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普通に老いることができたなら
若いころは老いることなんて考えることもなかった。
子どもが小さい頃は、育てるのに必死で、老障介護になるなんて考える余裕さえなかった。
子どもは成長するものだが、障害はそのまま障害であり、いくつになってもケアが必要である。
子どもに障害が無かったならば、私は、ただのおばあさんになっていただろう。
西の魔女のように、不登校の孫を引き取るだとか、ご近所トラブルに巻き込まれるだとか、そういうことはあったとしても、おばあさんになれたはずだ。
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原作 梨木果歩
でも、障害のある子を持つと、いつまでたっても、障害者の母のままで、おばあさんにはなれない。
まあ、勝手な思い込みなんだけど、日当たりのいいサンルームで陶芸を楽しんでいるみたいな。(タイタニックです)
ある意味、いつまでたっても、お母さんをすることができて幸せなこともある。
生活介護の園にお迎えに行くとか、一緒に歩くとか、絵本を読んだりとか。
まさか、このようなことを、50歳の娘にしている人は少ないと思う。
たぶん、普通だったら保育園のころまでだと思う。
障害のある子を持つと、いまだに、このようなことが楽しめる。
そして、お医者さんや、福祉関係者には、お母さんと呼ばれる。
もうおばあさんなんだけどな。
つまり、子どもに障害があると、母親は普通に老いることができないのだ。
これは児玉真美さんが「私たちはふつうに老いることができない」という本にしっかり書いている。
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児玉真美
それでも、社会的には母親であっても、現実的には老いはやって来る。
「病気、けが、治療、入院、手術、死」などの言葉がいつも頭の中にある。
健康に注意して、もう何十年間も、熱ひとつださず、寝込んだことがないという私は、健康というよりは、異常なんだと思う。
これは結構危険なことだ。
常にピーンと緊張の糸を張っているわけだから、ものすごいストレスが、私にはかかっているはずなのだ。
そのことも十分わかっている。
だけど、ただのおばあさんにはなれない。
できることといったら、もしも私が緊急入院などの事態なったら、長女を受け入れてくれるショートステイ先の手続きをしておくことぐらいだ。
いまや、ヘルパーはものすごく不足していて、新規申し込みを受け付けない事業者さえ出てきている。
崖っぷちぎりぎりである。
だから、ご近所さんや、生活介護の職員さんや、そして、きょうだいなどの縁を大事にしておくことだ。
ヘルパーだけに頼るのではなく、周りの、人々を巻き込むことだ。
きょうだい児などという言葉はあるが、我が家のきょうだいたち(妹たちだけど)はとても素晴らしい。
ひとりひとり、尊敬できる素敵な女性たちに育ってくれた。
ありがとう。母としては感謝しかない。
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