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名書 『公共善エコノミー』 クリスティアン・フェルバー 訳者あとがき

私たち一般社団法人公共善エコノミー設立の起点になった本です。
現在、共同代表理事に就いている池田憲昭が、欧州でロングセラーになっている名書をコロナ禍のなかで翻訳。2022年末、宮崎市の鉱脈社により出版されました。

どんな趣旨のどんな本なのか。本の最後に綴られている「訳者あとがき」をそのまま載せることで、ここに紹介します。


訳者あとがき

『公共善エコノミー』はオーストリア・ウィーン在住のクリスティアン・フェルバーが、2010年に同名の本によって提唱した、新しい市場経済のコンセプトである。著書は、2018年には改訂版の文庫本も出版されるロングセラーになり、今年2022年暮れに出版されるフランス語版と日本語版を含め、8ヶ国語に翻訳され、14カ国で出版されている。

私がこの本に出会ったきっかけは、2019年末に岩手中小企業同友会の視察団と一緒に訪問した、ドイツ・フライブルク市にある豆腐工場タイフーンだった。ヨーロッパ産のビオ(有機認証)の大豆から豆腐を製造する設立1987年の老舗メーカーである。ここで製造される豆腐は、南西ドイツに暮らす、私の日本人家族の食卓に日常的に上がる必需品でもある。このタイフーン社が公共善エコノミーの運動に参加し、実践していた。

それで私は興味が湧き、原書を友人が経営する地元の本屋で購入し、読み始めた。突然世界を襲ったコロナ禍で、時間的な余裕ができたことも幸いして、私はこの本に没頭し、一気に読み切った。経済学や政治学の専門用語もたくさん出てくる専門書であるが、とても簡潔・明瞭に、そしてリズミカルに書かれた本だった。学者、作家、政治活動家、ダンサーという多様な顔を持つ著者の人間性が表れていた。専門的な内容の本であるにも関わらず、広く一般に読まれ、そして年々、世界的な運動として実践が広がっている理由がわかった。環境問題から貧困、社会格差の問題まで、現代の人間社会が抱える様々な問題がなぜ起こっているのか、その根本的な理由が、明快に整理・表現されていた。そして、それら深刻で危機的な各種問題を解決するためには、現在の私たちが乗っている資本主義的市場経済システムを、新しいシステムに転換しなければならない、というヴィジョンと、そこに行き着くための具体的な道筋が描かれていた。私はこの名著に大変感銘を受け、2021年春に出版した拙著『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』(Arch Joint Vision)でも随所に、『公共善エコノミー』の記述を引用させてもらった。

翻訳の仕事はこれまで、学術論文や記事など、時々頼まれて行っていたが、書店に並べられる一般書の翻訳は初めてのことである。ロックダウンのなか、ドイツ黒い森の自宅でサナギのように静かな生活をしていた2020年の晩秋に私は、この本を私の祖国の言葉に翻訳したい、翻訳する意義がある、たぶんうまく翻訳できる、と強く思ったので、11月末に思い切って作者に直接メールしてみた。作者からは「君のメールは、思わぬクリスマスプレゼントだった。とても嬉しい」と直ぐにポジティブな返事が来て、日本語翻訳プロジェクトがスタートした。

最初の作業は、翻訳本の出版社を探すことだった。この本に出会うきっかけになった、私の長年のお客さんでパートナーである岩手県中小企業家同友会の事務局長の菊田哲さんに相談した。公共善エコノミーの主役は中小企業である。もともとフェルバーも、意志を共にするオーストリアの中小企業のパイオニアたち(Attac企業グループ)と一緒にこのコンセプトを作り上げた。菊田さんから直ぐに、宮崎県中小企業家同友会に属する地域出版社の鉱脈社を紹介してもらった。宮崎の同友会メンバーも数名、過去に岩手のグループと一緒に来欧し、視察セミナーに参加されていたので、話は早かった。鉱脈社の代表取締役社長である川口敦己さんからは、私が作成した本の概要説明と第1章の試訳を読まれたあと、「翻訳して出版する価値がある本だと思う。紹介いただいてありがたい。ぜひ出版の方向で話を進めたい」と嬉しい回答をもらった。そして間も無く、著作権を有するオーストリアのドイティケ・イム・ポール・ゾルネイ出版社(Deuticke im Paul Zsolnay Verlag)との契約プロセスへと作業が進んだ。作者によれば、公共善エコノミーのコンセプトは、日本の学術界でも数年前から知られていて、これまで何度か、日本語訳出版の話は持ち上がったようだが、様々な理由で出版には至らなかった。今回、公共善エコノミーの趣旨にもマッチした、社会的な使命感と哲学を持った、地に足がついた地域の小さな出版社がこの事業を引き受けてくれたことは、作者、翻訳者にとって、大変嬉しいことだった。

公共善エコノミーは、「人間の尊厳」を重要なベースにしている。人間の尊厳は、国連憲章や各国の憲法にも明記されている人間社会の根源的な価値である。ドイツの著名な脳神経生物学者で公共善エコノミー大使でもあるゲラルト・ヒューターは、科学的な知見から、尊厳が、人間の誰もが生まれ持った生物学的な資質であることを指摘している。ヒューターはまた、現代社会・経済の大きな原動力になっている「競争」は、生物進化論の観点から、人間の強みではない、と説明している。そして、人間が生まれながらにして持っている資質である「尊厳」と密接なつながりがあり、可塑性の高い脳を持つ人間が生物学的に得意な「協力」をベースにした社会の構築を提唱している。公共善エコノミーは、エゴや妬み、無責任さといった人間の弱みを助長する「競争」でなく、信頼やリスペクト、思いやり、といった人間の美徳がもとになった「協力」を原動力とする、倫理的な市場経済のコンセプトである。並行して存在する他の類似の理論やコンセプト、運動とも、排他的な「競争」をするのではなく、「協力」し、お互いに高め合うことを推奨している。

公共善エコノミーは、「公共善決算」という、事業体の総合的な経営評価ツールを有している実用的なものである。だからヨーロッパを起点に、世界中にその実践が広がっている。しかし、経済だけのコンセプトではない。そのために必要な法的な枠組みと、「主権者デモクラシー」という、市民の主体的な政治参加(社会構築)システムも提唱している。学校教育に関する本質的な提案もある。ドイツの著名な環境ジャーナリストであるフランツ・アルトは、公共善エコノミーのことを「社会主義と資本主義の間に位置する実用的な第3の道」と評している。経済・政治・教育分野をつなぐ、ホリスティックで具体的な道を、公共善エコノミーは簡潔・明瞭に描いている。

本書は、日本語版とフランス語版の出版に際し、2018年に出版された文庫本『Gemeinwohlökonomie(公共善エコノミー)』(Piper)に、2022年春、作者が改定・更新を加えた原稿を翻訳したものである。中欧を震源に、刻々と進化・発展し、拡大する公共善エコノミーの波の最新改訂版が、元のドイツ語版よりも先に日本語版で世の中に出ることは、翻訳者として非常に光栄なことだ。

作者と翻訳者は共に1972年生まれ。今年は2人とも50歳になるという、人生の節目を迎えている。この記念すべき年での日本語版の出版は、2人にとって、この上ない誕生日プレゼントでもある。このプレゼントに入ったメッセージが、危機から危機へと混迷する世の中で、多くの日本の読者にも伝播して、希望と勇気を与え、幸せな未来のための行動へと広がっていくことを願う。

2022年9月 翻訳者 池田憲昭