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アダム・トゥーズ「財政から読み解く『世界史の轟き』:大衆に配慮する権威主義の政治経済学」(2023年1月7日)

(諸国家の財政状態と財政政策が、一般に国民経済の発展と、それと同時に、すべての生活形態と文化内容にたいしておよぼす直接形成的な影響は、)多くの歴史時期に、事物の大きな特徴のほとんどすべてを説明することができるのであって、大多数のばあいに、そのきわめて多くのものを説明する…しかし、財政史の原因的意義にもまして、はるかに重要なのは、その徴候的意義である。ある国民がどのような精神の持主であるか、どのような文化段階にあるか、その社会構造はどのような様相をしめしているか、その政策が企業に対して何を準備することができるか—これら、その他多くのことが財政史のうちに見出されるといっても過言ではない。財政史の告げるところを聴くことのできるものは、他のどこでよりもはっきりと、そこに世界史の轟き(the thunder of world history)を聴くのである。

私のニュースレターの読者なら、私がこの引用を好んで紹介していることを知っているだろう。オーストリアの経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、自身のエッセイ『The Crisis of the Tax State』(1918年)〔邦訳『租税国家の危機』岩波書店、1983年。 [1] 〕で、上記のとおり財政社会学(fiscal sociology)の必要性を訴えている。

この言葉がどれほど頻繁に真実味を持つことか。例えば、最近のアメリカの予算審議において軍事費が優先されていることや、家庭や育児への支援が疎かであることが、いかに明白であるか。現代ドイツにおける不平等を助長する間接税の多さが、いかに顕著であるか。オフショア(・タックス)・ヘイブン(租税回避地)へのドアを開く財政網の穴が、いかに歴然としているか。

しかし、このシュンペーターの命題には、重要な「条件」が付されていることが見逃されている。世界史の告げるところを財政収支から導き出すことができるのは、「聴くことのできるもの」だけなのである。

ヨーゼフ・シュンペーター

ここで疑問が生じる。どうすれば〔財政収支のような〕分かりにくい文書から世界史の轟きを知ることができるのだろうか。1806年10月、ナポレオン・ボナパルトがプロイセン軍を打ち砕くために馬上でイエナを駈け抜ける姿に、世界精神を見ることはできるだろう。しかし、財政収支から世界史の轟きを読み取るには、特殊な専門知識が必要になる。

このように考えると、シュンペーターの有名な一節は、新しいタイプの専門家、つまり予算の細部と世界史のドラマの間を行き来できる正しい知識を備えた人物のためのマニフェストであると読み取るができるだろう。彼らに求められるのは何か。財政社会学に関するエッセイの中で、シュンペーターは知識が必要であるとしている。彼は、因果論的かつ徴候的な方法論として財政社会学を提唱しているのである。もっとも、「その種の知識は力をも与える、あるいは与えるべきである」と主張するだけでは、大した進歩はない。クララ・マッテイが示したように、その考え方は、イタリアの著名な財政専門家とムッソリーニ政権の協働をもたらすことになる。ムッソリーニのローマ進軍が歴史の轟きでなくて何だったのだろう(確かに、かなり慎重に演出されたものではあったが)。

シュンペーターの世代の経済学者たちは、第一次世界大戦勃発を受けて新しいマクロ経済学を開発した。シュンペーターの訴えの後、「政府予算は、政治的選択と国民所得・支出の循環との相互作用によって決定される」と考える新しい経済観が生まれ、この考えが財政社会学と結びついていった。

シュンペーター自身は、1930年代にドイツ語圏から移住し、第一次世界大戦とは異なり、第二次世界大戦では実質的な役割を果たせなかった。しかし、シュンペーターの言葉を借りれば、国家予算を、経済、政治、社会の優先順位を示す重要なマトリクスとみなすことで、戦争努力を組織化する上では実質的な役割を果たしたのである。アメリカやイギリスでは、この戦争は、いわゆる「政府におけるケインズ革命」の揺籃とみなされることが多い。第一次世界大戦がシュンペーターの財政社会学をもたらしたとすれば、第二次世界大戦は機能的財政、すなわち総需要の状態から財政収支を完全に読み解くラディカルなケインズ主義をもたらしたのであり、機能的財政の視点は、MMT(現代貨幣理論)という形で、現代にまでその存在を轟かせている。

