見出し画像

クレージーな大冒険野郎の誕生

初めての旅は自分が生まれた国、スコットランドの中だった。本が好きで真面目だったけど、僕はまだほんの少年だった。ある日、ヒッチハイクで旅することを決意した。バッグかついで、行く先も決めず、計画も立てなかった。お金も持たなかった。自分の力でどこまで冒険できるか、何が自分の人生に起きるのか、それを試してみたかった。そしたらこれが面白い。毎日どこまで行くか、誰に会うか、何をするか、誰にも決められないし、何が起きるか分からない。こんな楽しいことってあるか!と思った。


あるスコットランド人の車に乗せてもらったときのことだ。僕は、わざとアメリカンアクセントで喋ってみた。見知らぬ人とのコミュニケーションがどう変化するか、ちょっとした実験というわけだった。その親切なドライバーは、完全に僕をアメリカ人だと思い込んで、いろんな話を腹を割って話してくれた。僕もアメリカ人としてその話を聞いた。そうすると、普通のスコットランド人同士では出てこないような話が出てくる。つまり、自然に新鮮でクリエイティブな物語が二人の間に生まれてくるんだ。一種のゲームみたいなものだけれど、僕には大きな発見だった。だって、アクセントをちょっと変えただけだよ。それだけで、とても楽しい時間を過ごすことができた。この発見を今でも忘れない。原点にある最初の旅、最初の学びということだね。一週間後、旅から帰って僕は心に決めた。この旅というものを、ライフスタイルとしてやってみようと。それからすべてが始まった。


そのころ僕は保守的で厳しい学校に通っていた。超真面目な生徒だった、「アバディーン・グラマー・スクール」。この学校は詩人のバイロン卿とか、幕末の英国商人グラバーも学んだ歴史を持つ名門校だ。創立されたのは13世紀。みなさん大丈夫ですか、13世紀ですよ、鎌倉時代ですよ、想像できるか、この旧さ。もちろん男子校。お城みたいな建物だった。スコットランドでは12歳から中学生になる。僕は入学試験にパスしてこの学校に入学したのだった。


その頃から身体の仕組みに興味があった僕は、外科医になりたいと思っていた。医学というよりも、解剖学や病理学に興味があった。初歩の医学書を独りで読みあさり、内臓模型のスケッチをし、骨格や筋肉の名前を覚えようとした。いま思えばちょっとオタク的だったかもしれない。先生は驚いていたね、きわめて特殊なマッスルの名前を13歳の少年が口にするんだからね。けれども、16歳から僕は180度変わった。完璧に〝ヒュッ〟とね。学校の権威的な教育に完全に反発して、超不真面目な生徒になった。少なくとも学校からはかなり注目された。


決められたルールなんか従わない。制服も着ない。髪の毛も伸ばした。当時、僕はヘンリー・ミラーやドストエフスキー、あるいは哲学的な本を読むようになっていた。そのおかげで、目が覚めたというわけだ。覚醒ということだ。社会システムに対する疑問が噴出した。学校も教会も、すべて嘘、幻想。みんな本当のことを教えられていないと思った。姉が図書館で働いていたために、本好きだった僕は5歳くらいから濫読していたらしい。


とくにヘンリー・ミラーに憧れた。1930年代のパリや、彼が体験したようなアーティストたちとの生活に。だから僕は、学校に行っても〝こんなつまらんオジサンたちの話を聞くよりも、旅に出たほうが絶対百倍面白い!〟と思っていた。これこそ真実ということですよ。僕も絶対パリに行くんだと思っていた。もちろん、やるならヒッチハイクしかない。それがライフスタイルでしょ。それしかないよ、ここまで確信してたら。僕は春休みを利用して家を出た。17歳の初めての外国旅行。苦労して辿り着いたセーヌ河岸は、まだ春浅く、夕暮れには寒さが肌を刺した。『ポンヌフの恋人』という映画でも有名な橋の下で、僕はパリ最初の夜を迎えていた。憧れのポンヌフ。でも小便くさかったね。そのうえ寒い。当然金もない。ここで寝るしかないのか。そう思った。寝る場所というのは、いつもどんなときでも大事な問題だ。どこで寝るのか。人間が寝るというのはどういう意味なのか。深い問いがここにあるのだけれど、今夜はどうなる?すると、若いフランス人男性に声を掛けられた。フランス語で挨拶を返すと、彼は言った。


