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覚醒とか目覚めとかいろいろ
スピリチュアルでも悟りでも能力開発でもアニメでも「覚醒」「目覚め」という言葉をよく聞く。
でも、それぞれがそれぞれに使いたいように使う用語なので、結果的にいまいちよくわからないのだ。
辞書で調べると【覚醒】とは以下のように出ている。
1 目を覚ますこと。目が覚めること。「昏睡状態から―する」2 迷いからさめ、過ちに気づくこと。
1はともかく、2の解釈では「迷い」「過ち」とある。この場合の「過ち」とは、無明ということになるのだと思うけれど。例えば、思いこみとか狭い視界とか、狭い了見とかそういうことかな。
以前から思っているのだけど、自分のこれまでの人生(ストーリー)の中で、あれも覚醒なのかなあと思うことがいくつかある。
非二元のメッセージを聞いた時、さまざまなことが明らかになった。というか、そこまで辿り着くまでの誘われ感がありすぎる。
ちょっと思い出したことがあったので、書いておこうと思う。
【1】日常からの目覚め
数年まえまで、職場と自宅の往復だけの日々が何年も続いた。
話をする人は職場の人、当然だけど話題はほとんど仕事関係に限定される。そうでなければテレビで流される話題ばかり。朝と昼のワイドショーの時事ネタ、お笑い芸人、放映中のドラマ、ちょっとインパクトのあるCM、最近話題のタレント、最近話題のスポットなど。
私はそのころからテレビを見ていないので、ほとんどの話題についていけない。かといって雰囲気上「へー、そうなんだあ」で終わらせることもできず「それで?それで?」とその話題をひっぱる。もちろん内心興味はゼロなんだけど、共通の話題はそんなものだ。よくわからないアイドルの話になると、苦痛さえ感じ仕事の話の方がよほど楽だと思ったこともある。
そしてまず、時間配分パターン、行動パターン、会話のパターン、思考パターン、全てがルーティン化していることに気づく。
何かおかしい。この日常は少しおかしい。この日常パターンをどこか変えないと「自分」が埋没してしまう。というか、完全に日常に麻痺している。
見渡すと、私だけではなく周りの人も同じ。
それぞれの関心ごとこそ、多少違っても似たようなものだということに気づく。
日常の中に埋没し眠っていた自分の「日常」からの目覚め。
このままではいけない、と思い自己啓発とか自分探しが始まる。
【2】常識からの目覚め
自己啓発や自分探しをしていると、よくあることだけれど「成功するメソッド」「富を手に入れる方法」「幸せな人生とは」など、現実をよくするための実例や成功法則や心構えなどが書いてある。
とにかく日常を変えたい私は、そんな本や動画を山ほど見たし、セミナーにもいくつか行ってみた。
でも、どの内容のほとんどは「モチベを上げて行動しろ」なのだった。今考えるとどうであれ誰でもいつでも毎瞬毎瞬、行動しているのだから言われるまでもないのだけど、その時は「行動」そのものをセミナーとか習い事とか資格取得だとか、後で利益につながりそうなものを指しているのだと勘違いしていた。
その上でさらに自分自身のモチベを上げることに必死。なるべく高い目標を設定し、ポジティブでいようと心がけた。何ごとも都合よく良い面をとらえるようにしていた。今思えばその頃はネガティブな感情を押さえつけて見なかったことにしていた。
そのうちに『成功の定義』だの『勝ち組の定義』だの『幸せの定義』だのに疑問を抱くようになる。お金を稼ぐことが成功なのか、良き伴侶を得て、同じ価値観で目指す上昇志向こそが幸せの象徴なのか?