多くの学術・政治史がケインズ的、アングロサクソン中心的であるため、同じような専門性の発展過程が戦時中の枢軸国側でも生じたことは、しばしば見過ごされている。日本人は戦争財政に対して著しく拡張的なアプローチをとっていた。筆者が『Statistics and the German State〔統計とドイツ国家〕』(2001年)で示したように、ナチス政権もまた、再軍備の推進と戦争努力の舵取りを意図して、マクロ経済政策の精巧なツールキットを開発したのである。もっとも、彼らの側でも、解釈の問題が生じた。

私がこの点を思い起こしたのは、本ブログでとある古い記事を見つけたときだ。その記事では、ゲッツ・アリー(Götz Aly)による賛否両論の著書『Hitler’s Volksstaat』(2005年。英訳『Hitler’s Beneficiaries(ヒトラー政権の受益者)』)を巡る論争について書いている。同書は、ナチス政権がドイツ国民にもたらした損益収支を総合的に評価しようとする魅力的な本である。

『ヒトラー政権の受益者』〔邦訳『ヒトラーの国民国家――強奪・人種戦争・国民的社会主義』岩波書店、2012年〕では、アリーの研究方法の長所と短所の両方が顕著に現れている。本書の優れた独創性は、その微視的な世界の再現にある。特殊な才能がなければ、第二次世界大戦の歴史におけるライヒスバーン(帝国鉄道)の手荷物許容量の重要性を発見するには至らなかっただろう。しかし、実際にセンセーションを巻き起こしたのは、本書が示した巨視的な見方の方だった。財政収支の見地から、ヒトラーの戦争にかかった費用のうち、普通のドイツ人(ordinary Germans)が負担したのはわずか10%だったとアリーは主張した。彼らの負担分がそこまで少なかったのは、二種類の再分配による恩恵を受けていたからである。まず、総戦費の20%というずっと大きな割合を負担したのは、ドイツ帝国内の企業や高所得者層である。その負担は、彼らの利益から累進税を徴収することで賄われた。つまり、ナチス政権はその社会的約束の一部を果たしたのである。残る70%の戦費は、まずドイツとオーストリアにいるユダヤ人から、次にヨーロッパの他の国々の経済全体からの略奪によって賄われた。

アリーは、シュンペーターの命題に忠実に従ったように見えるかもしれない。「10:20:70」という強烈な〔戦費負担の〕比率が、世界史の轟きとなった。しかし、アリーには本当にその轟きが聴こえていたのだろうか。それとも、自分に聴こえたと思い込んでいたのは、実際には頭の中で生じた響きに過ぎなかったのだろうか。

ゲッツ・アリー(英訳)『Hitler’s Beneficiaries』

一見したところ、アリーは第三帝国の財政機構を解き明かす能力に長けている。彼は誰よりも的確に、〔ナチスに協力した〕専門家たちの問題に焦点を当てていた。彼は、ナチスの人種政策における医師、統計学者、人口統計学者、経済学者の共謀について先駆的な研究をしていた。特に、スザンネ・ハイムとの共著『Vordenker der Vernichtung(絶滅政策の立案者たち)』(1991年。英訳『Architects of Annihilation』〔未邦訳〕)は、ナチス・ドイツの歴史研究に最も挑発的で独創的な貢献をした一冊だ。この本は、私が最初に出した著作2冊 [2] に直接影響を与えた。アリーの興味深い経歴については、ヤドヴァシェム(世界ホロコースト記念センター)のインタビューを参照してほしい。この最近のインタビューは、ドイツ語がわかる人には興味深いだろう。

重要なのは、アリーが行った事実上の主張だけでなく、その政治的な利害関係も理解することだ。

アリーにとって、ナチス政権によるドイツ国民への〔戦費負担の〕要求はとても少なかったという事実は、当時の国民が実際には自分たちの信念のために犠牲を払うナチス狂信者ではなかったことを確認するものだった。しかし、左派がドイツの労働者階級を代表して主張したように、大多数のドイツ人が〔戦費負担を〕強制されたわけでもない。彼らは、アリーが主張するように買収されたのだ。ドイツ国民は、ナチスの戦時福祉国家の受益者(beneficiaries)であり、その財源は、まずユダヤ人から、次いで占領下のヨーロッパの全人口からの再分配と略奪からもたらされたのである。