「よかったら、俺の友だちのアパートで寝てもいいよ」外国人との初めての交流、初めての友情。この夜、僕は小便くさくも寒くもない部屋で、シーツにくるまって考えていた。もしお金を持っていたら、こんな幸せと人間関係は生まれなかった。無一文だったから、いまここにいる幸せが可能になったんだと。


僕のような旅をしていると、寝る場所は思いがけない形で現れてくる。17歳でギリシャのミコノス島に行ったときもそうだった。売血して作った金も底をついて丘を彷徨っていた僕の前に、ちょうど一人分くらいの穴が開いた巨石が現れたのだ。僕のために誰かが置いてくれたようだった。それから3週間、僕はそこで寝てレストランで働き、ギリシャ哲学と芸術にハマった。


パリもギリシャもきわめて刺激的で楽しい旅だったけれど、どこか物足りなかった。僕はもっと本当のスピリチュアリティ――すなわち霊性と神秘性を体験したかったし、求め始めていた。1971年、ヒッピー全盛の時代。フリーダム&ピースの時代だった。僕みたいなヤツは他にもたくさんいた。高校は卒業したけれど、大学なんてあほらしいと思っていた。ロクなこと教えてくれないとわかっていた。


みんないい学校に行って、就職して、結婚して子供つくって、保険かけて生きていく。何のために? 何なの、その社会の在り方は。バカバカしいでしょ。そんなの人生と言えるか、何のロマンスもない、クリエイティブでもない、冒険もない。こんなのアホ。完全にごめんだと反発した。自分の人生は自分で創る。自分の発想で生きていく。そう決心していた。要するに、僕は本格的なヒッピーになったというわけやね。


親は何も言わなかった。まあ、何を言われても僕は親の許可を得ようとは思っていなかった。だって自分の人生でしょ。だから自分で決めて自分で行く。親の反対とか関係ない。これは、やっぱりスコットランド人の性格というものだ。お金も親に要求しなかった。親は心配しただろうけれど、日本と違ってスコットランドの親は子離れが早い。逆に早く出て行ってくれたほうが助かると思っていたかもしれない。生まれ故郷のアバディーンは暗くて寒くて、いつも霧がかかっていた。スコットランドはだいたい似たようなものだ。太陽を仰げる日など、きわめて少ない。そんなところにいたら鬱になるよ誰だって。だから、スコットランド人は外国に出て行きたがる。探険家が多いのもそのせいだと思う。自分の生まれた場所ではない、もっと違うところに行きたい。逃げ出したい。それがスコットランドの冒険魂。非常にタフなんだ。


僕も子供の頃から地図を見るのが好きだった。図書館で世界の地図ひろげて、マラケシュとかカブールとか未知の地名に見入っていた。地理の授業なんかうれしかったね。もう目を皿のようにして全身で聞いてた。知らない町の名前を覚えるのも早かった。国々の地形や国境なんかををデッサンするのも得意だった。要するに、旅してみてえ~って心の底から思ってたわけだ。大英帝国のスピリットのなかに、スコットランド人の「探検家DNA」は間違いなく組み込まれていると思う。


父親は魚の卸稼業をしていた。朝5時に港に出て、凍てついた北海の強風にさらされながら、魚市場で働いていた。ボートから降ろしたばかりの冷たい魚を店に運び入れ、スモークしたり、加工したりする仕事だった。仕事が終わると、次はパブだ。スコットランド人のお決まりの習慣だ。これがないと、やってられないってこと。完全に酔っ払って帰ってくる。で、また翌朝厳しい仕事に行く。毎日その繰り返しだった。母ちゃんはウェイトレス。忙しそうだった。まったく、きわめて典型的な労働者階級の家庭だった。


