遠 望
部屋の窓から遠くに山々の稜線が見える。
よく晴れて空気が澄み切っている時など、かすかに点のような富士の姿も。
窓外のそれらを長い間見ている時は、何かと向き合うのに困難を覚えている時が多い。
何に向き合う事を困難と感じるかはその時によって様々だが、今は“国”という概念に対してである。
もう10代終わりから20代始め頃より、私はこの国は“国”(西欧の概念における国、意味合いとしてはstateに近い)と呼ばれているが国“のようなもの”であって“国”ではない、と思ってきた。
独立国として世界に認識されてはいるが(一部本当にそう認識しているか怪しい国も世界にはあるが)、四方を海で囲まれているという地政学的幸運によってたまたま侵略・支配を受けていない状態を“独立”というなら、そうなんだろう、という認識だった。
この国“のようなもの”には、政治と言われるモノがあるのは知っているが、それらは政治“のようなもの”であって政治ではないと思ってきた。
政治家と呼ばれる人達がいるのは知っているが、彼らは政治家“みたいな”人達であって、公利の為に身命を賭して働くという概念とは全く別の種類の活動家で、党は活動家の人達の寄り合いだと思ってきた。
そして、国や政治“のようなもの”や政治家“みたいな”人達の事をまともに考えなくなって随分経つ。
政治は政治家“みたいな”人達“芸人”が演ってる三流の“漫才”として観ていた。
どうせ三流漫才なぞこの程度と色眼鏡で見たあげく、彼らの行動をまともに追ってもいないのにわかったつもりの思考停止に陥っていた、と気づいた時、しばし呆然となった。
そこへさらに思考を停止させる事態が起きて、(まともに考えんのやっぱやめとこかいな、もう)とも思ったが、この国“みたいなもの”にのうのうと住んで生きてるならば、それだと居住と人権にともなう責任を放棄したまま、権利だけは手放さずその上に胡坐をかいているだけになり、どっかの“みたいな”人達と同じになってしまう。
小沢一郎氏が、岩手県奥州市(メディアによっては一関市としている所も)の街頭演説で語った内容を知るにつけ皮肉交じりの苦笑が浮かんできて、(やっぱり漫才をやってる)と思いたくなるが、そうやって思考停止してしまえば彼らが何を背負うべきで、それを背負っているのか、いないのか、いなかったとしたら背負わずに何を手にしているのか見えなくなってしまう。
見えたところで何も変わりはしないし、ましてや“みたいなもの”や“のようなもの”を変えたいなどとは露とも思わないし、何かを期待もしていない。
ただ何も見ていない、見えていない状態で笑うより、見えて、わかった上で笑うべきだと思った。
前の記事で、私は電力不足の事を書いた。
危機をマスコミ、行政、業者、市民が力を合わせれば乗り切れるのではないか、という風に書いたのだが、その記事にコメントをして下さった中の一つが、私の欠けている視点に気づかせてくれた。
視点を認識と言い換えてもいい。
(欠けてんのはそれにとどまらずどっかの携帯会社やないがどこもかしこもあっちこっち欠け放題やないかというセルフ突っ込みはこの際置くとして)
電力不足の負担を市民が負わなければならない時、その市民の中から選ばれ、公利の為に働く事になっている人達は何をしているのだろうか?
いや、そもそも市民が負担を負わなければならなくなるまで、その人達は何をしていたのだろうか?
