ノア・スミス「安楽死の歪んだインセンティブ」(2024年4月3日)
「死んではいかが」とほのめかすのは,納税者のお金を節約するいい方法じゃないね
今回の記事では,繊細で扱いにくい話題をとりあげる:安楽死,別名「死亡幇助」について語ろう.
原則として,安楽死はしてもいいとぼくは思ってる.頭脳が正常な状態にあるかぎりなら,おぞましい苦痛を耐えながら生き続けるかわりに死ぬのを選ぶ権利が人々にはあるとぼくは信じてる.安楽死のことを考えても,ぼくは嫌悪感を覚えないし,心の奥に深く根ざした道徳的禁忌に触れたりもしない.この点についてぼくと意見がちがう人は――あらゆる人命は神聖でどんなコストを払ってでも守らなくてはいけないと思ってる人や,さらには,どうにも言い表せないけれど安楽死は間違ってるという感覚を抱いてる人は――それでかまわない.その視点は尊重する.今日やりたい議論は,そういう論点とは別なんだ.
今日語りたいのは,安楽死にともなう重大で歪んだインセンティブの話だ.このインセンティブを,安楽死政策は大変な骨折りをして避けるべきだ.カナダでの「医師による死亡幇助」(Medical Assistance In Dying; MAID) の進展と,イギリスでの死亡幇助をめぐる論議をじっくり見ていて,ぼくは疑いをもった.「このうえなく責任感があり,道徳的に慈悲深い政策担当者や専門職ですら,そうしたインセンティブを自力で回避しきれないんじゃないか?」
基本的な問題点は,これだ――より広い範囲での安楽死の利用を推し進めると,納税者と医療制度のお金を節約できる.Trachtenberg & Manns による2017年の Canadian Medical Journal 掲載論文では,こんなことが見出されている:
さて,この推定の上限値ですら,たいした金額じゃない.カナダは,年間3100億ドルを医療に支出している.だから,1億3700万ドルを節約したところで,そのうちの約 0.04% でしかない.他のいろんな論文で得られている数字も,似たようなものだ.
ただ,金銭的なインセンティブが小さそうだからといって,重要でないって話にはならない.なにより,そうした節約は,一部の人たちにすごく集中するかもしれない.より多くの患者に安楽死を提供するかどうかを選択する特定の病院その他の医療提供者にとって,このインセンティブは小さくないかもしれない.
第二に,こっちの方がさらに重要なんだけど,既存のコスト節約法と,今後とりうるコスト節約法は,同じじゃない.Trachtenberg & Manns 論文では,安楽死を実施される側の人々は,大半が人生の終わりに非常に近いところにあることが述べられている.そのコスト削減は小さい.だって,そうした患者の大半は,どっちにしても間もなく亡くなってしまう人たちだからだ.ただ,死を目前に控えていない人たちにまで安楽死の対象拡大が許可された場合,コスト削減額は大きく増えてもおかしくない.
なにより,医療支出は人口のごく一部の人たちにものすごく集中している:
このトップ 1% の支出者たちがもっと医師による死亡幇助を利用したら,いままで数百万ドルだった節約額が,数十億のケタにまで増えてもおかしくない.いまの節約額ではなくて,将来に節約できるかもしれないこちらの額こそが,濫用と言っていい範囲にまで安楽死制度を拡大するインセンティブをつくりだす.
また,安楽死の利用が従来の限度内にこれからも留まる保証はない.カナダの MAID プログラムは利用者を増やしつつある――死亡幇助による自殺は,2022年にはカナダでの全死亡事例の 4.1% を占めている.すでに,Trachtenberg & Manns (2017) による推定の最大値を少し超えている.2021年の数字と比べると,31.2% の伸び率という驚くべき増加だ.オランダとベルギーですら,安楽死は急速に増加してきていて,いまや,Trachtenberg & Manns が数年前に論文で参照に使った率をだいぶ上回っている.
最後に,安楽死の過剰利用を促す金銭的なインセンティブに関して本当に重大なのは,その歪んだインセンティブだ.先日,イギリス紙 The Times に「死亡幇助のタブーを守り続ける余裕はない」と題した論説が載った.著者のマリュー・パリスはこんな風に書いている:
率直に言って,この言い草には,嫌悪感を覚えたし,心底ゾッとした――安楽死そのものがおぞましいからじゃなくって,競合国に対して自国を強化しようって目的のために高齢者を死へとせっつくという発想がぼくの大事にしているあらゆる価値に反しているからだ.この発想は,野蛮で残酷な集団主義だ.こういう考えから人々を守るためにこそ,そもそも自由な社会は存在してる――優生思想としての安楽死から,人々を守るために.