アリーにとって、ナチス政権が狂信的かつイデオロギー的な忠誠心によって支えられていなかった事実は、安堵のため息と喜びを与えることはなく、むしろ諦観と絶望をもたらした。彼は、1960年代、70年代、80年代のラディカルな政治を経験した人物である。彼がこの事実によって確信したのは、ドイツ史において真に存続していたのは、いかなる狂信的な信念でもなく、むしろ脱政治化された大衆が国家に喧しく依存し続ける状況だったことだ。アリーによれば、「20世紀におけるドイツ同胞の原型」はグロテスクな人物像である。「名声もなく、頭脳もない」、まともな靴を買う余裕もないが、それでもよく磨かれた長靴に片足をしっかり入れていて、どんな救済のイデオロギーにも影響されやすく、果てしなくお金に汚くて一貫して無責任ーーそのような人間である。このように、アリーは、彼の本の主役である「普通のドイツ人」(ordinary Germans)を特徴づけている。(もし、これがありえない話だと思うなら、当ブログにある原文への脚注をたどってみてほしい)。

印象的だったのは、アリーが提示したのがドイツ史に対する唯物論的な読み方であり、そこではドイツ史の罪人は、唯物論的分析によって選ばれるいつもの容疑者、すなわち大企業などではなく、「普通のドイツ人」自身であるということだった。彼はこの点を強調して書いている。アリーはマックス・ホルクハイマーの有名な言葉ーー「資本主義について語りたくない者は、ファシズムについて黙っているべきだ」ーーを意図的に物議を醸す形で言い換えたのである。アリーはこの言葉を次のように言い換えている。「何百万人もの普通のドイツ人が得た利益について語りたがらない者は、国家社会主義とホロコーストについて黙っているべきだ」。例えば、2002年にハインリッヒ・マン賞が授与された時、アリーは受賞スピーチでこの点を強調しており、世間が取り憑かれている「大資本家の責任」なるものを否定した。「ドレスナー銀行、アリアンツ、ゼネラリ、ダイムラー・ベンツ、ドイツ銀行、クルップ、IG・ファルベン、ティッセンなどの名前を出すことは、反資本主義のマントでアーリア人化の本当の歴史的背景を覆い隠すのに役立つかもしれないが、少しも満足できる説明にはなりえない」。ここでいう「背景」には、1990年代後半に起こった奴隷労働をめぐる争いをきっかけに、企業の責任に対する関心が再び高まってきたことがある。

このように、『ヒトラー政権の受益者』は、20世紀の福祉国家に対するアリーの根本的な疑念を、以前の著作よりもずっと明確に示している。この疑念は、1960年代から70年代にかけての反体制ラディカリズムに共通している。アリーはそれまで優生学者、医学者、統計学者、経済学者など、現代の生政治(biopolitical)体制を動かしている専門家たちに焦点をあてていた。そして今、彼の批判は、再分配の偶像そのものに向けられている。アリーが読者に気づいて欲しかったのは、ドイツにおける福祉国家は、略奪(predation)と密接な関係があったという点だ。

さて、この時期の歴史学の傾向のうち少なくとも一部は、アリーと同じ路線を進んでいたと言うべきだろう。たとえば、クリストファー・ブラウニングの『Ordinary Men(普通の男たち)』(1992年)は、ポーランドと西ソ連でのユダヤ人射殺に関与したドイツ人男性のうち、狂信的反ユダヤ主義者やナチスと呼べる人物がいかに少ないかを示している。彼らは、社会不適合への恐れ、比較的小さな報復や不利益への恐れなど、小さな動機から凶行に及んだのである。ブラウニングは、そうした状況が噛み合ってしまった時、ごく「普通の人々」は、ごく普通の理由で、極めて暴力的な行為に及び得ると考えた。しかし、そのような状況(この場合は東部戦線)がどのように作られたかは、別の問題である。宣戦布告はトップダウンの決定であり、それが大規模な「普通の残虐行為」の可能性を解き放ち、またその解放自体がさらなる残虐行為等を引き起こすより極端な状況を作り出した。それはエスカレートしゆく恐るべきスパイラルであり、大量虐殺を伴う人種政策を押し付け、「普通の人々」から人種的加害者を作り出した。もっとも、大量虐殺を引き起こす人種イデオロギーを徹頭徹尾必要としたわけではなかったが。少なくともブラウニングはそう主張した。