複数のwebをあたって、貯めておく事ができない電気の供給は、作る量と供給する量が同等という必要があり(余剰分は逃がしたり、放電して廃棄されたりしているが)、将来(といっても来月分とかの近い将来)必要となる電力を計るには、過去のデータを基にシュミレーションするしかなく、その際の多岐にわたる不確定要素を全て網羅する事は難しく(例えばちょっとした気候変動によって使用される電力量も違ってくるが、気候は人流の多寡にも影響される為細かい予測がたてづらく、そうした予測不可能な状態が複数あってそれらが連鎖的に複合して起きた場合など)、従って需給バランスの調整が難しいというのはわかった。
運転を止められない原子力発電をベースに電力を作り、その上で水力、火力、太陽光、風力、地熱の発電所などが作る電力で量を調整しているらしいが、市民に負担を強いる事がないよう力を尽くして調整されているのか、いざという時はまた節電してもらえばいいという、節電ありきで調整されているのかでは、負担を強いられる側の心持ちが違ってくる。
何でもかんでも“国”や公的機関を頼るという事ではなく、“彼らが責任を負うっていうのは、具体的に何する事なの?”という事を知りたくなった。
彼らがその責任を、どのように負っていてもいなくても、節電に協力する事に変わりはない。
ただ知っておきたい。
今まで知ろうともしてこなかっただけに余計そう思う。
知ったところでそれが何になるわけでもないが、例えばとんでもない努力の積み重ねがそこにあると知れば、節電への協力にも力が入るというものだ。
先程述べた小沢一郎氏の言葉である。
骨の髄まで政治家でありたいと思っているんだな、と思う。
人が命を失くした事に対して言う言葉か、といった非難の声が上がるのも当然だが、それは人に向かって言う事であって、彼は人ではない。
政治家“みたいな”生き物、と私は思っている。
人である事を犠牲にしてまで得た立場なら、守るべきもの(例えば国民の命)を守るのが責任ではないのか?
節電にならないように、死力を尽くすのが責任ではないのか?
守るべきものを守って初めて、その立場に立った事になるのでは?
誰かを守ってこそ、人ではなくなった者がこの世で人として生きるのを許されるのであって、守るべきものを守れないのなら、それはただのバケモノになったというだけに過ぎない。
一部のメディアが、小沢氏が街頭演説を行った場所を一関市と報道していた。(大多数のメディアは一関市の上隣にある奥州市と報じている)
“一関”という文字を見た時、この句が浮かんだ。
松尾芭蕉さんが、旅の途上、一関を訪れた時、栄華を誇った奥州藤原氏と義経達の事を詠ったと言えるこの句を、一時期、長宗我部氏の事を詠っていると勘違いしていたのは懐かしい(恥ずかしい)思い出である。
司馬遼太郎さんの影響力ってすごいですよねぇ、と誤魔化しておく。
松尾芭蕉さんといえば、杜甫に強い影響を受けていた事は周知の事だ。
私が彼の句を長宗我部氏のうただと勘違いしたのと同じだ。
(それは羞恥だ!)
窓外の稜線を長い間見ていた時、頭にこの杜甫の詩の言葉が繰り返し響いていた。
国破れて山河あり 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙をそそぎ
別れを惜しんでは鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり 家書万金(ばんきん)にあたる
白頭掻けばさらに短く
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
唐の時代、755年から763年にかけて起きた楊貴妃の死を招く因ともなった安史の乱(安禄山の乱)で、杜甫が暗殺された安禄山側に捕われていた時の事を詠った詩である。
題を『春望』。
“国破れて山河あり”・・・“国破れて山河あり”
都は破壊されつくしても、山河は変わらずに悠然とそこにある。
彼らが責任を負おうが負うまいが、守るべきものを守ろうが守るまいが、自分として生きていく事に変わりは無い。
彼らが負ったのか、負わなかったのか、守ったのか、守らなかったのか、負わなかったのなら、守らなかったのなら、彼らは何を手にしたのか(手にしたものを本人が誉れと思っても、他からはゴミにしか見えない事もある)。
見据えた上で笑いたい。
窓外から目線を外すと、私は30数年ぶりの投票に向かう為、市役所からの通知の入った封書探しにとりかかった。
見つけ出すまで、2時間ちょいかかった。
遅刻しそうになった。
(山なんぞに見とれとる前に、探し出してから見とれろよ!
破れとんのは国やのうて、おどれの脳みそじゃ!)
それにしても、電力・・というか、エネルギー・資源という分野はこんなにおもしろかったのか!
(おもしろがってる場合ではないが)
近い将来、東電がテスラ社に取って代わられても不思議はない、とか、EUのEV包囲網に対して水素エンジンとウーブンシティでお茶を濁してるトヨタが、EV車製造段階におけるCO2排出量及びその車が廃車になるまでのトータルで見たCO2総排出量、という論拠だけで今の状況をひっくり返せるのか、とか・・・etc。
次の記事でその辺りを。