「今ここ」と五感の話
どうして「今ここ」が五感なの
スピリチュアルでも非二元でも「今ここ」というワードをよく使う。
「神との対話」も「ニューアース」もそのほかのノンデュアリティの本でも、だいたい「『今ここ』を感じてみろ、そしたらわかるから」という。
そもそも非二元のメッセージは私にとっては衝撃的すぎた。
「時間も空間も存在しないし、自分も存在しないし、誰もいないし、何もしてないし、何もできないけど、なんでも起こりうる」なんて謎かけだったし。
いろんなスピーカーさんたちの話を見たり聞いたり読んだりして、なんとか腑に落とそうとしたけれど、とんでもない難問だったので私(自我)には解読不能だった。
まあ理屈上「時間はただの概念」であって「今」しかない、ということはわかった。
でも、その後に続く「体の感覚、五感を感じてみて」というのと「今ここ」がどう繋がってくるのかは、どんだけ説明されても頭の理解ではわからなかった。
しかし最近、ようやくうすらぼんやりと「ああ、そういうことか」とわかってきた(ような気がする)ので記事にしとくことにした。
おそらくこういうこと。
「時間は概念」というのは、こういう感じ。
過去は頭の中の記憶ですでにない。
写真や動画で記録をとってたって、それはただの「記録の一部」であって今はそのシチュエーションはない。 なんなら、その「過去の記録」を今見ている自分がいるだけ。思い出として頭の中に残っているだけ。
しかもそれも正確ではなく、勝手な自分解釈のキャプションつけて良い記憶、悪い記憶、その他どうでもいい記憶としてファイリングされている。しかしどのみち、頭の中にあるだけで、それらはもうどこにもない。
未来も頭の中の妄想で今ここにはない。
その妄想は、脳が勝手に過去の記憶データをかき集めて、分析した結果「きっとこうなるに違いない」とい思いこんだ単純な予測にすぎない。
しかも、全てが過去データなので、新しい要素や自分がまだ認知していない知識は考慮されていないので、データ不足のほぼ無責任な予測だ。
それなのに自我は自分で作り出した予測物語に自分で不安がる。まさに自作自演の茶番劇だ。 時系列のストーリー上に未来はあるけれど、不確定要素だらけなのでそんなものはどこにもない。
結局あるのは「今」だけ。
「今」とは「現在の状況」という大きいスパンではなく、本当に「今」のこと。最初は私も現在の状況のことだと思っていたけど、そうじゃなくて「今」まさに「今この瞬間」のことを指しているのだった。
しかも絶対に止めておくことができない「今この瞬間」で、現状の問題も悩みも人生ストーリーもいっさい関係のない「今この瞬間」のこと。
なるほど、確かにどんどん現れては消えていく。いつだって「今」はもうない。
「今ここ」のみがある、と言ったって「今が今か?」ととらえようとした途端に過去になる。時間というのは確かに概念であって、過去も未来も頭の中だ。
右脳と左脳と今ここと
ここでちょっと、以前に書いた「右脳の静寂」という記事で、アメリカの神経解剖学者のジル・ボルト・テイラーさんが脳卒中で倒れたときに体験した感覚と、右脳と左脳の働きの話を再掲する。
左脳は「ストーリー(自我)」を担当する。記憶を時系列に並べて、今より良い状態をめざして計算し、計画し、検証し、創造する。そうやって人類の文明は発展してきたわけだ。一方、右脳は「今」を担当する。そこには何の分別もジャッジもない、ありのままの状態をただ、そのまま読みとる。ありのままを正確に見ないと、他の動物のように瞬間的に反射・反応ができないから。自己の解釈だの評価だのは不要。人間に限らず、人や動物はまず、右脳の「今」この時この場の状態をありのままを受け入れて、その後何かしらの行動にでる。
つまり、右脳は「今」みた感じたことだけを何のジャッジもせずにただ、とらえていて、その情報を左脳に送る。
記憶媒体でもある左脳はそれを「自分」に合わせて判断し、何かしらの行動をとる。
厄介なのはこの時の「自分」の「自分の都合」濃度が高くなり、現代の我々を悩ます「自我」にまで発展したこと。
でもって、いつも思考(=自我)が頭の中でわいのわいの騒がしいこと。常に何か思考しようとする。ひどいときには過去の記憶と未来の予想に勝手なキャプションをくっつけて。
左脳のやつ、発達しすぎたのね。
右脳と左脳の役割はこんな感じ。