その一方で、1980年代から1990年代にかけて、ナチスの福祉主義(welfarism)はますます真剣に関心を持たれるようになった。1980年代には、ライナー・ツィーテルマンが、ヒトラーの思想の中心にトップダウンの社会近代化プログラムがあることを明らかにしたが、評判は決して良くなかった(R. Zitelmann, Hitler Selbstverstaendnis eines Revolutionaers (Stuttgart, 1987)参照)。カール=ハインツ・ロートも長い間、同じ路線で研究を進めていた(K.H Roth, Intelligenz und Sozialpolitik im “Dritten Reich” (Munich, 1993) 参照)。また、より当たり障りのない形では、ミヒャエル・プリンツとマリー・ルイーズ・レッカーが、ヒトラー政権が戦後社会への大盤振る舞いと平等主義という大風呂敷の公約を掲げたことに注目した(M.-L. Recker, Nationalsozialistische Sozialpolitik im Zweiten Weltkrieg (Munich, 1985) and M. Prinz, Vom neuen Mittelstand zum Volksgenossen (Munich, 1986).) また、アリー自身は、スザンネ・ハイムと共に、征服と大量虐殺による社会変革を掲げるナチスのヴィジョンを研究した。このビジョンは、ナチスの指導性のコアとなる要素に影響を与えていた。同時に、社会史や労働史の研究者たちは、ドイツ人労働者をヒトラー政権の犠牲者とみなす見方を大幅に改めた。

上記のとおり、そうした歴史解釈の変遷があったわけだが、アリーの最も壮大な主張は、そのバランスを完全にひっくり返したのである。そして、それは強調や再認識の問題ではなく、計算の問題だったーー「10:20:70」〔という衝撃的な戦費負担の比率である〕。 アリーは世界史の轟きをもたらしたのだ。

では、その数字に意味はあったのだろうか。彼は「財政史の告げるところ」を正しく読み取ったのだろうか。端的に言えば、答えは「ノー」である。一連のやりとりの一挙手一投足に興味のある読者は、元の記事を読むといい。この記事には、その後交わされた書評のやり取りや、一時世間を騒がせた出来事が詳しく書かれている。ここでは、争点となった問題の本質の方に焦点を当てたい。

まず、アリーの主張するドイツ国民の階級間の再分配についてである。

マルク・シュペーラーが指摘するように、税負担を推計するには、国家への歳入のフローをただ見るだけでは無理がある。財政予算の数字を読み解くには、そのフローを生み出した社会と経済を理解する必要がある。第三帝国における財政政策の再分配効果を実証しようとしたアリーの試みは、その背景として所得分配が発生する過程を考慮しなかったために、ミスリーディングなものとなった。彼が言うように、1933年以降の事業税収が、賃金や給与への徴税による税収よりも急速に増加したことは確かな事実である。しかし、企業収益が急拡大したのは、主に政府支出の結果であるため、あまり驚くには値しない。この〔急増の〕背景に、課税の影響を大幅に上回る所得分配の力学が働いていたと考えるなら、アリーの修正主義的主張は破綻する。ヒトラー政権で大きな利益を得たのは労働者階級ではなく、ドイツの企業だった。確かに、ヒトラーの経済復興は国民全体に利益をもたらした。労働者階級の家庭は完全雇用の恩恵に浴し、大卒者は就職の見通しがつき、農家は所得が安定し、破産を免れた。しかし、これらの利益は全て、国民所得が資本サイドへ転流したことによって相殺された。ここ数十年の企業史では、事業主に対して行使された強制力の度合いについて議論されているだろうが、マルク・シュペーラーの研究によって、第三帝国下で利益が急増したという事実は、実際のところ議論の余地がないものとなった(M. Spoerer, Von Scheingewinn zum Ruestungsboom (Stuttgart, 1996))。

帝国のユダヤ人に課された戦費負担は過酷なものだった。そうなるよう意図されていたのである。しかし、彼らはドイツ人口の1%にも満たなかった。ユダヤ人は1933年以降、莫大な損失を強いられ、結果、彼らの富は減少した。何十万人ものドイツ人が、ユダヤ人財産の強制的清算によって私的に恩恵を被り、その利益は国家の元に渡った。しかし、窮地に立たされたごくわずかな少数派に〔資産の〕投げ売りを強いたところで、世界的な再軍備に必要な資金を賄うことはできない。再軍備の費用は、1939年までにすでにGDPの20%近くを占めていたのである。

アリーが展開した実に大胆な主張は、「戦争が始まったとき、戦争負担の大部分は占領地へ押し付けられた」というものだった。

ドイツが占領した国々の多く(デンマーク、オランダ、ベルギー、フランス等)は、経済的に豊かだった。こうした国々が大規模な負担を強いられたことは明らかだ。そうした徴収(特に労働力の徴発)は、ナチスの占領に対する抵抗を焚き付ける重要な火種となった。しかし、当該諸国の経済規模は、果たして総力戦に必要な資源の 70%を提供できるほど大きかったのだろうか。その答えは、明らかに「ノー」である。外部資源からこれほど資金供給された戦争はそれまで存在しなかった。この考えがいかにあり得ないかを理解するには、「もし侵略者が征服費用の70%程度を征服行為自体から賄えるとしたら、国際秩序がどれほど不安定になるか」を少し想像してみてほしい。「戦争の費用は戦争自体で賄うことができる」なんて話をだ!