僕は、父親に歓迎されない赤ちゃんだった。親父は言っていた「お前はアクシデントで生まれちまったんだ。想定外だ」とね。生まれながらにして、拒絶されてたわけだ。出産も大変だったらしい。毎晩パブに行ってた親父は、僕と遊ぶどころじゃなかった。彼にとっては、二人の姉のほうが可愛かったんでしょう。ケンカすることすらしなかった。そのせいで、父親を尊敬するとか、暖かい思い出とか、一切まったくない。こっちも当分の間、我慢して一緒に暮らすしかないというくらいに思っていた。子供心に、親に期待しても無理だと分かっていた。「この二人の生命体からは、そんなに愛情もらえないな」と。これは仕方のないことだ。恨むとか悲しいとか、そういうことじゃない。彼らだって生きるのに精一杯なんだから。すがりついたりしても無駄なんだ。それなら一刻も早く家を出るしかないじゃないか。そうでしょ?躊躇してる場合ですかっていう話だ。僕を育てて愛情を注いでくれたのは、一番上の姉だった。図書館勤めのね。2番目の姉はまったく違うタイプだったけど、長姉は「ブラザーができた!」と僕の誕生を喜んだそうだ。読書の楽しみを教えてくれたのも、その後いろいろ助けてくれたのもこの姉さんだった。


17歳で家を出た僕は、ロンドンにあるヒッピーのコミューンに転がり込んだ。平均年齢20歳。一つのアパートを借りて十五、六人でシェアする。いつも五、六人が雑魚寝していた。仕事をしている人もしてない人も、学歴の高い人も高卒もいた。上下も差別もなかった。金も食料もたとえ僅かでも、みんなでシェアするのが原則だった。みんな自覚的にヒッピーとして生きていたから、これは当然のルールだった。ヒッピー精神の基本は、金は汚いものだという発想。金が必要だということは理解するけれど、執着するなんてとんでもないことだった。だから、僕の姉がスーツケース一杯の缶詰をくれたときも、コミューンに帰ったら即缶詰パーティ。自分のモノなんて考えない、「みんな集まれー食いもんがあるぞー」って。


みんないい顔をしていた。まっすぐな目をしていた。率直な人が多かった。この集団生活で揉まれながら、僕は自分自身の方向性が見えてきた――ここは楽しいけど、やっぱり独立独歩が好きなんだと。ここにいるだけじゃ、物足りない!と。いつもそうだ。これは変えられない性格だね。とことんやる、徹底的に行くところまで行く。そうしないと気がすまない。だったら、どこに行く? わかりますか。当然インドしかない。でしょ?2月のある日、ポケットに20ポンド(約4000円)つめこんでロンドンを出た。ドーバー海峡を渡るための費用だった。それ以外は必要なかった。ヒッチハイクで、インドまで旅するつもりだった。本当にモノを持たずに歩き始めた。


現代のバックパッカーと全然違うよ。特にアメリカのバックパッカーは、でっかいバッグの中に、クレジットカードやトラベラーズチェック入れてるでしょ。そんなのただ荷物一杯の観光旅行だ。そもそも、アメックス持ってて放浪といえるか?という話だ。僕たちは生活の仕方として放浪し、旅しようと志していた。ヒッピーになるということは、一、二ヶ月期間限定のヴァケーションじゃない。ライフスタイルなんだね。だから、バックパッカーたちは本物じゃないと思っていた。1971年、僕はヒッピー文化最高潮のど真ん中にいた。