だんだんインスタのリア充っぽい素敵マダムの投稿が妙に鼻につくようになる。私同様にきっと嘘つきか思いこみが激しいかのどちらかだろう。
それより、これらの定義はなんなんだ。歴史や教育システムや古い法律や廃れたリテラシーや旧価値観の体制にまだ縛られているのか。そもそも社会とはなんだ。
見渡してみると、世界中で片付かない問題が山積みになっている。貧困や格差社会、紛争や戦争、宗教や倫理観、犯罪、金融システム、法体制、教育制度…。
今までこの社会のルールを「当たり前」だと思っていた、歴史を見れば時代によりそのルールは変わっていく。つまり全て人為的なもの。その時々の誰かがコントロールして少しづつ今の世の中になっただけだ。
では、今この社会を動かしているのは誰なんだろう。この社会ルールは今後も有効なのだろうか。
今まで自分が常識だと思っていたこの社会は、安定性もなく揺らぎやすいものだということに気づく。つまり目指していた「成功」や「幸せ」はどうやら普遍的なものではないということだ。とても物質的なものだったことに気づく。
そしてエンタメと思っていた陰謀論や都市伝説を軽視できなくなってくる。
そして、今までの自分自身が社会通念の枠組みや価値観に縛られていただけだということに気づく。全て、今さら特定できない人間同士で作ったルールなだけだった。
自分自身の常識から目覚め始める
【3】人間という勘違いからの目覚め
人間が古来からルールを作り、自らそのルールに縛られていたのなら、他の動物たちはどうなんだろう。
地球上を覆っている問題の多くは、人間が作り出したことばかりだ。エネルギーや資源確保のため、森林を伐採し土地の形を変え生態系を破壊したり。
原子をいじって爆発させてみたり、宇宙にゴミを送り込んでみたり。地球は人類だけのものと勘違いしているかのように、なんでも科学で説明がつくという新たな宗教(科学至上教)まで出ている始末。
しかも誰かの研究結果が報告されているということだけで、実体を確認せずに簡単にその言葉を信じてしまう。科学的でないものは異端とされ、メンタル的な病を疑われる。
では、なぜこの地球に人間という種族がい流のだろうか。
そして科学だの経済だの生産性だの研究だのといって地球を我がもののように扱っているのか。もともとただだった土地にいつから誰が値段をつけて奪い合うようになったのか。善だの悪だの言いながらお互いに自分こそが正義であると主張する。同じ人間という種族なのに。つくづく不思議な生き物だ。
この広い宇宙に、人間という知的生命体のいる星は地球だけなのだろうか。いやそんなはずはない。コンタクトできるレベルかどうかは知らないけど、きっと宇宙にも生命体はたくさんあるはず。その中には人間のような次元の肉体を持たない(例えばクラゲのような)生命体がいたって不思議ではない。
それでもいまだに宇宙人はいないとか非科学的だという人も大勢いる。
なんでも地球の物質次元で考えようとすること自体に無理があるのではないだろうか。
まだ人間の持ちえる知識はわずかなもので、そのわずかな知識の中で全ての現象を説明しようとしているだけなのではないだろうか。実際に無理だ。
非科学的だとかいいながらも、神の思し召しだとか恩恵や奇跡や天罰だと言って怖れてもいる。それが科学至上教徒であっても。
この頃になると、目に見えないエネルギーや説明できない不可解な現象が気になり始める。そして、宇宙の絶対的中心と思っている人類などただの驕りであることを痛いほど感じるようになる。
だとすれば、人類はなんのために存在しているのだろう?
そして、魂や意識とは一体なんなのだろう?
広い宇宙のシステムの一部である自分たち人間も自然の摂理そのものなのではないだろうか。そうなると宇宙の意志に逆らうことなどできない。
なぜなら、自分たちはそのシステムの一部なのだから。
目に見えない力の存在に気づき、一時的にスピリチュアルな目覚めが起きる。
どうやらこの世界は、物質である肉体と精神である意識のエネルギーで構成されているらしい。
物質次元でいうのなら、素粒子の組み合わせが自分たちであり、物質には周波数があるので引き寄せあうのも合点がいく。
だとすれば、その素粒子や周波数はどこから生まれたのだろう。
宇宙の何もない「無」がそれらを置いている。「無」をベースに物質や現象や思考までもが存在している。そしてそれ以上は誰にもわからない。
もちろん、なんのために存在しているかもわからない。宇宙にだってわからないと思う。
そうやって人間そのものが物質であり、自分たちが世界中心であると思いこんでいた勘違いに気づく。
ということは、自分という存在は宇宙が作った幻想なのではないだろうか。幻想なのに物質として存在する。あるけどない、ないけどあるというブッダの言葉はこれのことだったのだろうか。
人間という勘違いからの目覚めである。
以上、多くの場合はこんな風に段階を踏んで目覚め始めていくように思う。知識レベルで気づく人、一瞥体験などで気づく人さまざまだと思う。
それでも私はまだ【2】のあたりをうろうろしている。なぜならまだ人間(物質)だから。そしてこの期間はときどき怖ろしい虚無感が襲ってくる。
どうにもならない。
ただ、苦しさや虚しさを嫌と言うほど感じる以外の道などない。
夜明け前が一番暗いという、その言葉だけが一縷の望みだ。あとは忘れるか、諦めるか、解放か。
その先は全くわからないのだ。
◆イラストは4段階の鳩クローズアップ。鳥の祖先は恐竜だと言います。私は昔から鳥が好きなのですが、祖先が恐竜であると知った時はやけに納得がいきました。鳩の正面顔が好きなのでよくモチーフにします。