無論、戦争を戦争で賄うことなどできない。ナチス政権にしても、そんなことを本気で信じていたわけではない。1939年以前にも、それ以後にもだ。最大の勝利の瞬間でさえ、そのような話は安っぽいレトリックであり、現実ではなかった。もちろん、ヒトラー政権は占領費用と賠償金を課すつもりだったが、全体の収支は赤字であり、しかも政権の考えでは、それは支払う価値があるだけでなく、歴史的に必要なことだったのである。歴史は闘いだった。そうでないと考える人は、リベラルなイデオロギーに見られる脱歴史的な欺瞞に屈したのだ。この欺瞞は、世界のユダヤ民族がアーリア人種との闘いで使用する最悪の武器の一つである。

では、なぜアリーは世界史の轟きをかくも聞き違えたのだろうか。彼は、戦争借款がドイツ国民に何の負担も課さないかのように扱って、逆の結論に達したのである。「戦争借款の返済は、将来ドイツに敗戦した敵国に課される賠償金から支払われるだろう」と。ベルリンの左翼日刊紙『TAZ』の紙面で私と交わした議論では、「戦争のためにドイツの資本市場に取り込まれた債権(credits)」によって、ヒトラー政権はドイツ国民に「実質的な負担」を負わせることを「延期」し、その債務(debts)はヨーロッパの「奴隷となった国民にできるだけ早く負わせる」つもりだったとアリーは説明した。

借入によって社会が経済的負担を将来世代に転嫁できる、あるいは逆に将来の資源を現在にテレポート(時空移動)できるという魔法のような考えは、決してアリーに限ったことではない。数年後、ウォルフガング・シュトレックが『Buying Time(時間を買う)』と題して出版したアドルノ講義の中でも、同様に誤った議論が繰り返されている。この誤りは、ミクロ経済とマクロ経済の視点が混同されていることに起因している。個人の借り手は、購買力を時を超えて移転させることができるが、社会全体としては、「外」から、つまり他の社会から借入を行わない限り、購買力を移転できない。「時間を買う」人には、時間を「売る」人がいなければならない。より深いレベルでは、このような形而上学的な力を負債に帰することは、負債関係の不気味さを響かせる。この不安感は、保守派と同様に、アリーやシュトレックのような左派にも共有されている。

ここで、シュンペーターの財政社会学への誘いによって提起された「負債と租税をどう捉えるか」という専門的な問題と話が噛み合ってくる。そして、シュンペーターの最初の論文が第一次世界大戦後の文脈の一部であったのと同様に、この考えについての議論は単なる知的訓練ではなく、財政政治とそれを理解するための我々の努力に内在するものであることが明らかになるのである。

財貨による戦争財政の錬金術的誤謬を最初に真正面から批判したのは、ジョン・メイナード・ケインズが1940年に出版した『How to Pay for the War(戦争のための支払いをどうするか)』〔邦訳『戦費調達論』:参照〕というパンフレットである。しかし、ケインズのような超一流の天才でなければこのことを解明できないと考えるのは誤りである。ヒトラー政権の財務大臣シュヴェリン・フォン・クロージクは、自身の回想録『Bilanz des Zweiten Weltkrieges(第二次世界大戦のバランスシート)』(オルデンブルク、1953年、p.323)の中で、この議論を完璧な明瞭さをもって綴っている。

租税は現在に負担を生じるが、借入は将来世代に負担を生じるものだというよくある議論は間違っている。戦闘部隊に必要な物資は、過去に蓄積されたストックか、現在生産されている物資からしか供給できない。負担を未来に転嫁することはできない。

ナチスの戦争遂行を管理する側としては、アリーが提案したような魅力的な取引を提供できるとは微塵も思っていなかった。明らかに、戦争のための資源は、他の経済活動と同様に、現在の生産のフローから見出されなければならない。国家はその活動資金を調達するために国民から借入を行うことができるが、1930 年代後半からドイツで一般化していたような完全雇用の条件下では、国家活動の大規模な増加は、その資金調達にどのような仕組みが使われようと、他の経済活動、輸出や民間消費、民間投資を犠牲にせざるを得なかったのである。1930年代後半には、ナチス政権期の省庁は「生産ギャップ」と過剰なインフレについて明確な考えを持っていた。同じ労働力と原材料を二度使うことはできない。また、将来の労働力や機械の能力を現在に利用することもできない。軍事活動は、非軍事的な公共サービスの削減、消費と民間投資の削減を通じた実物資源の転用によって維持する必要がある。国債発行が行うのは、(それが将来多かれ少なかれ信頼できる補償を約束するものであるか否かにかかわらず)一連の政治的宣言と契約上の義務を介在させることである。しかし、それも将来の税収のフローからもたらされるものである。借入の機能は、それ以上でも以下でもなく、契約上の合意を通じて現在の資源分配を、その鏡写しとしての将来の資源再分配に結びつけることである。