後から考えれば、旅立ちのときでさえ、僕はたくさんの物を持っていた。それが、だんだん垢が落ちるように剥がれていくんだ。ホントの垢はたまっていくけどね、実際の話。で、イスタンブールまではあっという間だった。連続ヒッチハイクの旅は当時のオリエント・エクスプレスよりも早かった。自動車道路もあったし、めちゃくちゃなスピードで飛ばしていった。3日後、僕はアジアの玄関、イスタンブールにいた。いよいよアジアだった。菜食主義者で無一文の僕は、パンとオレンジで空腹をしのいでいた。だけどトルコから先、イラン、アフガニスタンを抜けていくのに、菜食主義は通用しなかった。なぜか。ケパーブ(串焼き肉)しかない。もう来る日も来る日も、全部お肉。「主義」なんてものは通用しないとわかった。まさにアジアの匂いだね。ケパーブは。ロンドンを発って一ヵ月後。パキスタンとインドの国境まで来た。よくここまで辿り着いた。ついに来たぜと思った。でも腹の調子がおかしくなりはじめていた。旅先ではよくあることだ。気にも留めなかった。が、劇的に発症した。猛烈な下痢と高熱。もはや、歩くのもやっとだった。僕は、赤痢に罹ってしまったのだった。

それでも、辛いとかやめようとは思わなかった。自分で選択したことだ。空腹も病気も当たり前。同じように病気になったトラベラーをたくさん見てきた。


こういうときは、心配しすぎないことが大事だ。怖がらない、心配しない、後悔しない。このことがどれほど生きるうえで重要なことか。そう思わないですか。単純だけれど、人生の意味が詰まっていると思う。死んじゃうかもしれないという恐れを、毎日乗り越えていくということだ。これは別にインドじゃなくたって、赤痢にならなくたって、東京だって神戸だって同じことでしょ。

「なんとかなるでしょ!まだまだ行ける!」僕は宇宙に向かって、自分に向かって叫んだ。インドの大地を下痢しながら歩き、ヒッチハイクした。気持ちだけは、強く前を向いていた。でもやっぱりフラフラだったね。ハンパな熱じゃなかったもの。よく生きてた。自分でもそう思う。


 辿りついたのは、聖なる河ガンジスの街、ベナレスだった。とにかく金がなかったから、無料で泊まれるところを探した。ボートデッキなら泊まれるらしい。赤痢はさらに悪化していた。何も食えない。熱でまともに立つことすらできない。唯一の楽しみは一日に2,3回ガンジス河に入って身体を冷やすことだった。尻からは水しか出てこなくなっていた。高熱の身体に直射日光が照りつける。暑い……、もうやばいかもね……。で、ようやく泥水の川につかる。川の水は気持ちいいのだけれど、その脇を死んで焼かれた人の遺体が流れていく。どこもかしこも焼けた人間のパーツだらけ。生と死。僕も死ねばこんなになるのか。焼かれて、赤痢男のそばを流れていくのか。でもガンジスの水は冷たくてありがたいのだった。もうだめだ、この暑さではまいると直感的にわかった。とにかく涼しいところに行くんだ。どこだそれは……、朦朧とした頭にひらめいた。カトマンズだ! 何と言ってもヒマラヤの麓、涼しくないわけがないでしょ。僕はやっとの思いで、ベナレスを後にした。どうにかトラックに乗せてもらって、炎暑地獄からの旅も無一文のヒッチハイクだった。高地カトマンズに着いても、泊まる場所がない。どこで眠るかということを、僕はいつも大切に考えていた。翌朝を迎えられずに死んでも後悔しないところ。繰り返すけれど、毎日が未定で何が起きてもおかしくないでしょ、人生は。考えた末、僕は穿いていたジーンズを売ることを選択した。よく売れたものだと思うけれど、その金で一泊分の宿代ができた。もうパンツ一丁だった。ここまでくると、人間どんどんシンプルになる。寝るならばこれで十分でしょ。これも冒険、笑ってしまうよホントに。僕は、涼しいカトマンズの夜の底で、充足感に満ちていた。


