見出し画像

これからを生きるちから

珍しく夜にnote.しています。

だからちょっとテーマが重めかもしれません。

でも。
ネタ元(?)の一節がふと浮かんだのは3日前で、一語一句同じワードが今日もまた思い出され。

やっぱり今だからこそ必要としているんじゃないかってことをどうも感じることなので書きます。

今、世の中的には「感染症対策」ということで人と人を遠ざけ、主に人対人のサービス業や、人が集まるイベントやエンタメなどをやめよう、となり、

おうちで既存の映像素材(NetflixとかYoutubeとかいろいろ含め)を見るとかストリーミングできる音楽を聞くとか、アーティストのリアルタイムなSNSエンタメ配信などを見るとかそういうかんじになり。

当然、友人知人、お客さんなどはもとより、もはや血縁家族であっても別居しているひととはそうそう会えないという時間がすでに1ヶ月過ぎようとしており。

いまだかつてなく「繋がり」不足のストレスや不安を感じている方がほとんどでは、と思います。

これも”繋がっている”ことと無関係ではないと思いますが、そういう状態により未来への不安なんかがこれまで感じたことないようなものに押しつぶされそうになるのをなんとかやり過ごしている、という方も多いような気がします。

社会的、精神的「死」を経験して

わたしはかつて、

生きるか死ぬか

という瀬戸際を経験したことがあります。

それは肉体死についてもそうですが、精神的そして社会的な死、です。ちなみに病気で、ではありません。

単に「一生懸命生きてて」の結果です。

社会的な死については”瀬戸際”ではなくてすでに「死」そのものに行き着いていたと思います。

なぜならその頃たった200万の借金を月1万円のリボ払いにしてもなお支払えない月の方が多くて、家具ひとつもないぼろアパートで毎食の食費が100円を超えたらその月の支払いをどうしたらいいかわからなくて心臓が飛び出そう、とかいう状態だったから。

精神的な死も、すでに到達していましたね。

いまどき「勘当だ!」とか言われて実感を追い出され7年あまりすぎた頃でしょうか。 親兄弟とも音信不通、古い友人とも自分の自分のみじめな有様を知られたくなくて連絡できず。

東京で知り合うひとすべて、気を合わせることはできても個性豊かで才能にあふれるように見えるひとたちといれば自分の劣等感を強烈に刺激されることに耐えきれず。

がんばってもがんばってもどうにも理想どころか真逆の、ひらけもせず豊かさが積み上がるどころか頑張るほど借金がふくれるという地獄のような日々。

頼る家族も包み隠さず苦しみを聞いてくれる友人の存在もなく、孤独でみじめでひもじい生活。

辛すぎて朝目覚めてもその現実にたたずむことすらできずにア○中寸前、いや、すでにそうですね。 意識を麻痺させなければ「生きる」ことすら続けることが難しい状態でした。

ある意味すでに死んでますね。

でもね、そんな「ほぼ死」状態からどのくらいの時間がかかったかな…。

たぶん「死」状態から「しらふ」状態にシフトした時間軸ってすごい短かった。

たしか「あ。」って気づきが突然起こって、ほんで不安とか恐れとかその気づきとほぼほぼ同時にざっ!と当時持ってたそれが全部消えて。

ぎゅんっ!って体がいきなり軽くなった感覚すらありました。

社会的な状態とか肉体的な状態とかが回復してさらに発展まで行くのはもうちょっと時間軸必要としましたけどね。

でもそれも結構そんなに時間かからなかったかな。

あんなに月1万円でも返せなくてリボだから増えてって全然減らなくて死にそうになってたのに、それから2年〜3年くらいかな、途中50万円とか一気に入れたりしつつ平均3〜5万円くらい入れて返してって最後また15万くらい入れてガッと完済。

仕事とかも完全やめて半年まともに働かないでヨガ通いまくったりしたし、その次仕事再開するときも「いつやめてもいいわあ」とゆるく、「どうせならやりたかったことやろう」とサロンへの再就職の条件とかかなり自分の要求出したりしたけど、すんなり決まってトントントン、と生活状態は良くなっていき。

それまでの仕事もなぜか繋がりは失われずに続けていけたり。

完全に独立してフリーの活動に入るときも結局はどん底のときの体験があったから、やばい!ってなってもあの時の「気づき」の流れを追体験して『おかしなこと』にはならず、ハマらず。 5年経てば9割消えると言われる一人事業で10年以上生かされています。

それだけじゃなくてこれまでの中で「これはやばいなあ」っていうことって何度もあったんだけど、全部「大丈夫」に(中には大丈夫以上のことも)なってきました。

その「気づき」は誰にでも起こせる

その「気づき」っていうのはどうやって起こったというと。

もうどうにもどうにも、どうにもならないんだ、って諦めて(明らめて)そのときのまるごと、みじめな自分自身もみじめな現実もすべてそのまんま「見た」んです。

そしたらあんなに怖くてみじめでつらくて生きている理由もわからなくてこのまま野垂れ死ぬかも、と思ってたあの気持ちの”おもり”みたいに思い何かが溶けるみたいに一瞬でしゅっ…ってなくなっていって。

ああ、なんだあんなにそのことでくるしみもがいていたのに、あれは幻みたいなものだったんだ、と体感をともなって起こったんです。(気づきが。)

前述のみじめな生活、たしか3年くらい続いていたはず。(実は記憶がかなり飛んでいたり、なかったりするところがあります(汗))

でもそのほんのすこしの瞬間で、突然視点のシフトが起こっちゃったんです。

なんというか、静かな「まんなか」に戻る感じ。生でも動でもないような。

ぼかっと自分が穴ぼこみたいになった感覚でした。

もっともっとシンプルに言えば

「くるしい」のも「こわい」のも「かなしい」のも「つらい」のも、生まれた感情や感覚はあまりにヘビーで時には激しい震えすら起こるときもあります。

が。
そむけたり殺したりやり過ごしたりなんてせずに「やりきる」。

「やりきる」ことで、もしかしたらちょっとお漏らしくらいしてしまったり、いい大人が赤ちゃんみたいに泣き喚いてしまうかもしれませんがそれでも。

「やりきる」ことで、その流れは誰にでも起きるのです。


「恐れ」とか「不安」とかはあまり長く持っていると健康(心身ともに)も免疫力も害します。

でも「やりきる」時間は、押し殺したりやり過ごす時間と比べ物にならないくらい短いので心配いりません。

むしろ押し殺したりやり過ごすことで増大し、実際に実害を発動してしまいます。

なにより、自分で自分の「今」この瞬間の連続でしか迎えられない「未来」を創る”自分自身”という存在を、エネルギーを想像するよりはるか以上に蝕み力を失います。

それは「今」は…とても有害であろうことはきっと感じていただける気がします。

これから(”今”から)、「生きて発展していくちから」は、『今』を「やりきる」ことで自分をまんなかに戻し、視点を戻すちから。

今だからこそ。

ほんとはあんまり外出しないから重宝するコスメレポとか軽いの書こうと思ったんですけどね。

また書きます!

いいなと思ったら応援しよう!