もちろん、占領地はナチスの戦争努力に対して多大な負担を支払った。占領地は、ヒトラー政権が非効率ながらも大規模な資源を引き出すことのできる「外部」だった。皮肉なことに、このような占領下のヨーロッパからのフローを考慮する場合、アリーの考えはドイツに対してよりも明晰である。例えば、占領下のフランスからの輸入は、占領税だけでなく、フランス当局に課されたドイツへの融資によって賄われたが、アリーは、占領税として支払われたわずかな一部だけではなく、そのフロー全体をフランス経済に課された直接的な負担として認識している。

戦争努力に対するドイツ自身の負担を適切に算出すると、外国の負担はどのくらいになるのだろうか。マーク・ハリソンが集めた数字に基づいて私が『ナチス 破壊の経済』の中で推定した数値では、概数で25%になる。もっと最近では、ハイン・クレマンの計算によって外国の負担比率は28%に上方修正されている。

表2 占領下のヨーロッパがドイツの戦争経済に支払った負担(1938−1944) 出典:クレマン

つまり、ナチスの戦争努力に対するドイツ社会の負担は、アリーが示唆した 30%ではなく、72〜75%だったのである。もちろん、戦争努力のために消費や民間投資を控えて節約していたドイツ人同士の政治的駆け引きは、ヨーロッパの他の地域に課されたものとは異なっていた。しかし、アリーが示唆したような「心地の良い独裁」とは言い難く、少なくとも、その良い雰囲気はアリーが描いたような粗雑な唯物論的方程式に起因するものではなかった。戦争後期には、第三帝国は激しい要求と動員を行う独裁国家になっていた。それは、第一次世界大戦の総力戦経済を改良すると同時に強化するものであり、巨大な国家努力だった。経済的な強度は、より要求の激しいソビエト政権に次ぐものであった。

重要なのは、第三帝国が理解していたのは、(そしてこの点がヴィルヘルム帝政期との違いだが、)結束力のある国内戦線を維持する必要性だった点である。この目的のために、第三帝国はドイツ国民全体への食糧配給をはるかにうまくやり遂げた。そして、ドイツ人が優位に立つような労働の人種的ヒエラルキーを作り上げたのである。この30年間、ヒトラー政権に関する歴史文献において、「フォルクスゲマインシャフト」(民族共同体)と「人種国家」が重要な用語となったのは、決して無意味ではない。これらの用語は、権力と不平等の構造が人種的な観点から再編成されたことを捉えようとするものである。こうした用語によって、消費と民間投資からの資源を実質的に移転することと、人種的同志の間の結束と(さらには)連帯の新たな感覚を構築することとが結び付けられたのである。

1990年代以降の学術的な議論の行く末を知るには、2010年代に出版されたフォルクスゲマインシャフト人種国家に関する2つの主要な英文論文集を読むことを強く薦める。

ナチス 破壊の経済』で私が注目したのは、資源の転用、すなわち軍事支出の大幅な増加である。これは、平時の6年間で、資本主義国家が成し遂げた最も劇的な業績だった。この軍需産業の急成長は、消費者投資(とりわけ住宅投資)や消費の犠牲の上に実現した。しかし、これを軍国主義対消費のトレードオフと単純に解釈すべきではない。軍産複合体は巨大な社会現象だった。急速に拡大する近代的軍隊の建設は、集団的な公共消費の一形態であり、他の消費形態がそうであるように、アイデンティティを形成し、あらゆる種類の快楽をもたらすものだった。若い男たちは兵士になった。彼らの多くは、その体験に喜びを得ていた。1935年に再び導入された国民皆兵制度は、大好評を博したのである。年配の男性も隊列に戻った。再軍備は、国家が個人、男性、女性、あるいは家族に対して外部から押し付けたプロセスではなく、フォルクスゲマインシャフトの不可欠な構成要素だった。フォルクスゲマインシャフトは、単に人種に基づいて構成される国家であるだけでなく、武装した国家だった。私に言わせれば、ナチスの人種差別に関する比較的豊富な文献と比較すると、第三帝国の軍国主義に関する社会的・文化的歴史文献は、軍国主義の物質的な顕現と文化的な装いを含めてもまだ不十分である。時折、我々のナチスの軍備に関する知識は、その本来の歴史よりも、その後遺症に偏っているように思われる。