翌朝になっても下痢は治らなかった。金は尽きた。独りだったけれど、寂しいなんて思わなかった。感傷にひたっている暇はなかった。現実に今夜泊まる場所を探さなければならない。町に出ると意外な噂が耳に入ってきた。「大きなヒッピーグループが来ているらしい」「何という団体?」


「フォグファームだよ、知ってるか?」


なんてことだ! 僕は快哉を叫んだ。フォグファームは、世界一有名なヒッピーグループだった。当時古ぼけたヒッピーバスで世界中を巡り、貧しい人々や子供たちを助ける活動をしていた。『ウッドストック』という映画のなかで、「50万人のブレックファーストしようぜ!」と叫んでいる人たちだ。天の助けだと思った。彼らはバスで移動しているからお金もあるし、食事もシェアしてくれる。赤痢地獄から僕が生還したのも、彼らのおかげだった。みんな自由で大きな心を持った人たちだった。それからの日々は、刺激にあふれていた。日当20ルピーで映画のエキストラやったりした。インドの有名な監督から、「あるがままのヒッピーを撮りたいから何をしてもいい」と言われたのだ。僕らは市内の中心にあるお寺に入り込んで、ドラミングをすることにした。始めてまもなく、寺の広場に群衆が集まってきた。いぶかしげにドラミングを眺めている。どんどん人の数が増えてくる。地元の人ばかりだ。「これはいいぞ、もっといける」僕はさらにドラムを叩き続けた。

みんながエキサイトしはじめた。どうも様子がおかしい。こちらを睨みつけている。警察も駆けつけてきた。彼らは真剣に怒っている。


「やばい……やっちゃいけないことだったのかも……」

気づいたときには遅かった。群集は完全に殺気だっていた。自分たちの聖地で何をやっているのか、追い払え、出て行けと叫んでいる。警官たちが警棒を振り回しもみ合っている。まずい、本気だ。どうする? 逃げる? でもどうやって?! 興奮する人々の前で、僕らはもう完全にフリーズしていた……。あとはよく覚えていない。殺される寸前だったかもしれない。死んでいてもおかしくなかった。当然だ。僕たちはただの18歳のヨーロッパ人に過ぎなかった。仏教についても、ほとんど知らなかった。同じような西洋人のヒッピーたちと暮らして、いい気になっていただけだったのだ。


それでもカトマンズは天国みたいな場所だった。なにしろ、政府関係の店でマリファナが買えるんだからね。まったく合法的にだ。警察官たちものんびり歩いていた。歴史も旧く、綺麗な寺もいっぱいある。きわめて貧しい町であることは間違いない。道路は糞だらけだし、どこも汚い。もちろん病気も流行っている。けれども、僕にはその自由さがたまらなかった。世界一有名なヒッピー、エイト・フィンガーズ・エディにも会った。指が2本欠けていたから、そう呼ばれていたんだ。当時彼は45歳くらいだったけれど、一緒に喫茶店でパーティしたり、マリファナ吸ったりした。ヒッピー最高の時代に、最高の場所に身を置いているという、間違いのない快感があった。一ヶ月ほどカトマンズに滞在した僕は、体調もよくなって再びインドの旅に出た。放浪者だからね、一箇所に長い間止まってられないのですよ、僕という人間は。だから、とにかく動く。移動する。また無一文の旅の始まりだった。持ち物も徹底的に減らした。小さなバッグとショール、それと褌(ルビふんどし)に裸足で十分だった。足の裏は登山靴並みにカチカチになっていた。ジーパンもジャケットも要らない。インドはショール一枚あれば寝られるしね。