左脳にはまず、言語があり時系列と空間認識があり、エネルギーが凝縮したような感じがあるという。それがおそらく「自分感」を作り出している。
右脳には時系列はなく「今」だけ。今この瞬間を何の判断もなくただ認識するので言語もない。ジル氏の話では自分が原子レベルにまで溶けて拡散するような感じがあったという。それと静寂。
どういう働きで、人間だけが左脳優位になってしまったのかはわからないけど、非二元のメッセンジャーの話と一致するところが多いので「悟り」と右脳の関係はゼロではないと思う。
この話を聞いたときに「爬虫類脳」があるという話を思い出した。
私たち人間は三つの脳を同時に持っているという『脳の三位一体論』というものがあるそうだ。
三位一体とは、①爬虫類脳(反射脳:生存のための本能•安全意識)、②哺乳類脳(情動脳:衝動的な感情・愛や恐怖、喜びや怒りなどの感情・仲間意識)③人間脳(理性脳:論理的で未来的な思考、言語、知能、記憶、未来、創造、論理)
何となくマズローの五段階欲求の基礎っぽい感じの仮説だなあ、と思った。
話しを戻すと、右脳の働きは①の爬虫類脳のそれに近いのだと思う。まずは目の前のことを何のジャッジもせずにとらえること。危険が迫れば「何も考えずに」瞬時に反応するための反射脳なのだと思う。
通常は「今」をとらえ左脳に送り適切なジャッジし、群れを作るなどして身の安全性をより高める。それが②の哺乳類脳だ。
しかし人間の場合のみ左脳の③の部分がより強い。
しっかりと人間脳の自我が、論理的に未来的にかつ言語思考でストーリーをこしらえて、「自分感」ごとそのストーリーの中に閉じこめているので、根底に「今」への反射があること自体を忘れちゃっているだろう。
生存本能の「反射」がなければ生きられないこと忘れて「自分が」をやたら強調しているのだろう。左脳しゃしゃりですぎ。
五感は「今」を感じるセンサー
「今」をとらえてすぐ反射反応して、左脳に情報伝達するには「今」を捉えるセンサーが必要になる。
それが五感ということになる。
過去も未来も頭の中の記憶や妄想であれば、それらは幻想ってことになる。幻想とは、ありもしないことを指す。
頭の中の幻想をとりはらうと、ストーリーがなくなる。そうなると残るものは、自分の身体と何もジャッジしないただ「今起きてること」だけだ。
すぐに過ぎていってしまう「今」をとらえるには、身体の感覚を使う。それがセンサーとなって「今この瞬間」を何のジャッジもせずに感覚としてとらえる。思考の入りこむ余地のないこの瞬間ごとだけ。
左脳は「自分が」感が強いので、自分の目で「見ている」自分の耳で「聞いている」などと判断するけれど、それはその通りジャッジメント。そうなるとすでにストーリーの中。
そうではなくて、ここに「自分(体としての)」を置いたら、ただ「見える」「聞こえる」が起こっている。
「今」をみるには身体になにが起こっているか、五感のセンサーでダイレクトにその感覚や感触だけをみてみる。「自分抜き」で。
思考をとり除いて、頭の中を空っぽにしたら残るのは身体の感覚だけ。
だからスピーカーさんたちは「身体の感覚」を連呼するということ。禅も「今ここ」に集中するための修行だという。
騒がしい思考を静かになだめて、頭を空っぽにするのが難しいのだけど。「今ここ」と五感の謎は解けたように思う。
私の場合、理屈からでもいいから「ああ、そうか」と納得しないと先に進まない。だから五感がセンサーになっていることは理解できても、それで「今」を感じているかどうかまではわからない。いまだ左脳優位なのだ。
正直なことを言えば、右脳と左脳の働きが「静寂」と「ストーリー」に関係しているのは納得できたけど、「意識」はまた別の話。
「意識」「魂」「いのち」これはあんまり右脳左脳の働きとは関係なさそう。でも「自分感」はただの発達した脳の自我システムなだけではなく「意識」が関係しているような気がしてならない。右脳左脳の次元ではなさそうだ。直感だけど。(直感もどこからくるのかよくわからないけど)
攻殻機動隊のセリフを引用するなら「ゴーストが囁くのよ」でも、またゴーストってなんだ?のループにはまりそうなので今はやめとく。
◆トップのイラスト:最近ピエロとちょび髭のおっさんばかり描いてたからサーカスの踊り子っぽい女の子の絵。60年代のピンナップ風のイメージにて。