このような歴史は、自動車や飛行機がもたらす魅力を探求する一連の研究からヒントを得ることができるかもしれない。例えばW・サックス『For Love of the Automobile(自動車への愛)』(Berkley, 1992)やP・フリッチェ『A Nation of Fliers. German Aviatin and the Popular Imagination(飛行士たちの国家)』(Cambridge Mass, 1992)といった研究が存在するが、私が痛感するのは、こうした文献は30年も昔の研究であることだ。しかし、第三帝国であれ、その他の非自由主義体制であれ、さらには西側諸国であれ、覇権と体制の安定を理解しようとするとき、我々はいまだに、物質的動機とイデオロギー的動機を粗雑に並列させるアプローチに囚われている。そうした動機が互いに不可分に絡み合っているのではなく、別個であるかのように考えている。この点をよく示しているのが、2016年のトランプとポピュリズムに関する議論や、(私個人が好んで例にあげる)2008年の金融危機とスマートフォンや現代のソーシャルメディアの出現の偶然の一致である。アメリカ資本主義の政治史において、アップルは大きな役割を果たしている。

いずれにせよ、1930年代のドイツにおける民間消費の発展と消費社会の一般化は、間違いなく政権の優先順位による制限を受けていたが、抑圧を受け、完膚なきまでに押さえ込まれていたわけではない。政権にとっての中心的な優先事項は、要求をしないことではなく、急激な不足や危機を引き起こさない方法で要求をすることだあった。その結果、大衆規模におけるささやかな繁栄とエリート層の豊かさが実現した。このバランスは驚くべきものでもない。2022年から遡って、2000年代初頭にドイツで行われた1930年代と1940年代に関する議論を振り返ってみると、必ず想起されるのが過去30年から40年にわたるアジアの経験から学んだこと(最初は日本、次に韓国、中国)である。いずれの国も、その多くが公的資金による壮大なレベルの投資によって成長を遂げてきた。このことは、多くの勤勉さと、それに伴う消費への圧迫を意味する。しかし、このようにマクロ経済のバランスが 「実現されない約束」(jam tomorrow)に著しく偏っていることが、ダイナミックで革新的な消費文化の発展を決して妨げていたわけではない。ファッションや流行の発信は、巨大な再軍備やインフラ整備に比べればコストが低い。銃や高速鉄道が存在すると同時に、レニ・リーフェンシュタールの映画や時折の夏の遠出、「ファスト・ファッション」、ウェイボー、TikTokにK-Popも存在することは可能だ。私は、この2つの経験の間に強い類似性があると言いたいわけではない。むしろ、1990年代から2000年代にかけての戦間期に関する議論を支えてきた歴史的想像力が、1960年代以降の西欧とアメリカの経験によって狭く制約されているように見えるということだ。

またおそらく、同じ点を別の方法で指摘することもできるだろう。もちろん、ナチス・ドイツにおける消費は、現代の豊かさの水準に達していたわけではない。また、近年のアメリカやイギリスのように、消費を成長の主要な原動力として優先させることもなかった。さらには、1930年代のナチス・ドイツの経験は、ソビエト連邦の経験と何ら似ているわけでもない。再軍備のため、さらには戦争努力のために餓死する国家的同志(Volksgenossen)はいなかった。実際、ナチス政権は、来るべきドイツ社会主義の約束を組織的に喚起した。それは、アリーによって診断されたとされる現実ではなく、勝利と征服が完了した後の未来にある「経済的奇跡」の約束であった。

では、どのようにしてこの緊張感を維持することができたのだろうか。これが、ビルテ・クンドゥルスが様々な論点をまとめる試みの中で提起した重要な問題である。

しかし、説明する必要があるのは、国家社会主義の指導者たちが、どのようにしてこれほど長い間あからさまな失望を抑え込み、民衆の両価性と(フォルクスゲマインシャフト計画および大衆消費社会に結びついた)多様な希望とのバランスを取ることができたのかである。私なりに説明すると、ナチス政権は消費者政策において、感情的な付加価値、つまり消費の持つ社会的ユートピアの性質を利用した。しかし、この約束としての消費の本質は諸刃の剣だった。なぜなら、願望が失望に転じないためには、その願望が実現されなければならないだけでなく、国家的同志(Volksgenossen)の習慣には顕著な我意(Eigensinn)があり、ナチスの官僚が必ずしも期待していなかったある程度の自発性もあったからである。そのため、政権はかなり洗練された危機管理戦略を開発しなければならなかった。その中心は、配慮という煙幕であった。