ただ,ここでホントに大事なのは,こういうことを言う1人のイギリス人論説記者がいたら,他にも同じことを考えてる人たちはいると見ていいって点だ.当然ながら,優生思想を支持する人たちはその処置を受ける人たちの幸福を純粋に願って支持しているんだと発言するだろうけれど,中には,自分の利害関心を密かに考えている人たちもいるはずだ.パリスの論説は,安楽死の拡大によってお金を節約することをよしとする主張のなかでもいちばん忌まわしい文章ではあるけれど,これひとつきりではない.
というわけで,安楽死拡大には金銭的に意味があると認識されたインセンティブがあるのは間違いない.そこで次に問題となるのは,これだ――「この安楽死の実施をどこまで拡大したら濫用に当たるんだろう?」
まず,医療提供者が「MAIDの方が安上がりで許容できる選択肢だ」と考えたときに救命措置を拒否される人が現れる可能性が挙げられる.MAID を支持する道徳的な正当化の論拠となっているのは,「尊厳をもって死ぬときを人々は選べるべきだ」という考えだ.でも,死を選びたくない人たちだっている.もしも,医療制度が本人の代わりにその意思決定をして MAID 以外の措置にお金を出すのを拒否したなら,死は選択肢であるべきと言う原則に違反している.
たとえば,とあるカナダ人女性が腹部ガン手術を受けたところ,それがお粗末な手術で,その術後に女性は外科手術と化学療法を受けるのではなく MAID で死ぬように促されたという事例が,去年,報道された.その女性は MAID を拒否してアメリカに渡って治療を受けた.カナダの医療保険は,その手術への支払いを拒否した:
はたして Ducluzeau が治療の結果として余命を伸ばすかどうかはわからない.ただ,そうなる可能性はある.さて,もしも彼女が貧しい人だったらどうだったか考えてみよう.よその国に飛行機で移動して治療を受ける20万ドルは持ち合わせていなかっただろう.かわりに安楽死を受け入れるしか,選択肢はほぼなかったはずだ.
Allison Decluzeau が自分の命を救うかもしれない治療を受けるのを認めずに自死を促したカナダの医療制度の決定に,金銭的なインセンティブが関わっていたかというと,100%確実ではない.でも,彼女の治療費にお金を出すのをカナダの医療制度が拒否したのを考えると,そのコストが考慮に入れられていた見込みが高そうに思えるのは確かだ.
こういう Decluzeau のような事例があれこれとあって,いろんなミームがネットに出回った.そのひとつはこんなミームだ:
でも,これでおしまいじゃない.他にも,金銭的なインセンティブがはたらいて,死ぬかどうかの意思決定をするだけの精神的能力のない人たちに医師が安楽死を提案することにつながりうる場合はいろいろとある.
ぼくは,人生のけっこうな年月を鬱に苦しんで過ごした.幸い,自殺を考えたことは一度もないし,死にたいと思ったこともない.でも,もしもぼくが鬱だったときに医療提供者を訪ねて自殺も選択肢にありますよと提案されていたら,それを100パーセント確実に拒否したとは言えない.
医師が患者に治療を提案するときには,たんに患者の選択肢の情報提供をしているだけじゃない.必ず,その治療を推奨している.いつでも,治療の提案は,患者の病状に対処するのにふさわしいと専門家や権威や医学等々が判断している処置のひとつがこれですよ,というかたちをとっているものだ.
鬱を患っていた人間として次の点は自信をもって言える.鬱の人たちには,医師の提案を完全に押し返せるだけの力はない.鬱ってやつは――少なくとも,ぼくが苦しんでいたような鬱は――意欲・意志力・動機の欠落をともなう.鬱だった頃,他人になにか提案されると,それに乗っかる以外のなにかをやる動機がないからってだけの理由で,その提案に乗ったものだ.さいわい,誰もぼくに自傷や自害を提案しなかった.でも,もしも医師から「死んだ方がいいんじゃないでしょうか」なんて提案されていたら,医師の提案をはねつけるだけの気力をふりしぼれていたと 100% の確信はもてない.
鬱の人たちは,どうすれば自分の生活が実際によくなるか合理的に考えるのもままならない.ぼくが鬱だったとき,「気分がいい」なんて考えがまるごと空を掴むような抽象になって,ちょっと無意味になってしまっていた.当時の鬱々とした感情の他には,どんな感情もとにかく想像できなくなっていた.そのぼくも,いまやずいぶんしあわせな人間になった.でも,鬱だったときには,そのうち自分がしあわせな人間になるなんて,とうてい予期できなかったし,そんな姿を思い浮かべることもできなかった.だから,鬱だった頃のぼくが医師から安楽死を提案されていたら,その提案を拒否する方を選択した先の未来にあるいろんないいことを思い描くことはできなかっただろう.