目指すは山岳地帯のカシミール。織物のカシミアで有名なところ。といっても当然カシミアはいらない。そこには聖者たちが集まると聞いていたからだ。聖者(サドゥー)はいた。全インドから集まってきていた。長いひげをはやし、腰巻一つの半裸姿で、裸足で放浪している人たちだ。彼らは、ヨーガを窮め、神のために生きる行者であり、巡礼者である。彼らは、「聖なる植物のスピリット」をパイプで吸いながら、巡礼する。自分の快楽のために吸うんじゃない。シヴァ神のために吸うのだ。マリファナをね。彼らの宗教の形は、マリファナ(ハシシ)を吸って神様にお祈りを捧げるということ。「マリファナ=薬物=法律で禁じられている」と思い込んでいる人がいたら、その思い込みは外したほうがいい。世界には、「植物のスピリット」をガイドにして人生と魂の奥義を窮めようとしている人がいる。そういうことは、知っていたほうがいいと思う。ともかく僕はかれら聖者たちと2、3週間山の中のお寺にいた。導いてくれたのは、女性ロビンフッドみたいな聖者で、マタジという人だった。67歳くらいだったけれど、タフな女性だった。若いヒッピーたちにお金を配っては食べさせてあげる使命感に燃えていた。その山寺に集って修行していた聖者は、平均70歳くらいだった。インド哲学では人生を4つのライフに分ける。まともな社会人として仕事する期間は、第3のライフで、そのあと、60歳くらいから第4のスピリチュアルライフが始まるとされている。要するに、ジジイになったら世を捨てて、褌ひとつでヒマラヤに行こうということやね。


周囲の聖者たちは、ほとんど第4のライフの人ばかりだった。第3のカルマ・ヨーガすら終えてない18歳の僕が、そこに入り込んでしまったわけだ。同じような放浪者の格好をして……。聖者たちは、完全に思い込んだ。お金ばかりの国ヨーロッパからきたにも関わらず、裸足で放浪している。スピリチュアルな探求をしている人に違いない、と。で、食べ物を提供してくれたり、水をくれたり、大切に扱ってくれる。極端な人になると、僕の足を頭で触ってくる。ちょうど、アマルナク(正確には?)のお祭で、全国からサドゥが集まってきていた。僕は、元マドラス大学の英文学の先生と親しくなった。彼は英語ができたし、とてもおしゃべりだったのだ。


 なぜおしゃべりだったか。実は彼は86歳で26年目の巡礼をしている最中だった。このお祭が終わると、彼は死ぬまで沈黙の修行に入らねばならなかった。西洋人で同じように物質世界を捨てて来ている僕らヒッピーに話をすることは、彼にとっても刺激的だったと思う。サドゥたちは、地元の人たちからは、「偉い人」と扱われるだけで、真のコミュニケーションをとることが難しかったのだ。話題はいくらでもあった。スピリチュアルライフとは何か。巡礼とは何か。聖地とはいかなる場所なのか。夢中で話をし、時を忘れた。でも、身体は正直だね。相当まいってきていた。がりがりに痩せた。このままここに留まるのも楽しいけれど、下手すると死んじまうかもしれない。現に、赤痢や栄養失調で亡くなった友だちもいた。密林のサドゥに会いに行って、野宿しているところを象に蹴られて半死半生で故郷に送り返された仲間もいた。国へ帰ろう。このままでは生命の危機に陥る。僕は思った。さすがにきつくなってきていた。自分のカルチャーにいったん帰って、僕のライフをもう一度始めよう。時計を逆回しにしたように、僕はロンドンを目指した。もちろん、ヒッチハイクで!


