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愛の輪郭

白と影


先日、「白いもの」を写真に撮りたいと思った。
被写体になるのは白いミニチュアの石膏像。

別に石膏像を撮りたいわけではなかったけど、白ってどうやって撮るんだろうと思って
実験してみたくなっただけ。

背景も白に設定して、被写体が暗くならないように光源と角度を調整し
レフ板を使って被写体が暗くならないように、
そして、石膏像の輪郭がうまく浮いてくるように、
あれこれ試行錯誤し、撮影していた時にふと気づいた。

白は輪郭がないと表現できない。
光は影がないと表現できない。

それだけではない。

水も容器(グラスやペットボトルやあるいは水滴状)に形を作らないと
表現できない。

形のないものを表現するには、輪郭になるものが必要なのだ。

ほかには?例えば見えないものは?とアンスプラッシュで、どんな表現があるか検索してみた。

空気で検索すると「風船」「気球」
風で検索すると「横になびく木々」「タンポポの種が飛ぶところ」「何かが吹き飛ぶところ」

いずれも、空気そのものでも風そのものでもなく
ほかの物質を使って、それが「在る」ことを表現していた。

もし自分で、このテーマで写真を撮るとしたら、やっぱり同じように
花びらや木の葉が風に乗って舞うところや、
ろうそくの火を吹き消すシーンなどを撮るだろう。

空気や風そのものをカメラのレンズで捉えることはできない。

それらは、体感するしかない。
見ることのできないものを、肌で感覚で捉えるしかない。

しかし肌感覚は、とっておくことができない。

もしもそれを目で捉えて、記録として心の中に所有したいのであれば
空気や風そのものではない、別の何かの物質(存在)もセットになってしまう。

ふと

人間の心の渇き、渇望は「愛」を求めるエネルギーで、それがエゴなのだと気づいた。

目に見ることも捉えることも、ましてや所有することのできない
曖昧で不確実で、でももっとも欲しいもの。

この不足感を埋めてくれる唯一のもの。
それが足りないものだと気づいているから、どうしても求めてしまう。

それを手に入れた感触、実感を伴って所有していたい。

人間にエゴが棲みついた時から、この渇きは止まらない。
何を手にすれば、この渇きが止まるのだろう。


愛の輪郭

本当に欲しいその満たされない何かが「愛」であることは容易に気づく。

だから人は、ずっと「愛」を求めている。

知識として概念として「愛」が必要なのはわかったが
実際には「愛」がなんなのかはわからない。

「愛」らしきを感じるあらゆるものを手に入れ、それが確かなものか知りたがる。

親子
家族
友情
恋人
夫婦
ペット
趣味
嗜好品
偶像


「愛」の感触を知ったからこそ、それが確かなものとして、
証拠として、その器になる輪郭を求めている。

「愛」を確信できなくなると不安になり、今まで以上に求めたくなる。

いつしか「愛」そのものではなく、その器(輪郭)を対象として固執する。
その器の中に「愛」を満たせば、また所有していられると思うから。

でも、本当に欲しかったのは器ではなくて
そんな小さな器になど収まりきらないもの
とてもとても輪郭などでは表せないもの

空気は器に収まらない
風も器に収まらない
当然

見えない愛が何かに収まるわけがない

「愛」の輪郭を作っているのはエゴ。

器と思っている相手の、対象物そのものではない。
自らのエゴが、「愛」に勝手に輪郭を作っているからだ。

何ものにも収まりきらない
無限の中に包まれていながら
足りない足りないと言って輪郭の中に収めようとしている

それがエゴ。
輪郭であり影であり闇であるもの。

残念なことにたいていが
エゴがないと、愛を確認できない。
さまざまな愛の形、愛の表現を求めてしまう。

たくさんの愛を求めたり
一風変わった歪んだ愛の表現だったり。

そんなものなくても
初めからあるのにね。

エゴは自分が輪郭であることに気づかない。
この渇きは続く。

エゴがエゴを手放さない限り。









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