つまり,世の中には精神が正常でなくなっていて,死ぬかどうかの選択をするだけの態勢が整っていない人たちもいるわけだよ.多くの人たちはこの点を直観的に認識している.だからこそ,精神疾患の人たちへの MAID を認可する計画を,カナダは一時的に遅らせているわけだ.それでも,この慣行がすでに制度に浸透しつつあるのをうかがわせる孤立事例がカナダで散発している.一例として,2022年の報道を引用しよう:
また,とあるオランダ人女性の事例では,医師たちに自分が「今後よくなる見込みはありません」と言われたと主張して,鬱を理由に安楽死をしている.また,つい先月の事例では,当時27歳だった自閉症のカナダ人女性は,身体的な症状はなにもなかったのに,安楽死を施された.
こういう事例で意志決定を下す動機の一部に納税者のお金を節約することが含まれていたかどうか,ぼくにはまったくわからない.ただ,精神疾患の人たちを死へと後押しする金銭的なインセンティブがあるのは確かで,しかもそのインセンティブはとても大きい.たとえば,鬱だけでも,合衆国で年間に数千億ドルのコストが治療にかかっている.鬱の標準的な「治療」に安楽死を加えることでそのコストのわずかな割合だけでも節約すれば,納税者にとっては巨大な棚ぼたになりうるし,マシュー・パリスみたいな人たちが社会的に役立たずだと考えている人たちも間引きされることになりうる.
でも,ぼくの見解では,そんなことをするのはとてつもない犯罪だ.
安楽死にからむ歪んだ金銭的インセンティブは,目立たずに蔓延しているように思える.「誰かが病気で社会にとって正味の金銭的な負担になったとき,助けるよりも殺す方がとにかく安上がりになる.」 医師や保険会社,さらには金銭的・精神的に弱い人たちを自殺に追いやる力をもつ誰もの頭のなかには,つねにこのことが存在している.
このインセンティブがはたらくたびに,医師や官僚たちがそれを克服するだけの道義的な正しさを持ち合わせていることを願うことはできる.また,医療提供者たちや保険会社たちがひとえに患者の幸福だけに基づいて意志決定を下してくれることを願うこともできる.でも,その人たちは人間であって,いつもいつも人間の道徳心が金銭的なインセンティブに勝ってくれるのを頼りにするのは,分の悪い賭けというものだ.
ところで,これが「滑りやすい坂」論法じゃない点には留意してほしい.「滑りやすい坂」論法とは,ほんのちょっとでも許容する度合いを高めると,自動的に,許容度がさらに上がっていくという主張だ.当然ながら,そういう予測をするためには,理論的なものであれ実証的なものであれなんらかの正当化が必要になる.でも,安楽死の場合,すぐれた正当化がある――死亡幇助の拡大を後押しする金銭的なインセンティブがあるのは明白だし,新聞であれこれと語られている.それに,カナダではとても疑わしい安楽死事例が明らかに起きている.
ぼくの見解では,疑わしい安楽死事例がよくある話になってからようやく心配しはじめたりしない方がいい.すでに,問題事例が起こっているのは見てとれるんだから,大勢の弱い人たちが不必要な死を迎える前に対処すべきだ.
最初にすべきなのは,安楽死政策を修正して,さっき見た記事などからうかがえる虐待事例を避けることだ.その修正には,最低限でも,次の点が含まれるだろう:
もっと強い保護策を加えるなら,この決まりを加える手もある:「患者がみずから訊ねないかぎり,医師その他の医療提供者は,MAID を患者に提案することを許されない.」 これなら,「他の選択肢よりも死ぬ方を優先して推奨されている」と患者が感じたり,自殺の圧力をかけられていると感じたりすることのないように万全を期すことになる.
カナダにあるような安楽死制度を擁護する人たちは,こういう懸念を提起する人をとにかく「右翼」呼ばわりしたり公衆衛生に反対する者とラベルを貼ったりしたくなるかもしれない.それは,まちがいだ.もしも MAID が広く悪用されて「尊厳ある死」という理想の信用を落とすほどになってしまったら,絶対に誰の得にもならない.ここにある歪んだインセンティブは現実だ.それを無視して「どっかに消えてくれないかなぁ」と願ってすませるわけにはいかない.
追記: 上の方で引用した AP通信の記事からさらに抜粋しておく.これを読むと,少なくともごく少数の事例で,明示的に金銭面の正当化をつけて明らかに患者が安楽死を迫られているのがうかがえる:
こういうことがよくあるとは主張しないけれど,でも,こういう金銭的なインセンティブは存在しているときには,こういう事態はどうしても起きてしまう.そして,いざ起きたときには実におぞましいものになる.
[Noah Smith, "The perverse incentives of euthanasia," Noahpinion, April 3, 2024]