロ変わるため、信頼性のある指標とはいいがたい。筆者がこれを書いている10月10日時点でのUSD/JPYは148.74円だが、来週には突如市場が発狂して、これが130円になる可能性もあるし、160円になる可能性もあるだろう。為替が自動安定化装置の機能を有しているとは、まったくもって言えないどころか、むしろ不安定の増幅装置ですらある。

藤巻健史はUSD/JPYが500円の時代がやってくる(ただしそれがいつかはわからない)と言っているが、それは単に、市場にいつかバブルやショックが来るぞ、と言っているのと何一つ変わらないし、それは(規模の大小は別として)誰でも理解しているし、誰にでも言えることである。

トレーダーの蹉跌

藤巻健史や加納裕三が財政破綻論に傾くのは、おそらくその経験によるところが大きいのだろう。藤巻健史はトレーダーとして有名であるし、加納裕三もエンジニアから転換社債のトレーダーに転向した経験を持つという。

こうしたトレーダーなどの、市場に向き合う部門の人々は、市場が全て正しい、と考える傾向があるのではなかろうか。

筆者の周囲の(短期投資を行う)優れた個人投資家の知人たちも、口を揃えて、「市場に逆らって、自らのミスを認めなければいずれ退場する」と言うため、おそらく、「市場が常に正しい」と考えることは、短期投資家としての美徳であるのだろう(余談ではあるが、つまり藤巻健史と加納裕三の両名のトレードスタイルは、トレンドフォロー型だと推測できる)。

しかし、高リスクの債券のリスクを誤認して、世界中に危機をバラ撒いたり株式市場と不動産市況が発狂して、GDPがおよそ3倍の国の土地を全て買い占められるだけの価格をつけたりと、市場が時に間違うということを、我々は苦い経験とともに幾度も知らされてきた。

トレーダーというミクロな視点で見れば市場は常に正しいと考えることには合理性があるが、それが経済の正確な描写であると考えるのは、大きな誤りである。

市場価格の変動は、いかにも意味がありそうに見える。そこから市場のメッセージを受け取ることは、市場関係者としては重要な資質であるが、市場は特に意味もなく変動しうることがあるし、実際に幾度となく、大した意味もなく大きな変動を起こしている。

人間は意味のないことに意味を見出すバイアスを有しているが、筆者も含めて、バイアスからの脱出というのは難しいものである。

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