四、ステージⅠのがんでさえ、私に携わった医療従事者は数知れず。
私の身体にがんが見つかったのは、今から八年前だった。自らのがん体験を投稿するのには、躊躇いがあった。一つは、十年生存率に数えられる二年後を待ちたかったこと。そしてもう一つは、ステージⅠで発見できたため、経験が乏しく、読み応えある文章など書けそうにないことだ。それでも書こうと思ったのは、いまこの時を、医療の最前線で奮闘している医療従事者へ、エールを贈りたいからに他ならない。
初めての人間ドック
健康保険組合は、三十五歳以上の被保険者には健康診断ではなく、人間ドックの受診を推し進めている。当時三十九歳だった私は、費用負担を憂いつつも渋々受診することにした。人生初の人間ドックであった。程なく診断結果が郵送で送られてきたが、その内容に驚愕した。一項目がD判定となり、そこには「腎腫瘍の疑い」と記されていた。早速検索エンジンに「腎腫瘍」と打ってエンターキーを押すと、その一分後には涙を流していた。この日に思う存分泣いたので、以降は泣かなかった。
私が検索エンジンに入力した言葉は「腎腫瘍」だった。にもかかわらず検索結果は「腎細胞がん」「腎臓癌」とがんを示すものばかりであった。数時間後に帰宅した連れ合いと相談して方針を決めた。上の子の学校が夏休みに入ったら早々に帰省し、帰省先で手術を受け、入院中の二人の子の面倒は実家に見てもらい、夏休みが明けるギリギリまで静養するというものだった。人間ドックを受けた病院からは、なかなか受診しない私を心配して、幾度か電話がかかってきた。
医療資源を甘く見ていた
夏休みに入り、私は二人の子を連れて片道切符で帰省した。事情を親に話すと、一刻も早く受診するよう言われ、腎臓内科に定評がある病院を勧められた。「内科ではないんだけど…。」と思いながら診察室で待っていると、案の定泌尿器科へ遷された。そして、次の日にCTを撮ってもらった。画像診断の結果を聞きに再度受診した。画像には病変がくっきり映し出されていた。腎臓は生体検査ができない臓器であることから、悪性腫瘍、つまり「がん」とみなすのだそうだ。家庭の事情から夏休み中に手術を受けたいと医師に話すと、
「群馬に帰って、あちらで手術を受けてください。」
とあっさり断られた。多くの患者が手術の順番を待っており、そのような理由で順番を早めることはできないと言うのだ。私の目論見は甘かった。
群馬に戻り、CTの画像が入っているCDと紹介状を持って、泌尿器科に明るい高崎市内の病院を訪れた。そこで思いもよらないことを告げられた。この手術ができる病院は高崎にはなく、県内のニつの病院に集約しているというのだ。埼玉県への転居が決まっていたので、転居先に近いほうの病院を選び、その病院で手術を受けた。切除した病変を検査した結果、案の定がんだった。
私ひとりのために
私ががん治療を受けたのは三十九歳で、AYA世代特有の問題に直面した。それは、私が入院中に誰が育児を担うかであった。上の子は小学校低学年で、下の子は一歳だった。連れ合いは休暇を取る事ができなかったため、最終的には双方の実家に救援を頼み、自宅へ来てもらったが、その過程ではソーシャルワーカーの助けを借りた。
私のがんはステージⅠで、手術以外の治療は行っていない。それでも、診断が下されるまでの過程、手術の準備段階、入院中、そして退院後の経過観察等で、多くの医療従事者にお世話になった。主治医、画像診断医、執刀医、麻酔科医、病理専門医、薬剤師、看護師、褥瘡ケアの認定看護師、臨床検査技師、放射線技師、ソーシャルワーカー。入院中は、入れ代わり立ち代わり様々なスペシャリストに出会った。私ひとりの病気を治すのに多くの医療従事者が関わり、各々が献身的だ。その一人が欠けても、私の治療は成り立たいのだ。本当に頭が下がる。
私は、医療現場がひっ迫している現状を憂いている。あのとき適切な医療を受けられなかったら、私は今日という日を迎えられなかったであろう。医療従事者の皆さんに助けられた命がここにあることを、いま伝えたい。
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