19歳の誕生日は、アフガニスタンのカンダハールで迎えた。再び、猛烈な赤痢にかかっていた。地元の人たちは親切だった。金のない僕に同情してくれた。けれど、彼らは超極端だった。彼らの治療方法は、アヘンだった。アヘンの塊を食って赤痢を治す。なんですか、これは。あり得ないと思った。もう、アゴが外れそうだった。アヘン食うか?普通。みんな口々に、一晩で治るから飲めという。しかたがないですね、飲みました一塊のアヘンを。ものすごく油っぽくて気持ち悪い。ようやく飲み下すと、丸一日ぶっ倒れて、ものすごい夢をみながら吐く。吐いては夢を見て、夢を見ては吐く。その繰り返し。でも、一発で治った。アフガニスタンの人にとって、アヘンはいわゆるドラッグじゃない。漢方薬みたいなものだ。日本やイギリスでアヘンを飲んだら、ドラッグということで、きわめて良くないと言われる。逮捕されるでしょ。でも、僕はアヘンで赤痢を治した。ここが、ポイントですね。学びがあったわけだ。薬って何? ドラッグって何ということ。


この後も、いろんなことがあったけれど、6週間後、ようやくロンドンまで帰り着いた。僕の人生にとって非常に重要な学びだった。それは、独りで行動するということ。そして何かを信じるということだ。別に特別な宗教でなくても、何かに対して信仰心を持つということを学んだ。一文無しになっても、病気になっても、にっちもさっちも行かなくなっても、誰か何かが助けてくれる。本当に神様が現れるようにね。それの繰り返しのなかで、「ああ、宇宙はサポートしてくれてる」と実感していった。別に特定の神様じゃないよ、この話は。「絶対になんとかなる。何があっても生きていける」という自信は、旅のなかで生まれた。すなわち、心配を吹き飛ばすということだ。


これは頭でわかっただけでは、絶対にできない。わかった気でいると、40代になって同じ問題に必ずぶつかる。将来への不安とか心配とか……。だから鬱病になってしまう。動かされるような探求の旅のなかで、僕は身をもって実感した。これこそ、旅からのギフトだ。旅のなかで、哲学書や宗教書を読みながら、毎日毎日生きていく。あの頃、僕のバッグに入っていたのは、本とパイプとパスポートだった。もちろん、食えない日が続くことも、寂しさや孤独感に陥ることもある。でも、それを克服していくのが旅ということだ。これは、ほとんど信仰のトレーニングだ。「信じること」とはどういうことか。これは大学に行っても宗教家になっても、たぶん学べないでしょ? それが毎日試されていくことが、旅なんだね。



僕みたいに生きるのは、ホント極端だ。自分でもクレージーな大冒険男だと思う。なんでこんな人生か? それこそ人の心の神秘だ。極端なことをやらないと気がすまない、限界までいかないと、本当の自分になれない。僕は、人というのは限界に立って初めて、自分が何者であるかがわかると思う。厳しく試されて、追い詰められて、その最後のところでわかってくること。それがホントの人生でしょうと思う。 ここに、昔ローマで迫害されたキリスト教徒たちの話がある。一世紀ごろのことだ。ある女性クリスチャンがローマ政府に捕らえられて、アリーナ(円形競技場)に連れてこられた。ローマ人たちは、彼女が拷問されるのを見物に来ているんだね。「もし、信仰を棄てたら助けてやる」そういって拷問するわけだ。鉄製の椅子に彼女を縛りつけて、下から火で炙っていく。もう普通なら、「もうやだー、クリスチャンはやめるー」と叫ぶでしょ? でも彼女は信仰を棄てなかった。そて、こう言ったんだ。「棄教するくらいなら死んだほうがいい」。僕はこのエピソードを聞いたとき、とても心を動かされた。彼女は、ホントの信仰を持っていたと。この女性は、死ぬための理由を確かに持っているんだと。


生きるための理由なら、誰でも、いくらでも見つけられる。でも、みんな死ぬための理由は持っていない。自分は何のために死んでいくのか。放浪のなかで、僕が考えていたことは、おそらく、「死ぬための理由」だった。もちろん、無意識だったけれど、冒険し続け、放浪し続け、限界までテストされることは、たぶん僕の魂が本当に求めていたことだったのだ。極端な体験をしなければ、奇跡はわからないと思う。


