現実とは。
「自分の中学卒業と同時に、生まれ育った故郷から引っ越して、自分たちの家を建てる」
それが母方の実家に居候して肩身の狭い思いをしていた両親の願いだった。
でも実際、それは叶わなかった。
自分の年から入試制度が前期と後期に分かれ、前期試験は作文と面接だけと言うとんでもなく簡単な試験になった。なのに学区内制度は継続していて、学区外の高校、特に進学校へ進学出来る人数は片手で足るぐらいに制限されていた。
ただ家族の意向もあったので、一応進学先としては地元の高校ともう一つ、学区外にある普通科の中でも入学後に好きな専門コースを選べる高校を挙げて学校見学にも行った。
結果的に校舎の広さと人数の多さに疲れて、地元の高校に進学したが。
(本当はもっと自由な雰囲気が強い単位制の私立高校も視野に入れていたが、「学費が高い!払えるか!!」と猛反対に遭った)
自分が通っていた地元の高校は総合学科で、高校一年の時点で進路を「就職か大学進学」に決めないといけない。就職を前提に二年生からの授業を選択すると、大学受験に必要な学科が時間数の都合で選択不可になるからだ。現に自分の理科は高校二年で終了している。
流石に専門学校の受験は最低三教科あれば可能なので、商業・情報系統の学科を選択した自分は専門学校への進学を視野に入れて授業を選択した。
待っていたのは、家族や親族からの罵言だった。
「あんたのせいで家建てれんなったがやけんど!?」
「あたしらぁ、いつまで経っても肩身の狭い思いせないかんがで!?」
「何で大学進学せんが?大学でもパソコンとか出来るやん」
「今からでも大学に進路変更せん?」
大学進学に関して言うなら、高校一年生の時点で進学クラスなのに五教科の成績がとんでもなく悪かったし、数学に至ってはクラス最下位。放課後の補習どころか、普段の授業にも付いていけない。おまけに地元の工科大学が私立から国立になったことで受験者が爆発的に増加。結果的に大学進学を諦めて専門学校に通うしかない生徒も数多くいた。
そこに追い討ちをかけるように文化祭の後片付け中にパニックを起こしたことでクラスにいられなくなった。周囲の目が怖くなり、どこからかバルーンアートを持ち出してきては毎日のようにからかわれる。教室にいるのが怖くなった。
でも、自宅にも居場所はなかった。「学校に行くことが当たり前」だから。
今の実家が建つ前、強盗に入られたことがあり、その対策として亡くなった祖父が洋室のドアに鍵を付けたことだけは幸いだった。
登校拒否自体は一週間程度だったが、保健室登校は二年生になっても続いた。五教科は下から数えた方が早いのに、情報と商業に関しては学年トップクラスと言う、あまりにもちぐはぐな成績に理解があるのは養護教諭とカウンセラー、それに放課後息抜きがてら、たまーに保健室に休憩に来る一部の先生だけ。家族と親族の理解は、ゼロどころかマイナスだった。
「SEとかプログラマーになりたい」と夢を持って進学した専門学校で、病状をさらに悪化させたことで、もうどうしようもない亀裂が入った。
「何で一般就職出来んが!?」
「こっちは貯金全部切り崩して学費払ったがぁで!?」
「何でパソコン関連の仕事に就かんがぁな!」
「就業支援事業所とか、おまん生活出来るがぁか!」
第三者である担任が白旗を挙げた親子喧嘩(口喧嘩)を経た上に、さらに環境適応に年単位かかる体質が故にまださらに紆余曲折・・・。
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