思想と信念と宗教と #02 洗脳と妄想
前回は解釈はそれぞれ違うよね、ってとこまででした。
もとはといえば、昨年の秋頃からこの「信じる」について解釈の疑問が多すぎるように感じていたので、書き始めたのでした。
解釈の齟齬、定義の受け取り方、個人個人の認識違い、クオリア問題。
全員が全員、違う世界観や価値観があるのだし、それはまあ仕方ないでしょう。
問題なのは「自分(あるいは自分の所属する組織)の主義・思想こそ正しいのだ」と言う姿勢。そしてそれによる大なり小なりの争いごと。
これは前回述べたように、アイデンティティを守りたい自我の防衛システムの発動なのだけど、
それにしてもまあ、時々度を越して全否定やら誹謗中傷やらの書き込みや報道がアップされるたびに「ふーん、それじゃ君は絶対的に正しいと何を持って証明するのだね?」と思ってしまう。
そんな「正しさ」なんてもともとありゃしない。
言葉で定義つけられたものなんか全部、人間が作った概念なんだから。
もしも自分こそが正しいと主張するなら、また新しい定義を作るほかないね。
神でも仏でも科学でも正義でもUFOでも、なんでもいいから、とりあえずここに出して見せればいい。
ここにありもしないものを「ある!」と主張するから争いが起きる。
ちなみにこれは「ない!」と言うのも同じ。
どこまで行っても洗脳教育・洗脳社会
思想や宗教が悪いって言うんじゃない。
誰がどんな思想を持とうが自由だと思います。
だって、
勝手に湧いてきた思考を止められますか?
勝手に思いこんだ信念をそう簡単に書き換えられますか?
デリートや上書き保存くらい簡単ならそれもいいでしょう。
でも、私たち人間は、残念ながらそれは簡単にはできない。
もしそれを強制的にしようとすれば、それを洗脳と言います。
念のためウィキペディアで調べますと、こんなんでました。
これも私の解釈と同じでホッ。
単調な環境で同じものをずっと視聴し続けると、洗脳にかかりやすいそうです。
宗教なんかはこのテクニックを使うそうです。
かつてはナチ○や、赤い思想を掲げる国家なんかも使っていましたね。
軍や政府だけではないです。
ほんの数十年前の日本でも、軍の命令は天皇の勅令とばかりに、絶対服従を強いていました。隣組なんていうのもありましたね。
警察が冤罪の容疑者に罪状を吐かせる時にも、狭い空間や暴力や暴言でやってもないのに「自分がやった」と自供させていたようです。
昭和の時代には暴力的な教師もよくいました。
宿題忘れゲンコツ、遅刻はビンタ、その他の罰則に校庭何周とか。
学校の授業の内容も偏っていますよね。
普遍的な基礎教育なんて、法則のあるものだけでOKです。使うとこなくても。
それ以外の古い価値観や常識は要らないと思います。
(曖昧な歴史とか、偏った最新科学情報とか)
興味があろうがなかろうが、勝手に入ってくるので無意識にキャッチしてしまうんですね。
企業の新人教育やマニュアルなんかも同じ手口ですね。
メディアの情報、テレビやニュースやSNSでの拡散情報も同じ。
勝手に情報がどんどん入ってくるので、そうなんだと思い込む。
もともと興味のない対象であればあるほど、自分で深掘りすることもなく、
浅い情報をそのまま信じる。
まあ、どっちでもいいのなら、ネタ的に持ち合わせとく程度ならいいけれど、
周囲の反応を鵜呑みにして同調してしてしまうのと、今度は無自覚な同調圧力になっていく。
そうやって社会の枠内で同じ傾向の価値観を持って、その時代ごとの社会通念が生まれる。
もっと個性を尊重してほしい、あるいはもっと特別でありたいと思いながらも、
知らず知らずに周囲と同調した意見に偏っていくパラドックス。
でもこれも仕方のないこと。
本人が悪いわけでもなんでもなくて、社会に身を置いた以上、その環境で経験を積み重ねることでじわじわと培われていくのだから、気づきようもない。
つまり全員が無意識に無自覚に洗脳されているようなものです。
どこまで行っても、環境と社会通念に沿った緩やかな洗脳は続いているわけです。
そして、あまりに当たり前のように扱われている異常さには、疑問さえ持たなくなります。
もちろん、何を持って異常とするのかもそれぞれの価値判断になりますから、キリがないんですけどね。
不毛なことを延々と繰り返しているのです、人類は。
そうやって自分の価値観・世界観のストーリーの中で生きています。
これはそれぞれが妄想しているのと同じようなものだと思います。
妄想
妄想とは。
私の認識・解釈では
自分の価値観・正当性を持ってあれこれ想像し、まだ現実になっていないのに思考や感情を伴って思い悩み、またはあるものと思いこんだ行動をとってしまうこと。
早速調べてみました。ウィキのは長文で面倒だったのでgoo辞書から。
まあ、大体同じでしたが、私の捉えていた「妄想の認識」より辞書の方が病的な感じがします。
普段の認識では2の仏教用語に近い解釈です。
しかし、かつて鬱的な状態だった時は完全に3に近い感覚だったと思います。
今となっては、なぜそう思いこんだのか分かりませんが、そういえばあの時こんな考えを持っていたなあ、なんて思い出すことがたまにあります。
再現しようがないので、断片的な記憶ですが。
叔母が認知症になったとき、ここにいるはずない人をいると言ったり
あるはずのないものをあると言ったりしていました。
「あの人、私が呼んでも返事しないのよ、多分ちょっとおかしいみたいなの」
と、全くの認識違いの別人について、逆に心配したりもしていました。
ある特定の価値観を信じている本人にとっては、それが真実で現実なのだけど
見えてない方からすれば、それは「ただの妄想でしょ」としか受けとれず、
逆側から言えば、ここにあるのにどうして見えないの、という「あんたこそ妄想」なんですね。
でも、これは数の問題だと思います。
もしも、1対1で同じところにずっといれば、そのうち自分が正しいのか相手が正しいのかわからなくなってくるのではないでしょうか。
そしてそれがその人の「真実」として認識されたのなら、その人には何も問題はなく
問題なのは、その人を見て「異常だ」と思った人の感じ方なんですよね、実は。
(つい「それは違うよ」と言ってしまいたくなりますけどね、普通の反応としては)
何かが見えている人と何かが見えていない人(逆でもいいけど)のその対比が大きければ大きいほど、
マイノリティ側の方が「ちょっとおかしい人」と判断されてしまうだけです。
この頃感じていた、信じるだの信じないだの信仰だのへの違和感について、書きたいのだけど
また長くなってしまったので、続きは次回。