だから、スコットランドに戻っても、大自然のなかで働くことを選択した。庭師とかダイバーとか肉体労働だね。でも、また旅に出たくなる。スコットランドは暗い、つまらない、鬱陶しい……、また旅しなくちゃーって叫んだ。その頃読んでいたのは、鈴木大拙の禅の本だった。今まで出会った哲学や宗教と違って、ものすごくピュアなものを感じた。毎日、禅仏教の本を読みふけった。こんなシンプルな哲学があるんか……、すごい閃きだった。

〝もう絶対、日本に行かなくちゃ駄目でしょ〟


アバディーンの植木屋で汗まみれで働き、自然の風に吹かれながら、19歳の僕は決意していた。

それから、35年。ヒッチハイクでインドにも2回旅したし、アフリカ縦断もした。南米にも何度も行った。プロローグでも書いたけれど、バブルまでの15年間、日本に住み、ビジネスで成功もした。そして、2006年7月11日の朝、僕は四国お遍路の旅に出ようとしていた。日本に再び住み始めて6年目、54歳になっていた。3人の子供は独立し、妻も仕事をしている。会社を立ち上げ、本を執筆し、呼ばれれば講演をする日々だった。物質的にはなんの問題もない。けれど、僕には追究したい、いや追究しなくてはいけない謎があった。それは、3歳のときの不思議な記憶。ごく庶民的なアパートメントの5階に住んでいた僕は、洗い場がある中庭にひとりでよちよちと下りていった。ワックスで磨かれたリノリウムの床、階段を下りる自分の足先。いまでも鮮明に覚えている。3歳の自分を、外から見ている自分がいるようだった。と、突然、目の前の世界が輝きだした。信じられないくらいの光があふれていた。〝すごい綺麗だ!〟 そう思った瞬間、2000フィート上空に意識が飛んだ。遥か下に自分がいるのが見えた。視点が3つに増え、多次元になっていた。3歳のときにこんなふうに言語化できたわけじゃないけれど、それは物質的な風景ではなく、まさに天国にシフトした感覚だった。


「この光は、いったい何……」家族に聞いても、どんなに書物を調べても、わからなかった。これこそ、僕の人生の原点にある謎だったのだ。そしてもう一つ謎がある。僕の頭の中枢では、ある音が鳴り続けている。時折、強く高くなる不快な音。電気的な音とでも表現するしかない不気味な音。耳鳴りとは違う。12歳から突然鳴り始めたこの音は、医学的には解明も治療もできなかった。この厄介者とは40年以上付き合ってきた。ホントよく気が狂わなかったね、と思う。


50歳を過ぎて、この音が少しずつ高くなってきている。どうなるか、受け入れるしかないけれど、動かずにじっとしていると、ひどくなるのだ。何を意味しているのか、いつか消えるのか、まったくわからない。でも、少なくとも僕に与えられたギフトだと考えることにしている。だって、この音は僕にとっての十字架かもしれないじゃない? だったら、受け入れるしかないよね。たぶん、誰しもがそういう何かを背負っているんじゃないかと思うのだ。僕は、自分に問いかけた。「何のためにお遍路するんや?」と。答えはすぐに返ってきた。


「ハートを、魂をクリーニングするためでしょ。そのために歩く」それしかないのだ。日本には、「洗心」という言葉がある。まさに心のクリーニングだ。歩くことは、肉体的な鍛錬ではなく、きわめて精神的な問題なのだ。それも、日本最大の聖地をゆく巡礼だ。巡礼と言っても、仏教とかキリスト教とか、特定の宗派は関係ない。僕にとっての巡礼とは、「目的意識を明確に持って、祈りながら歩くこと」であり、「歩きながら祈ること」である。ならば、なぜ日本の四国なのか? それは、まさしく歩きながらお話しましょう。次章からは、僕の歩き遍路の旅を話しつつ、僕自身が体験してきた人生の神秘についても語っていこうと思う。

さあ、行きますよー。歩く祈りの始まりだ!


いいなと思ったら応援しよう!