クンドゥルスはこの点を次のように正確に説明している。

別居手当(Familienunterstützung)。別居手当とは、第二次世界大戦中に徴兵された兵士の家族を養育するための手当である。この手当は、徴兵された兵士の家族に対し、その扶養のために支払われ、家族の収入のうち男性の扶養家族に生じる損失を補償することを目的としていた。国際標準に照らしても、ドイツ帝国の基準で見ても、気前の良い金額だった。これは、兵士の犠牲を考慮した、その家族に対するコミットメントの表れであると同時に、本質的には1918年に家庭戦線が崩壊したことに対する対応だった。アリーは、これをナチス政権が施行した「良い」社会政策のひとつであると正しく評価している。しかし、別居手当の話は、アリーが言うように、何百万人もの兵士の妻たちがドイツの自宅で、もらったお金に満足し、ヒトラーが自分たちの面倒を見てくれていると感じている状態で終わったのではない。…このような家族は、権利意識を持つようになったのだ。

住民たちは言い争って、役所に訴える。現金給付による手当は、消費への願望と欲求不満を刺激する。

しかし、この制度にはまだ希望と信頼があり、短期的にはより高い生活水準を求める個人の願いをかなえることはできないかもしれないが、長期的にはすべてが可能になると常に繰り返されていたのである。…しかし、フォルクスゲマインシャフトのコンセプトは、単なるレトリックの側面にとどまらない。それは、ナチス政権が少なくとも大衆の基本的ニーズを満たすことを約束し、服従と自己主張の間で揺れ動く国家的同志(Volksgenossen)に対して、政権の要求を拒絶しないよう仕向けるものであった。…別居手当の例は、社会経済政策に関するあらゆる措置が、たとえ当初は国家的同志によって歓迎されたとしても、満足だけでなく緊張をも生み出すのが一般的であることを示している。別の言い方をすれば、ある種の手当は大衆のニーズの一部を満たすが、同時に新たな願望を生み出す傾向があり、もしその願望が満たされなければ、社会崩壊のリスクが生じるのである。そこで、ナチスの官僚とその危機管理の出番となった。忠誠心は物質的な利益だけでなく、紛争があっても自分たちの生活は守られているという感覚によって保たれた。…戦争が長引けば長引くほど、当局は仲介役としての役割を果たせなくなり、結局、紛争を和らげることしかできず、解決することはできなかった。とはいえ、第一次世界大戦の時のように、抑え難い社会的な不安が生じないようにするには、当局の配慮が重要な役割を果たした。

別居手当の明快かつ瑣末な話から、財政収支に世界史の轟きを読み取るシュンペーターのビジョンに話を戻すと、クンドゥルスが私たちに指し示すのは、フォルクスゲマインシャフトは決して完成された静的均衡ではなかったという事実である。それは、明確に現れる資源配分から簡単に読み取れるものではない。むしろ、不足と欠乏を背景に、楽観的な未来像を媒介として、約束、施しと期待の間で絶えず揺れ動くことによって実現されたのである。フォルクスゲマインシャフトは、フォルクスワーゲンやアパートといった実際の施しという形ではなく、恩恵を受ける側と与える側の間の、多かれ少なかれ配慮の行き届いた、あるいは議論しやすい継続的な交渉の中で現実のものとなっていた。物質的な給付の施しを行うという単純な政策ではなく、この交渉こそが、ある程度の楽観性と未来志向の正統性を維持するものであった。

今日の政権の安定を考えるとき、それがウクライナやロシアであれ、中国やトルコであれ、さらには危機の瞬間に袂を分かった西側諸国でさえ、この交渉という考え方は、財政収支から世界史の歩みを見分ける方法というシュンペーターの大構想を補完する有用かつ必要なものである。

[1] 冒頭の引用は、同邦訳の訳文ママ
[2] 『Statistics and the German State: The Making of Modern Economic Knowledge』(2001年)、『The Wages of Destruction: The Making and Breaking of the Nazi Economy』(2006年)〔邦訳『ナチス 破壊の経済』全2巻、山形・森本訳、みすず書房、2019年〕

Adam Tooze, “Chartbook #186 Solicitous dictatorship. The political economy of authoritarianism – Aly v. Tooze revisited.”, Chartbook, Jan 7, 2023.
〔翻訳:goethe_chan
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